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うしろのしょうめんだあれ  作者: るかひ
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最終幕『うしろのしょうめんだあれ』

    最終幕『うしろのしょうめんだあれ』



 訃報を知らされたのはパーティの翌日の夕刻だった。

 (かい)の国の王子が亡くなった。

 共に撤収する予定だった、国境警備に配属されていた自軍の兵士に誤って射殺されたという。他に護衛の兵士三人の死亡が確認されている。

 オルハさんの自室でロロはそのことを聞かされた。

「発砲した兵士はまともな精神状態ではなかったそうだ。戒の国の王城からは国王の遺体が見つかって、暗殺を謀った王子を国王の亡霊が呪い殺したんじゃないかという噂まで流れている」

 呪い。そんな不確実な噂が広まるのも無理はない。

 王子の遺体は左腕がなかった。

 撃ち殺された四人の遺体は、まるで何かを暗示するように、それぞれ手足が一本ずつ、もぎとれていたという。

 オルハさんはそこまで一息に捲し立てると、はっとしてロロを気遣った。「すまない、大丈夫かい」

 ロロは何も言わず首を縦に振った。

 嫌な予感がひしひしと米神を絞めつける。

 味方の発砲。

 兵隊ごっこ。

 四人の、死。

「オルハさん」ロロは震える声で訊ねた。「遊び狂いの兎って、知ってますか」

 青白い顔でオルハさんは頷く。「この国に古くからある伝承だ。諸説あるが、凪の国の宗教が双神教であるのは、遊び狂いの兎に囚われた双子の魂を祀る意味から始まったというのが、最も有力とされている」

「歌は」

「歌・・・・・・?」

「知らない、んですか」そんなはずはない。ロロは無意識に喉元を押さえる。「でも、城下に出ると、子供たちが、いつも・・・・・・」

「いいや」

 オルハさんは至って平坦な口調で言った。

「知っているよ」

 愕然とした。

 知っているのに。

 気づかないのか。

 耳の奥に響くけたたましい笑い声。

 いけない。ロロはオルハさんに縋りついた。一刻も早く王様に会わなければならないと思った。ほんの一秒でも遅くなれば、きっともう。

 永遠に失ってしまう。

「君を呼んだのは俺だ」オルハさんはロロの両肩を掴み、真摯な瞳を向けた。「国境の教会から届いた一通の手紙を、俺は頼った。陛下を救うには、君を・・・・・・ある一族の血を引く君を、陛下の傍に置くしかないと。それが・・・・・・それが、俺が君についた嘘だ。君は、召使いとして出稼ぎを命じられたんじゃない」

「そんな、こと、言われて、も」

 ロロに。

 一体、ロロにどんな力があるというのか。

 遊び狂いの兎の歌に巻き込まれた、たくさんの命は、もう失われてしまったのだ。

 何の役にもたたない。ロロは、何の役にも。

「陛下の」

 そうして絞り出したオルハさんの声は血煙を纏っているようで。

「陛下の、本当の名前を、教えてあげる」

 彼を救えるのはもう、君しかいない。



 陛下は寝室で休んでいる。

 オルハさんの言を頼りにロロは廊下を急ぐ。

 聴覚を失ってしまったかのように音がなかった。無音の圧力が鼓膜にかかりびりびりとしなる。

 おかしい。

 ロロは足を止めた。

 さっきまでてんやわんやだった廊下に人一人いないなんて。まるで城を覆う闇に、みんな食べられてしまったみたいだ。慎ましい月明かりが窓から差し込みロロの行方を照らしている。ロロはぞっとして走り出そうとしたが、ふいに聞こえた甲高い嬌声に振り返る。

 廊下の角。

 くすくすと無邪気な笑い声に吹かれて揺れる、血の滴る、長い、耳――。

 脳裏に不吉な旋律が甦った。

 僕と一緒に遊びましょ。

 ロロは弾かれたように駆け出した。誰か、誰でもいい、人に。どうして、と叫びそうになった。どうして誰ともすれ違わないのか。そんなはずないのに。

 笑い声はついてくる。

 どんどん大きくなる。

 もう。

 ロロの真後ろに。

 追いつかれる。身を縮めかけたロロは前方への注意が疎かになった。

 誰かにぶつかった。

 頬を掠める血のにおい。

「いやあ!」

 離れようと懸命にもがいたロロは、しかし抱きすくめる腕をよく知っていた。借りてきた猫のように大人しくなっておそるおそる目の前の人物を見上げる。奇妙に溌剌と輝いた淡緑色の瞳。

「捕まえた」

「お、うさ、ま・・・・・・」

 ロロの体に回った腕に力がこもる。

「一人でおにごっこか」くす、と王様は笑う。「ちゃんと鬼を決めとかないと、永久に逃げ続けることになるぞ」

 開いた口が塞がらないロロに王様はしかめっ面だ。

「何、幽霊でも見たような顔して」

 後ろを振り返ろうとしたら阻まれた。擦れ合う額と額。降ってきた口づけをロロは拒む。

 誤魔化されるわけにはいかない。

 今しかないのだ。

 今を逃せばきっと、もうこの人とは――。

 ロロは声を振り絞った。「王様、わたし、訊きたいことが」

「・・・・・・へぇ」

 浮かんだ薄笑い。ロロの背筋が粟立つ。

「遊ぼうか」

 するりと王様がロロから離れた。

「俺を捕まえられたら、教えてやるよ」

 遠ざかる姿に駆け寄ろうとした。足が震えてたまらず転倒した。どうして。ロロは何に怯えているんだろう。知りたくないのか。真実を。それとも。

 彼が、恐いのか。

 床に膝をついたロロを王様は嘲り笑う。楽しそうな表情からは何も読み取れなくて。虚しさばかりが胸に積もって。

 もうやめて、と叫んでしまいたかった。

 そんな風に笑うのは。

 もう。

「ふざ、ふざけ、ないで、ください」

「ふざけてなんかねーよ。遊んでるだけ」

「同じじゃないですか・・・・・・!」

 心外だ、と王様は唇をひん曲げた。「一緒にするな。遊戯とおふざけは全くの別物だ」

「だったら」ロロは歯を食いしばった。「だったら答えて!」

 王様はからかうように揺らしていた体を止めた。ロロは立ち上がれもしないまま、顎を逸らして長身を見上げる。

「王様のお父様は、谷底に落ちて亡くなったんですよね」

 そうらしいな、と王様は肩を竦める。

「お母様は――」

「呼吸困難。病気で」何でもないように彼は言った。まるで他人事だ。ロロは悲しかった。悲しくなった。それでも訊くのか。それでも訊ねるのか。傷口を抉るような真似をしてまで、ロロは。

