大学生による夢の奪還劇
視界の端にあったその糸瓜を一瞬認めただけではあるが、それが糸瓜たらざるものであると、それが他でもなく人間であり他でもなくあの内野井先輩であると、我が神経の末端から末端に至るまで、思わずにはいられなかったのであった。
なぜなら、その糸瓜には無精髭が散らされていたからである。
私は無精髭の糸瓜姿をしげしげ見つめている内に、何だかだんだん笑いが堪えられなくなってきた。
というよりよく見てみれば糸瓜でなく、いつの間にか私は、私以外の人が陥れば恐らく失神してしまうであろう超至近距離で内野井と見つめ合っていた。大きく仰け反って、また尻を打った。
「御見事」
「そちらこそ見事な糸瓜っぷりでしたよ」
「悪かったな、急いでいるのに」
「微塵も思っていないこと言うもんじゃありません」
「したり。それはそうと持って行くが宜しい。本棚の裏の扉に貴君の戦勲がある」
何だってそんな偏屈なところへ仕舞うのだろうか。先輩の性癖に対する一生払拭せられざらん疑問を更に募らせつつ、本棚を退けて、杉らしい手作りの板戸を開けた。
内野井の財布を手に入れた私は彼の部屋を後にした。
彼との接触が危険牌となってしまったのはちと想定外であった。今思うに昼間弄っていた奴は糸瓜仕掛けの準備であったのに違いない……空には既に、紅色はない。
そうしてアパートの階段を踏み込もうとした時、急にぷあっと身体が軽くなった気がして踏み外しそうになったのを身構えていたら、気付いた時には脱兎の勢いを以って走り出していたのである。器用に階段を滑り降りる自分の脚に原動機なんかがくっついているのではと疑った程であった。信号機とは何だ、そんなもん知らん! と言わんばかりに交差点を突っ切り、警笛が耳を劈いた。速度は緩まるどころか大きくなる一方であった。
飲食店の看板装飾の灯りが浮かび上がる中を走っているのは不思議と怖くない。速度に比例して、走れば走る程底知れず心が躍るのであった。あまりに心が躍ったので、全力疾走しながら夜空を仰瞻して高笑いするというオチャメな姿を野晒しにして、万目に優しく見守られた。
私は携帯電話を取り出して、彼女の連絡先を調べた。そして永劫押すことができないとさえ思われた受話器を象る釦を押した。呼出音の時間は長かったが、根気良く待ち続けると漸く繋がった。彼女の返答を待たずして無我夢中になって叫んだ。
「「金合歓」、判るね、路地裏にある。あの店の螺旋階段の途中、立入禁止の高架通路に乗り移って、そこで待ってて! 今すぐ!」
『はい? ずうっと待たせておいて開口一番に何よ! 何だってそんな辺__』
「頼む」
再び受話器釦を押した。
次に私は花屋へ駆け込んだ。金銭登録器脇に飾られている印象的な紅の花を指差して店員に花束にする様に請うた。
彼女は現在、急な出来事に当惑しているに相違ない。だから待ち合わせに来るとしても相当に悩むことであろう。花束にする時間は十分ある。伊達に恋人をやっちゃあいない。
数十分後、私は柔らかい半透明紙に覆われた花束を受け取り勘定を済ませて店を出た。
尚も我が脚は止むに止まれぬ気概を呈すかの如く、目紛しく膝を揚げたり提げたりしていた。
尚も我が心は「金合歓」が近付くにつれて凄まじい迫力で躍り、もし観客がいらっしゃったならば拍手喝采を送られることであろうと思われた。
尚も私は息の切れるのも我知らず、我武者らに走り続けた。
そして「金合歓」の前まで来た私は一段飛ばしで螺旋を登り、欄干のアクリルの割れた硲から身を乗り出して、錆色の斑く鉄製の通路を静かに進んで行った。
彼女は空を仰いでいた。
紅い長外套に身を包んでいる。
軈て私に気が付いて振り返った彼女の目は訝し気であった。
「何のつもり」
「君の笑顔を拝みたくなってつい」
「それは何、モノで釣ろうと言うの」
「とんでもない。献上品でございます」
「ふん、媚売りの様で厭だわ。或いは遅れたプレゼント?」
「そんなことはない。本日が記念すべき日になることを願って、そして然りし暁の祝賀の花だ」
私は花束に懸かっていた紙布をありったけ麗らかに取り去った。
しかし彼女は目もくれず、月を遠く望むばかりである。
「今日はお月様が紅いのね。きっと神様も貴方をお許しにはならないのよ」
なんて甲斐性も見る目もない神様だろうか。人を見た目で判断する様な神様の風上にも置けぬ神様に違いない。私と彼女の間にも厄介者が居憑いたものである。
しかしさて、困った。彼女は譲歩する気配を猫の額の毛頭程も醸さない。
「悪かったよ、今度パンケーキ奢るから」
「だからそういうのが厭だって__」
彼女は怒気の籠もった言葉を急に詰まらせた。目は私をしかと捉えているが、口元が細かく震えている。一体どうしたと言うのだろうか。
「もしもし、如何なさったの」
彼女は口元に手を添え始め、一歩二歩と後ろに下がった。どうやら何かを頑張っているらしいので、私は彼女に精一杯応援の言葉を送った。
「何を頑張ってるか知らないけど、とにかく頑張って!」
力一杯の声援を受けて彼女は噛み殺し袋の緒が切れたらしく、腹を抱えて呵々大笑した。その嬉々とした笑い声は、この冷たい鉄の通路から夜の街中に響き渡り、凡ゆるサブスタンスをぽっかぽかに温めてくれたことであろう。私はその姿をただ呆然と見守るばかりであった。
「あのう、差し出がましい様だけれども、どうしたの」
彼女は未だに笑いを含んだ声で話し始めた。
「いやあのね、ロイド君の頭に、その……鳥の糞が」
「え嘘」
頭を確認しようと咄嗟に手を伸ばそうとしたが、花束が邪魔でできなかった。彼女がそれに気づいた。
「ああこれ、綺麗なポインセチア。貰ってもいいの、かな」
「ええ勿論」
「……ありがと」
漸く思い出した。この花の名前はそんなだったか。
それにしても、私は今頭に乗っていると彼女の言う鳥の糞如きに、私の趣味で負かされたのである。どうにも腑に落ちない。こいつはなかなかできる糞だな。
「何か変に何日も無視したりしてゴメンなさい」彼女は低頭してまた花の方に話を戻した。「私が話したのを覚えていてくれたの?」
「うん、まあね」
「でもね、これはクリスマスの象徴の花なの。ちょっと早かったねえ」
おっとしたり。他の花の方が良かったか。
「ううんでもでも、これにはもうひとつ花言葉があって」彼女は数歩前へ出て囁いた。「『私の心は燃えている』。熱情的で良いでしょう? だから貴方の熱情も伝わって来た、ということにしておく」彼女は咲った。
「そそそれは光栄だ」
頰は紅く、頭髪は白く染まってしまったが、縁起が宜しそうだし、取り敢えず彼女の咲顔を見られたのでこれ以上望むと言うのも紳士らしくなかろう。
その後、螺旋階段を降りる際に「金合歓」の御主人にばったり出会し、彼女とふたりしてたっぷり叱られた。ふたりである分、呵責も半分つになる様に思われて、少しだけ暖かく感じた。
帰途についた頃、私は内野井から預かった財布を失くしていることに気がついた。しかしそれさえももはや笑い事であった。精々従前の懲罰だと思って戴こう。
私は往き道にも増して、夜空に高笑いをするのであった。




