小説の主人公による語り 3
んー。なんかさっき鳥の一番が、葉に隠れた奥の方からすんごい速さで飛んでってね、そいつと同時に椛の梢から白いアレらしいものが僕の顔面に落ちてきたんだよね。夜になるってのに元気だよなァ。ともかくいきなり顔に落ちて来たものだから驚いて地面に転げ落ちて、無事に当たらずには済んだのだけれど、奇怪なことに、長椅子には何の跡も残っていないんだ。下の方も覗いたけれどやっぱりなかった。
不思議だよね。何せ結構大きかったからね。大したことじゃないんだけれどさ。僕の日常を脅かす何物かでもなさそうだし、まあ、日常が潤ったという点では変化があったのだけれど。
結局一日費やして公園に寝そべっていた訳だけれど、何の励ましにもならなかったな。あのもやもやは未だに消えてない。仕方がないので風呂に入ろうと思う。少しはすっきりするだろうからね。
という訳で最寄りの銭湯へと遥々。煙突からもくもくしている。
「サウナもね」番台に銭を放る。紅い暖簾を尻目に脱衣所へ。
脱衣所、何だか賑わってるねえ。今日は良い薬が入ってるのかな。
あっという間に裸になった僕は風呂場へ直行した。
扉を開けたら、脱衣所に幾人も勝る数の紳士が、ある湯船の周辺に群がっていた。他の湯船と比べずとも明らかに人数が多い。あそこは確か、水風呂だったよなあ。どうしてそんなところへぞろぞろと……取り敢えず掛け湯。
その内きうきうになった贅肉の狭間から、水風呂がちらと覗いた。ん、何だアレは! ただの水じゃない? 輝いて見えたのは気のせいかな。どれ僕も加勢してみよう。むう、押すなよ旦那。
旦那の肩の上から漸く見えた。その本来ならばちべたい水が並々する湯船には、金色の湯が入っていた。光り輝いている! 誰もが我先と、その湯へ入ろうと押し合いへし合いで、僕は戦慄でケロリンを落としてしまった。
「旦那、これはどういうことでっしゃい」
「知らねえだ俺も来た時にゃこの有様でよ。ただ先に出てった奴のいうに……そいつはここらの名湯会の副会長らしいんだが、疲れが悉く、ダンカイテキカツエンカツに抜けて行くんだと。こんな素晴らしい湯は初めてだあ神の湯だあつって喚いてたぜ」
そいつぁ一度入ってみたいねえ。今日は不思議なことが色々ある様だけれど、こんなに楽しい気分になるのは幾年振りだろう。
と、身体がひょいと持ち上がった。
「ちょっと何するんですかくすぐったい」
「あんた、入って見るかえ」
「ええそりゃあ是非堪能したいことですなあ」
「おおしじゃ、入れてやんよ!」
旦那は僕を担いだまま洗い場の方まで下がって、かと思えば全速力で走り出した。
「およよよよ」
いつとなしに旦那から手が離れ、只今僕、飛行中。意識などしていないのに両手を大きく横に伸ばし、脚をプリエみたくしてしまう。大衆の頭が視界の下に消えて行き、遂に金色が姿を現した。本当はいつまでもここで止まって見物したいんだけどね。そうするとギャラリ達の邪魔になっちゃうからさ。それこそギャラリープレイを見せつけることになってしまう。僕は仕方なく、金色の湯へ落ち込んだのだ。勢いよく顔から突っ込んで、その周りには飛沫で金環が浮き上がった。
大空を飛び廻る願いが叶って良かったねえと諸賢は思っているかも知れないけれど、なんか違う。
湯船から顔を出した時には浴場全体が閑散としていた。丸い目でこっちを見ている。ええいこうなったら背に腹はかえられぬ。ぺったりくっついた前髪を後ろに掻き揚げ、僕はそこへ胡座をかいた。するとここにいた人達が次々と湯船を変えて、遂には独り身となった。果たして僕はこの金の海を掌握したのである。あ、旦那も消えやがった。
僕としては、半ば強制的ではあったけれど、大変なリスクを冒して手に入れた湯であり、他に誰も入って来ないというのだから、浴場諸賢のお言葉に甘えさせて戴くことにしようと思うよ。
さて、肝心の風呂の方だけれど、これまで体験したことのない快楽で、なるほど副会長のお言葉はこれを巧みに表現していることだなあと感じるよ。加えて言うなれば、願わくは委細構わずこのまま外へ出て、川沿いをまっすぐ全力で駆け抜けたい気分だ。こうやって暢気に話しているけれど、今まさにその真っ只中だからね。相当我慢しているんだよ。元気は溜まり過ぎると腐ってしまうから、早いうちに消化しておかないと。
しかし不思議なことに、走りたいのにこの湯から出られないんだよ。もとい出ようとすることができないのだな。元気が湧いてくると同時に快楽も湧いて出るから、もっと入っていたいという欲が出て来てしまったらしい。二つ巴で互いに阻止している感じ。
更に両者の啀み合いが、巧まれたるシナジー効果を醸成して溜飲がみるみる下がって行く。
あれ、さっきまで何で悩んでいたんだっけかな。