 わからない。もう、何も。

「火事は・・・・・・二度・・・・・・起きて・・・・・・」

 先王の正妻と二人の息子は火災に巻き込まれた。ロロは思うのだ。ただの勘でしかない。けれど。

 十数年前の火事は失敗だった。

 原因はわからない。

 そして、その再現が――ラバナ達を。

 そのままじゃないか。

 どうして誰も気づかないのか。その存在すら掴めていない素振りで。あるいはそれこそが遊びの一環なのかもしれない。誰にも気づかれないよう、駒を進める、遊戯の。

 一連の死はある歌に関連している。

「王子様、は・・・・・・っ」

 王様が唇の端を吊り上げた。

「お前さぁ・・・・・・遊び狂いの兎の歌の――五番、知ってるか」

 知らない。

 そんな話、聞いたこともない。

 ロロは首を振った。王様は終始、楽しげだ。

 誘うような甘さを含んだ声が、禍々しい詞を歌いあげる。


 もう間に合わないかもしれない。

 傍にいたいなんて、我儘、言わないから。

 この人が、笑って、心の底から、笑っていられる日々が、どうか、この世界に神がいるのなら、ロロはまともな信仰心を持ち合わせていなくて、虫の良い話かもしれないけれど、祈りを捧げる存在は他に知らないから。

 どうか。

 ロロは彼の名を――。



 ロロは彼の名を呼ばなかった。

 呼べるはずがなかった。

 絶望に絶望を重ね、嘘で塗り固めてしまった彼の心の傷を、これ以上、抉ることなど。

 真実は人それぞれだ。

 本当の現実がその人にとって真実であるとは限らない。そうでないといけないなんてこともない。気づいてる。きっと。この人は聡明だから。嘘を嘘と認めながら嘘をついている。そんな気がする。

 ノウァレト・イェ・ハミューナ。

 堕ちた天使の災厄。

 それが弟である彼の、本当の、名前だ。

 ねえ、王様。

 ロロの頬を一滴、涙が伝った。

 どうして、王様は、お兄さんの名前を名乗ってるんですか。

 声に出さず訊ねたロロの涙に打たれたように王様が硬直する。

「何で」王様はゆるゆると後ずさり、ロロから距離をとった。「何でお前が泣くの」

 どうして俺はお前を泣かせてしまうの。

 王様はふらつく足に抗わず座り込んだ。「・・・・・・帰れ」

 彼が何を言っているのかわからなかった。自分が何を言われているのかわからなかった。

 畳みかけるように彼は言う。きつい口調ではなかった。けれど、抵抗する余地のない声音だった。「お前、帰れ、教会に。元いた場所に」

「何、で」

 ロロは王様に掴みかかった。

「何でそんなこと言うんですか!」

「何でも何もないんだよ!」王様はロロを押しのける。「言わなきゃわかんねーってんならはっきり言ってやるよ、邪魔なんだ、お前は、いらないんだよ、行けよどっか、どっか行っちまえ、じゃないと、じゃないと俺は――」

「ロロは、どこにも、行きません」

 行ってなんか。

「行ってなんか、やらないんだから・・・・・・!」

「お前がどこかで生きてれば」王様は両手で顔を覆った。「いいんだ、俺は、壊したく、ない、もう、駄目なんだ、俺は、あいつを、止められない・・・・・・っ」

 ロロは表情を隠す王様の腕を引いた。強い力は必要なかった。ほっそりした顎を手の平で包み、身を寄せ、口づけた。額に、瞼に、目尻に、頬に、上唇に、顎に。

「よせ」

 ロロの肩を押す手は弱々しい。

「やめてくれ・・・・・・っ」

 口づけを落とすたび、翡翠を閉じ込めた瞳から雫が零れた。傷口から膿を絞り出すように。胸の奥でつかえたしこりが少しずつ溶けるように。

「何でだよ」ロロの右頬を王様が撫でる。嵐の夜の前、勝手に触れたロロに逆上し、彼が拳を振るったところだ。「今までだって、何度も、何度も、嫌な目に、あって、何で」

 ロロもずっとわからなかった。

 けれど今なら言える。

 きっと、わだかまって喉を塞いでいた想いが、その答えなのだ。

「好きなんです」

 ロロは。

「ロロは、王様が」

 思えば。

 わたしたちはどちらも、この言葉を伝えたことはなかった。

「大好き・・・・・・っ」

「ば、かじゃ、ねぇの」滲む声。「おめでたいよ、ほんと、馬鹿すぎて、こっちまで、頭、おかしくなる」

 お前のせいだ、と王様は泣いた。

「お前のせいだ。お前の――責任、取りやがれ」

 ロロは王様の下睫毛にそっと触れ、拭いきれない涙を指に絡めた。

「はい」

 この時のロロはあまりにも愚かだった。

 触れられたような気がしていた。どこにあるかもわからない彼の心に。理解したつもりでいた。何も知らない彼の過去を。

 こうして声を聞くのが最後になるかもしれないなんて、想像もしていなかったのだ。



   * * * * *



 柔らかな日差しが降りそそぐ、よく晴れた日。

 場違いなほどのどかな昼下がりにその事件は起きた。

 零落した貴族が一丸となって、大挙として城に押し寄せてきたのだ。

 彼らはある人物を擁立した。

 美しい王家の紋章を左手に宿した、その人を。

 

 今まで使っていた自室とは比べ物にならないほど広く立派な部屋を与えられ、豪奢で煌びやかな召し物を用意され、何時間も下準備をして拵えた食事を配膳された。部屋に閉じ込められて何日がたっただろう。ここには何もないと思った。華美な調度もひらひらのドレスもただ鬱陶しいだけだった。顔も知らぬ人間の作る料理など喉を通るはずもなかった。服を床に捨て、肌着だけ身に着けたまま、ロロは部屋の隅でずっと膝を抱えている。

 一体、何が起きたのか。

 何の説明もないまま、ロロはただ流されて、こんなところで蹲っている。

 期待している。自分は。

 あの扉が開くのを。

 なびく紅の頭髪を。

 もう涙も枯れ果てた。

 喉はからからに乾いている。

「ロロ」

 聞こえてきた声にロロは悲鳴を上げた。おかしくなってしまいそうだった。狂ってしまえたらいっそ楽だと思った。ロロ。彼の声がロロを呼ぶ。彼とよく似た声が。彼そっくりの声が。

 でもまるで違う。

 これは彼じゃない。

「ロロ。駄目じゃないか、ご飯はちゃんと食べないと」

「来ないで!」

 肩に触れた手を振り払い、ロロは頭を抱えて壁に額を押しつけた。目を閉じて耳を塞いだ。逃げようにも退路はない。ロロは逃げられない。

 ロロ。

 何度も呼ばれる名前。

 まるで知らない言葉のようだ。

「このままじゃ死んでしまうよ。お願いだから、水分だけでもとってくれないか」

 新王の優しい声音にロロは返事をしなかった。小さな溜息がロロのうなじを撫でて怖気がした。

「どうしても、僕じゃ駄目?」

 ロロは答えない。また零れる吐息。

「俺ならいいわけ」

 ロロは振り返った。同時に、細いフレームの眼鏡が床を打った。ロロのやつれた頬に深く食いこむ指。目を落とすと、暗闇の中でも微かに発光する左手の甲の紋様。王家の印。頂点に君臨する権威の象徴。

 綺麗だ。

 美しすぎて涙がでる。

 もう枯れたはずの涙が。

「会いたい」喉を通る空気の泡。ひび割れた唇に血が滲んだ。

「何」先の少し尖った耳がロロの口元に忍び寄る。「もう一度」

 会いたい。

「会いたいよぉ・・・・・・っ」

 涙がはたはたと宙を泳ぎ、淡い輝きを放つ左手の甲を潤した。

「し」

 ロロの唇を人差し指が塞ぐ。

「静かに」

 ロロは逆らえなかった。逆らう気力も湧かなかった。

 耳を澄ましてごらん。

「聞こえないか――ほら。喜んでいる。歌っているよ・・・・・・兎が」

 陶酔した目。爪先から痺れるような恐怖が這い上がってきて、反射的に身を引こうとしたが無駄だった。きつく掴まれた顎が軋む。穏やかな声音と物腰が逆に迸る激情を際立てているように思った。恐い。この人は。恐い。

 新王は床に放り捨てた眼鏡を拾い、掛け直した。そうしてロロの顔を覗き込もうとする。ロロは目を逸らす。

「どうして僕の目を見ないの」

 ぐっと近づいてくる顔。

「好きだったんじゃないの、この顔」

「違う」ロロは反射的に叫んでいた。「全然、違う」

 王様はこんな風に値踏みするような目を人に向けたりしない。明確な悪意を持って褒め言葉を言うような人じゃない。

 気に入らない、と新王は呟いた。

「何か勘違いしてない? あんたさぁ」

 顎を捉えていた手の平がそのまま滑り、ロロの首に回った。右手も添え、両手で握り潰されそうな圧力にロロの体が傾ぐ。「あ・・・・・・っ」

「あんたのせいだよ。わかってるの」

「あ、う・・・・・・」

「忘れようとするから。あんたのせいで、あいつが僕を忘れようとするから。だからだよ」

 可哀想にね、と新王は無邪気に微笑む。

「暗い暗い地下牢で、震えているだろうね、彼は今頃」

 どうやって決めたと思う、と新王はロロに問うた。「僕らは同じ存在から同時に生を受けた。兄も弟も関係ない、区別なんてつけようがない。それなのに・・・・・・どちらが地獄に堕ちるか、先王は、どんな方法で決めたと思う」

 ロロは答えられない。酸素を求めて喘ぐも、泡一つ流れてこない。

「じゃんけんだよ」

 みし、と骨が軋んだ。ロロの首か、新王の手首かは、わからなかった。

「ぐーを出すかちょきを出すかで、僕らの命運は定まった」

 だから。

 だから王様は、あれほどまでに。

 勝つことに、こだわって。

 負けを許せなく、なって。

 新王は音を立ててロロの額に口づけた。「死んじゃえばいい」

 みんなみんな、死んじゃえば。

 白い光が弾けた。意識を失いかけたロロに襲いくる大気の奔流。喉が解放されたのだ。

 覚えがある。

 前にも一度、首を絞められた。

 ロロは激しく咳き込んだ。蔑むような視線を肌で痛いほどに感じた。

「僕らは一つで二人」

 新王は囁くように言う。

「それなのに、ねぇ、あんたは彼を受け入れるのに僕は拒絶するの。僕がいらないなら、彼もいらないよね、ねぇ?」

 鳩尾を深く靴の先が抉った。ロロの肩が跳ねた。床を汚したロロの顎を繊細な指が掴む。

「あんたからはどこを貰おうかな」

 つ、と睫毛をなぞられて怖気が走った。

「いいな、その赤い瞳。兎にはぴったりだ」だけど残念、と新王は肩を竦め、「両目はもう貰っちゃってるんだ、三匹の子豚から。耳と前歯もね。哀れな蛙の王には器を。ヘンゼルとグレーテルには魂を。玩具の兵隊には手足をいただいた。あとちょっとで完成するはずなんだけど・・・・・・何が足りないのかなぁ」

 頭が追いつかない。この人は何の、話を。呆然とするロロの鼻先に銀色の閃光が突きつけられる。

「もう時間がないんだ。兎も待ちくたびれてる。ちゃぁんと遊んであげないと。兎は寂しいと死んじゃうんだよ、知ってた?」

 ゆらゆら揺れる切っ先から目が離せない。

「とりあえず・・・・・・そうだなぁ。あんた、鼻が利くんだっけ。削いでいい?」

 焦らすように近づいてくる刃。毛穴の一つ一つをくすぐる動きは遊んでいるようだ。そう、きっとこの人にとっては遊戯にすぎない。どれほどの犠牲も。盤上の駒でしか。

 ロロは無意識に胸元を掴んだ。

 熱い。

 ロロの瞳と同じ石が、手に貼りつくような熱を帯びている。

 新王は視線だけ落とし、ロロの手の動きを追った。そうして、ああ、といやらしく口角を上げる。「まだ大事にしてたんだ」

 ナイフで鎖をすくい、肌着の下から浅緋の輝きが現れる。鮮やかだった色彩は淀んでいるように見えた。濁りが増してどろっとした質感は、まるで静脈を流れる血のようだ。

 新王は鎖を引き千切り、ロロから石を奪った。

「返して・・・・・・!」

「やぁだ」くすくす、と幼子のように笑う。「もういらないでしょ、こんなの。顔も知らない死んだ親の形見なんか身につけてどうするの。余計に虚しくならない?」

「返してってば!」

 飛びつこうとしたロロを新王は刃で牽制した。目前に突きつけられる鈍い切っ先にロロは恐怖で竦んでしまう。

「こんなものが・・・・・・あんたを、縛ってるんだよね」

「え・・・・・・?」

「生まれが何だっていうんだろうね。たまたまその時その場所に産まれただけで、どうして、生の使い道を定められなきゃいけないんだろうね。バカみたい、ほんと」

 新王が千切れた鎖から手を離した。石が絨毯に吸い込まれる。ロロは身を低くして這うようにして膝で歩き、十七年共に過ごしてきた想いの結晶に手を伸ばした。

 指の先で石が粉々に砕けた。

 新王の振り下ろした刃が石の中心を的確に穿っていた。

 くは、と嘲り笑う声。

「こわれちゃったね」

「あ・・・・・・」

 散りばめられた破片の一つにおそるおそる触れた。引き抜いたナイフに付着したどろりとした粘液が糸を引く。ロロは両手でそれらを包み、でも、どうしたって、元の通りには、もう。

 大切なものが流れ出ていくような気がした。

 同時に、重く苦しいものが胸に濁流のように押し寄せてきた。

 ああ、と思った。これが。この感情が。

 彼を、苦しめているのだ。

 喉が張り裂けそうに痛かった。自分が叫んでいるのだと気づいた時には喉は充血していた。それでもロロは吼えた。涙は出てこなかった。不思議と。

「なぁに?」新王は迷惑顔で舌打ちする。「うるさいなぁ。何を嘆くことがあるの。僕は君を解放してあげたんだよ。それともなに、喜んでるの」

 慟哭するロロに新王は苛々と前髪を掻き上げる。「・・・・・・もうよして。むかつく、なんか」

 ロロには自身の咆哮しか聞こえない。

「よせって、言ってる」

 新王が右足を振った。横っ面を蹴り飛ばされたロロはもんどり打って寝具の足に頭をぶつけた。右手の内でくるくる短剣の柄を弄びながら、新王が歩み寄ってくる。

「はーぁ、これは調教するのは骨が折れそ――」

 ぱた、と真っ白い絨毯に赤が跳ねた。

「い、た・・・・・・い」

 ロロは額に手をやった。ぬる、と滑った。

 ぶつけた拍子に皮膚が裂けたのだ。

「あ・・・・・・」眩む視界でもはっきりとわかるほど、新王の顔が歪んだ。「ロ、ロ・・・・・・?」

 新王がよろけた。指が弛緩し、短剣が手をすり抜けた。左手で顔を覆った拍子に眼鏡が落ちた。むちゃくちゃな力で髪を掴んで後ずさりする。苦しげな呼吸。

 いやだ。駄々をこねる子供のように新王は頭を振る。いやだ、もう、こんなの、いやだ、こんなの――。

「誰か」

 悲鳴のような声。

「誰か、俺を止めてくれ・・・・・・っ」

 ロロが目を見開く先で、彼は床に転がる短剣を掴んだ。

 刃先は真っ直ぐに、自身の喉元へ。

 駄目。

「だめぇ!」

 ロロは無我夢中で彼の手から短剣をむしりとった。刃が手の平を滑るのも構わなかった。彼は絨毯の質の良い毛並みに描かれる無秩序な紅い斑模様を見て放心した。

 そうして、掠れた声で言った。「蒼い髪の騎士の部屋に、二人とも、いる。手当て、してもらって」

「でも」

「平気。僕はもう平気だから」

 行って。

 もう何も聞きたくないと言いたげに耳を隠して背を丸めた新王の様子に、ロロはそれ以上、何も言えなかった。もう平気だとこの人は言うけれど、どうしても心配だったので、短剣だけは持ち去ろうと思った。口元を拭い、目に入りそうになった血を払って、足音を立てないように部屋を後にした。



「どうなっちまってんだろうな」

 ロロの手に包帯を巻くラナシさんがぼそりと呟いた。いつも溌剌とした瞳は翳りが濃い。目の下には薄いクマができていた。これからもっと濃くなっていくのだろう。

 ロロ達三人は今、オルハさんの部屋で机を囲んでいる。

 オルハさんはラナシさんと比べ物にならないほど憔悴しきっていた。生気のない痩せこけた頬は力なく垂れ下がっている。乱れた頭を抱え、先程からテーブルクロスの虫食い穴を一点に見つめたまま身じろぎ一つしない。ロロが部屋を訪れた時は、いつもの心配顔でロロの怪我を案じてくれたのに。

「貴族の奴らの顔ぶれ、見たか。前にあいつに爵位を剥奪された零落どもの集まりだ。情けなんてかけずに、さっさと首を刎ねちまえば良かったのに。生活の保障までしてやるなんて、あんのお人好しが・・・・・・。毎月、山のように送られてくるみみっちい嫌味がてんこ盛りの挨拶文なんて可愛いもんだった。それがまさか」深い溜息。「行方不明だった王族を見つけてくるなんて」

 ラナシさんは項垂れた。

 零落貴族が擁立した人物。

 ノウェルス・ジュ・フォラトーネ新王陛下。

 王様の――実の兄君だ。

 突然、現れたノウェルス殿下を、貴族は新王に祭りあげ、王様を偽物として捕縛し、地下牢へ放り込んだ。

 王様が正当な王位継承者でないことは事実だ。ロロ達は身動きがとれずにいる。

 ずっと消息がわからないままでいれば良かったなんて無責任なこと言えない。けれど、王様の積み上げてきた努力と結果を鑑みると、横取りされた気がしてならないのだ。

 それだけじゃすまないかもしれない。

 王様を連行した貴族は焼き消された王家の刻印を知っていた。

 王様は不条理な反感も買っている。

 このままだと、彼は、国王の名を騙った不届き者として――。

 ばん、と机を手の平が叩いた。

 驚いて縮み上がったロロを映す濁った眼球。

 ありえない、とオルハさんが掠れた声を張った。枯れた泉を汲み上げるような痛ましい声はロロの胸を強く締めつけた。「ありえない、ありえないんだ!」

 落ち着け、とラナシさんが諌める。

 オルハさんは机を何度も叩き、また頭を抱え、叫んだ。「陛下の兄君が生きているはずがない・・・・・・!」

「それは」ラナシさんの目がすっと鋭さを増す。「どういう意味だ」

 ロロも自然、目元が険しくなる。

 オルハさんはそれまでの激情が嘘のように淡々と語った。

「殿下の、十の誕生日だった」

 当時、まだ健在だった先王の護衛に着任して間もなくのことだったという。オルハさんは兄君であるノウェルス殿下に導かれ、存在さえ知らなかった街はずれの聖堂に踏み入った。堂内の静謐な空気に肺が満たされると同時に、オルハさんは殿下の姿を見失った。

「地下に潜る階段が、教壇の、下に。俺はそこで、初めてお会いした・・・・・・陛下に」

 ああ、とオルハさんは嘆くように身を折った。それで、とラナシさんが穏やかに促すと、呼吸を整えながら続けた。

「地下牢の一室は絵の具を塗りたくったように大量の血液が四散していた。戦場でも見たことのないほどの、一面の、赤が。呼吸をするたびに濃密な血が喉を通るようだった」

 そこで、オルハさんは見つけたのだ。

 血の衣を纏うような裸体の子供が、殿下の胸元を引き裂き、

 その心の臓を、貪って。

「俺は見たんだ、この目で、十三年前のあの日、確かに、陛下が、殿下を――」

 殺した。

 王様が、兄君を、自らの手で。

 それなのに。

「殿下の遺体はどこを探しても見つからなかった。遺留品すら。陛下を保護した後、血眼になって捜索したけれど、髪の毛一本も発見されなかった。まるで」

 一つになったみたいに。

 先王に報告したのはオルハさんだった。処罰を覚悟しての行為だった。

「先王は、何て言ったと思う。殿下の行方がわからなくなって、代わりに、その弟君が見つかったと。王家に伝わる恐ろしい儀式の真偽について問い質した時、何て言ったと思う」

 オルハさんがロロの瞳を真っ直ぐ見つめた。ロロは顎を引き、答えた。

「・・・・・・面白い」

「そうだ・・・・・・!」オルハさんは前髪をぐしゃぐしゃにした。「何の咎めもなかった。それだけだった。残った方が王位を継ぐと。陛下は兄君の代わりとして育てるようにと。その命を俺に申しつけられた」

「そんなの」ラナシさんが吐き捨てる。「正気の沙汰じゃねぇ・・・・・・っ」

 先王の暴挙は枚挙に暇がなかった。暴君の強いる圧政に民は悲鳴を上げていた。

 王様が発見されて数日後。

 先王は命を落とした。

 それから二年、国の政治変革は目まぐるしかったという。

「正妻の子はまだ幼かった。シェラリオ・ルブス・ジュネア王太子殿下に取り入った貴族の摂政政治も長く続かなかった。大火災に巻き込まれ、王家の血筋が途絶えたんだ。次に白羽の矢が立ったのは陛下だった。殿下の失踪は内蜜に扱われていたから、勿論、彼が何の教育も施されていないことなど誰も知らなかった。知る術も、なかった」

 文字すら満足に書けなかった王様は、僅か一年半で政治家を口負かすほどの知識を身につけ、その才能をあますことなく統治に発揮したという。誰も疑わなかった。それがかつて、国が捨てた忌み子とも知らずに、主君として崇め奉ったのである。

 あまりに聡明な彼の瞳に世界はどう映ったのだろう。ロロには想像も及ばない。けれど、時折、垣間見せた、あの諦めたような、疲れきったような微苦笑が。物事を遊戯としてしか捉えない姿勢が。全てを、物語っている気がした。

「保護してすぐの陛下は」オルハさんがどこか遠くに目をやった。「錯乱していた。認めたく、なかったんだろう。実の父親に暴虐の限りを尽くされ、何一つ与えられなかった事実に。唯一、残された名前はただ現実を彼に知らしめる。絶望した彼は、目が覚めて初めて口を開いた時、こう言った」

 弟は。

 弟は、どこ。

「彼はそれから兄君であるノウェルスの名を名乗った。自身を幸福と捉えるしか、当時の陛下が自我を保つ方法はなかったんだろう。でもそれも」オルハさんはゆるゆると首を振った。「長くは続かなかった。彼は聡かった。そうして、血塗られた過去を、偽りの自分を、背負わされた宿命を全て受け入れた、二年後の、あの日――」

 オルハさんはそこで言葉を切った。言いにくいというよりも、自分の口からは言えないと心を閉ざしているようだった。

「あの、日・・・・・・?」

 振り仰ぐロロの視線を受けて、ラナシさんが引き継ぐ。

「俺が見つけたんだ。あいつが・・・・・・首を、吊ってるところ」

 ロロは息をのんだ。疲れの増した顔でラナシさんは続けた。

「幸い、命に別条はなかった。発見が早かったし、あいつガリだったし。でも、あと五分遅かったら、後遺症が出てたかもしれないって、医者が」

「その事件を境に、陛下は弟であるご自身を取り戻された」

 それでも。オルハさんは消え入りそうに淡い笑みを浮かべた。

 名前だけは。

 捨てられなかったようだけどね。

 王様はちゃんと、知っているのだ。自分が誰なのか。それを理解した上で、戦っている。

 自分自身と。

「新王さんがおっしゃってました」

 口を開くと、オルハさんが黒雲を映して黒くうねる波の目をロロに向けた。

「王様と、新王さんは、一つで二人、だって」

「一つで、二人・・・・・・?」

 ロロは王様のことを何一つわかっていなかった。本当の意味で彼を知ってあげようとしなかった。都合の良い部分だけを見ようとして、力になりたいと思う自分の我儘で、膿んだ傷を暴いて、だけど。

 ロロは彼が好きだった。

 もう取り戻せないとしても。

「ロロは」

 口に出したら立ち直れないかもしれない。そのまま小さくなってしまうかもしれない。ちっぽけなロロに救いはない。神も、愛する人も、裏切ったロロには。

「嬉しかったんです。ロロは、少しでも、王様に、近づけたんじゃないかって。少しでも、力に、なれてるんだと、ばかり、でも、それは思いこみで、そうあってほしかっただけで、結局、望んでいたのはロロで、王様じゃ、なくて。振り回して、傷つけて、押しつけて、ロロは、何も、知らなかったんですね」

 いいか。一度しか言わないぞ。

 あの嵐の夜。涙を雨粒にかえて互いの存在を確かめあったあの日。

 今からお前は俺の――。

 彼はなんと言おうとしたんだろう。

 訊ねればよかった。

 恥ずかしがらずに続きをせがめばよかった。

 そしたら。

 何か、違っていたかもしれないのに。

「ロロは」

 この城に来て、もう何度も大声を上げて泣いた。

 それは、信頼できる人がいたからだと、思い知って。

 受け止めてくれる誰かがいたからで。

 うまく涙が出てこない。

 感情だけが先走る。

「ロロは、王様に、笑って、いて、ほしく、て・・・・・・」

 ぎゅ、と頭を抱きかかえられた。

 ぽろぽろと零れる涙が蒼いシャツを濃い色に染めていく。

 オルハさんは震えていた。耳の後ろで嗚咽が聞こえた。誘われるようにロロの喉も唸りだした。

 二人は声を上げて泣いた。

 体面なく泣きじゃくる騎士と不格好に吠える獣の少女の肩を、料理人の逞しい腕が包んだ。



   * * * * *



 左右を兵士に固められ、窮屈な思いをしながらロロは歩く。

 オルハさんの部屋で身を寄せ合っていた三人のもとに、あの後、新王からの遣いがやってきたのだ。

 ロロを街外れの聖堂に連れて行くように。

 オルハさんとラナシさんの同行は認められなかった。ロロは兵士に案内されて、再び清らかな地を踏む。

 かつて存在した愚かなまでの優しさが忽然と消えていた。あまりに異なる雰囲気にロロは立ち竦む。急に立ち止まったロロの背を兵士が乱暴に押した。つんのめるようにしてロロは歩みを再開する。

 夢だったように感じてしまう。訳もわからず涙するロロと戸惑う王様。あの頃は穏やかだった。彼とはまだ知り合ったばかりで、互いを知ろうと思うほどまだ互いを知らなくて。寂しさに駄々をこねるロロの頭を抱く王様の腕は暖かかった。

 過去形にはしたくないと思った。

 ずっと傍にいると、ロロは約束したのだ。

 彼の隣に。

 祭壇の下に現れた地下への階段を慎重に下る。ひんやりとした石床を足の裏で踏むと、頭上で扉が閉まった。見張りの兵士は地上に数人。地下には下りてこなかった。新王の指示だろうか。

 すすり泣きが聞こえた。

 牢獄は一つしかなかった。ここは本当に、意味のない儀式のためだけに造られた場所なのだ。暗闇に目を凝らす。隅に蹲る小さな影。何も身につけていない痩せた体。とても寒さを凌げそうにない薄っぺらい布切れを肩にかけている。子供だ。泣いてる。陽光の下では鮮やかに映える紅の髪も、暗いせいで土塊のように見える。

「ノエ・・・・・・?」

 鼻を啜りながら子供が振り向いた。

「ノエなの・・・・・・?」

 中性的な美しい顔立ちと透き通る声。

 ロロはふるふると首を横に振って、一歩、距離を詰める。違うの、と子供は落胆し、また目の前の石壁に向き直った。

「なんで・・・・・・? なんでむかえにこないの・・・・・・? ノエ・・・・・・かわりばんこにしようって、やくそく、したのに・・・・・・」

 嗚咽は段々と小さくなって、掠れた吐息になった。もう一歩、ロロの踵が床についた時だった。

「待ってたんだ」

 懐かしくすら感じる声に、ロロはゆっくりと首を巡らせる。

「ずっと、待ってた」

 立ったまま壁に寄りかかった彼は、はは、と肩を揺らす。

「馬鹿みたいにさ、ずーっと。誰かが迎えにきてくれるのをさ。誰も来やしないのに。陽が三度沈むごとに交替しようなんて、ありえない約束信じて。そんな時・・・・・・歌が、聞こえた。この指止まれって。甲高い笑い声でさ。俺は、迷うことなくその指を握ったよ」

「・・・・・・王様」

 子供の気配は消えていた。きっとこの子は、今までも、これからも、ずっとここで待ち続けるのだろう。呼吸まがいの泣き声をあげながら。

 よ、と彼は軽く片手を上げる。軽すぎる挨拶にロロは口がうまく動かない。筋肉が全く言うことを聞いてくれないのだ。

「おいで」

 その一言で、堰止めていたどうしようもない感情はあっけなく決壊した。ロロは泣き叫びながら王様の体に飛びついた。すっかり冷えてしまった胸板に熱い額を擦りつけた。おうさま。おうさま。通りの良くない髪を撫でる手。記憶の中より、随分、冷たい手。こんなんじゃ駄目だって、もっとしっかりしないとって、思うのに、でも、どうしたって、ロロは。

 会いたかった。

「会いたかった・・・・・・!」

 はいはい、と王様はロロのうなじを撫でる。あんまり泣くなよ。そう宥められても、涙は止まらない。

 もう二度と彼の声を聞くことはないんじゃないかと。本気で覚悟していたのだ。泣いたってしょうがない。

「なあ、ロロ」王様はロロの耳の縁を指で引っかく。「もうすぐ、終わるんだ」

「おわ、る・・・・・・?」

 彼は顎を引く。「十三年前に始めた遊戯が、終わったその時、もしまだお前が――」いや、と頭を振り、「いてくれるんだろうな、お前は。俺の傍に。俺の隣に」

「あ、当たり前、です・・・・・・!」

 王様はロロの首に指を滑らせた。そこにかかっていた石はもうない。ロロを繋いでいた鎖は、もう。

「大丈夫、です」ロロはできるだけ明るい口調を努めた。裏返るばかりでみっともなさが増すだけだったけれど。「ロロには、みんなが、いますから」

 過去に縋る時期は過ぎたのだ。両親との血の繋がり。ロロにはもう必要のないものだ。

 かさついた指の腹がロロの頬を擦る。どちらからともなくそっと口づけを交わした。渇いた唇を湿らせるように、小さく、短く、何度も。

「呼んで」荒い呼吸の合間で王様が言う。「呼んで」

 俺の名前。

 どちらの名かなんて訊ねるまでもない。ロロは彼の耳元に口を寄せた。

 堕ちた天使はくすぐったそうに微笑み、口先でロロの睫毛を食むと、

「正解」



 静かに扉が開いた。

 慇懃な足運びとは裏腹に、荒れ狂う波のような激情を纏って、蒼い髪の騎士は執務机に詰め寄った。精緻な筆跡を書類に走らせると、左の中指で眼鏡を直し、国王は微笑んだ。

「おせっかいな駄犬が、今更、何の用」

「陛下」

 蒼い髪の騎士はある確信を持って彼をそう呼んだ。

 新王はやれやれと肩を竦め腕を組む。「やっと認めてくれたんだ。槍と共に振りかざす気高き精神も、さすがにすり減ったかな」

「いいや」蒼い髪の騎士は首を振った。ついた手の平の下で机が軋んだ。「あなたは陛下だ。今までも、これからも、変わらず」

 新王は左手の甲に刻まれた印をひらひらとかざした。妖艶な気配漂う刻印。脳裏をよぎる痛ましい蚯蚓腫れの片鱗も見えない滑らかな肌。大理石を磨いたような。

 蒼い髪の騎士は握りしめた拳を開き、血の滲む両手で新王の頬を包んだ。

「のまれないで」

 澄んだ湖面に起きる小さな波紋。

「のまれてはいけない。憎しみに囚われては。あなたは一人じゃない。俺には何もできないかもしれない、だけど」

 彼女がいるでしょう。

「ロロが、あなたを」

 その名を口にした時、確かに蒼い髪の騎士は見た。

 ほんの一瞬だったけれど。

 彼の目が、その姿を求めて彷徨ったのを。

 しかし変化も一時だった。新王は蒼い髪の騎士の腕を優しく掴み、下ろした。ふう、と抜けた息はどうしようもないと言いたげだった。

「いい加減にしてよ、蒼い髪の騎士。あの小犬はあんたが勝手に連れてきたんじゃないか」

 放っておけばいい、と新王は言う。

「赤い瞳の子犬ちゃんがいくらきゃんきゃん騒いだところで、何も変わらないんだから」

「では」蒼い髪の騎士は唇の端を吊り上げた。心の内は恐怖で逃げだしたいと悲鳴を上げていた。早鐘のような鼓動を悟られないよう、声の震えないよう、堪えることができたのは、彼らを想うがゆえだ。

 幸せになってほしい。

 愛しているから。

 陛下も。

 ロロも。

「ロロは俺がいただいても構いませんね」

 ぴくり、と柳眉が歪んだ。嫌悪のこもった眼差しが蒼い髪の騎士の乱れた心臓を突き刺す。

「僕から玩具を取りあげようと言うの」

「申し訳ありませんが」

 もう、抱きました。

 頬に熱。蒼い髪の騎士は床に倒れた。鉄の味が口内を埋めた。遠慮のない一撃に視界が明滅する。

 ぐ、と髪を掴まれた。

 上がった顎の先を紅の髪が擦る。まるで怒りを表しているようだと思った。産まれ堕ちた瞬間から、彼はこの国を――自分自身を、恨んでいたのかもしれなかった。

 図にのるな、と彼は吐き捨てる。「冗談だとしたら笑えない。嘘だとしたら即死刑」

「嘘なんかじゃ、ありませんよ」

 蒼い髪の騎士は実際にその腕で小さな体を抱きしめた。

 嘘はない。

 憎々しげに眉を寄せ、彼は凄んだ。

「俺のものだ。あいつは――ロロは、俺の」

「どうせ打ち首でしょうから、この際、一つだけ言わせてください」

 蒼い髪の騎士は唇についた血を舐め、間を置き、

「その眼鏡、度は入ってますか」

「あぁ・・・・・・?」

「だとしたら、俺の言いつけを守ってくださらなかったんですね」

「何を、言ってる・・・・・・」

「ねえ、殿下」手を伸ばし、眼鏡のガラスにこつんと指を当てる。「勉強する時は姿勢に気をつけるようあれほど注意したじゃないですか。あなたは幼いころ、伊達眼鏡でいらっしゃったのに」

 フレームの向こうで大きく見開かれる目。

 彼は何も言わない。緊張で氷漬けにされたように冷たい手を、蒼い髪の騎士はぎゅっと握り、断罪を待つ。

 彼は肩を震わせた。

 蒼い髪の騎士から手を離し、身を起こして高笑いする。

「ほんっとに、俺の周りは」

 涙まで浮かべて彼は言う。

「馬鹿ばっかり」

 僕も。

 そろそろ、認めなくちゃいけないかもね。



   * * * * *



 国王を偽証した大罪人の処刑は啜り泣きの雨が降った。正当な王位継承者ではなかったけれど、彼は荒廃した凪の国の政治を引っくり返し、民の生活に安寧をもたらした。誰もが彼の死を嘆き悲しんだ。

 目隠しをされ、ぐるぐるに包帯を巻いた両の手を縛られた罪人が広場の中央に座った。いくつもの抗議が唱えられるも、片端から兵士達に取り押さえられた。鎧に下がる、長い肩ひもや宝石を埋めた鎖がやかましく擦れる。華美な装飾は新王を擁立した貴族の意向だと聞いた。

 ロロは小さな体を懸命に張って、彼の真正面に位置する柵の外側にいた。後ろから飛ぶ野次も遠い世界のようだ。

 首に刃を添えられた罪人。

 小さな音色が騒然とする広場に反響した。

 鼻歌だった。

 あの旋律だ。王様と対峙した夜、気まぐれに彼が歌った、五番。

 遊び狂いの兎の歌。

 ほんの微かな鼻歌だったその歌は、いつの間にか言葉をのせ、少しずつ音量を増した。野次も抗議の声も消えた。頭蓋を縦横無尽に反響する。ロロは頭を抱えた。膝が折れないように懸命に腹に力を込めた。目をそらしてはいけない。耳を塞いではいけない。ロロは立ち向かわなければ。

 何も恐れることはないのだ。

 教えてくれる。

 ロロに流れる血が、教えてくれる。

 新王は言った。あとちょっとで完成するはずなんだけど・・・・・・何が足りないのかなぁ。違う、とロロにはわかる。足りないものなんてない。

 その昔、遊び狂いと揶揄された兎は何も望まなかったのだから。

 兎は愛などいらなかった。

 ただ――ただ、愛したかった。

「言い残すことがあれば聞こう」貴族の男が髭の先を弄びながら言った。

 罪人は笑った。

 その左手にはいつの間にか金貨が握られている。

 一枚の、金貨が。

「遊ぼうか」

 貴族の男は怪訝に眉を顰めた。頭がおかしいとでも言いたげな目つきだ。

「表か、裏か」

「・・・・・・表で!」

 静かに返答を待つ罪人へロロは叫んだ。貴族の男がぎょっとしてこっちを見たが気にしている余裕はなかった。

 そして、じっと布で覆われた目を見つめた。

「残念」

 ロロの背筋を冷や汗が伝った。

 負けたのか。

 やっぱり、ロロは、勝てなかったのか。

「――表だ」

 金貨を掲げた咎人の、ひび割れた唇が微笑んだ。

「あんたの勝ち」

 強い風がロロの髪を嬲った。

 靄が晴れていくようだった。霧の中を彷徨った船が青空を再び目にした時はきっとこんな気持ちになる。

 思い出した。全て。ロロにはわかってしまった。

 さよなら、と。

 耳の後ろで声がして。

 後ろから目を塞がれたロロは首の落ちる瞬間を見逃した。

「だーれだ」

 ロロの顔に添えられた両手にはどちらも包帯が巻かれていた。ロロは唇を震わせながらその手の甲に自分の手を重ね合わせた。そうして、放心しながらほとんど反射的に端々の滲む声で答える。

「ロロはもう、正解したはずですよ」

 ふ、と笑う気配。

 手が外れると同時にロロは振り返る。

 真昼の陽光に照らされて、鮮紅色の髪がきらきらした粒子を放っている。

「おい、お前ら、うっぜぇからそのちゃらちゃらした飾り外せ! 質にでも入れろ! んでとっととそいつ捕縛しろ」

 あまりにがらりと変わった新王の物腰に兵士は目を瞬かせた。が、王の射るような視線に背を正し、言われるままに宝飾をむしると、動揺する貴族の男の腕を取る。

「な」男は目を白黒させた。「な、何、どういう、何故、私を」

「いいか」彼は心底、呆れた口調で言った。「何だか偉そうにしているが、お前が俺を持ち上げたとして、過去に犯した罪は消えん」

「そ、そんな、話が違う、協力すればそれ相応の地位をいただけると――」

「悪いね」にやり、と意地悪い笑み。「俺は毎日が嘘つきの日だから」

 青ざめる貴族の肩に手が置かれた。清純な騎士らしい爽やかな笑顔を浮かべたオルハさんだった。

「往生際が悪いな。新王の命に逆らうのか」

 紫色の唇をぶるぶるさせて連れて行かれる男の醜態を楽しそうに見送り、彼は両手の包帯を外した。色の白い両手で拍手する。

「めでたしめでたし」

「え」

 ロロは処刑台を見た。

 誰もいない。

 遺体も。

 落ちたはずの、首も。

 な、い。

「えええ」

 あまりやる気のない拍手をする右手の甲。

 穴が開くほど凝視してしまう。

 痛ましい火傷の痕。

 夢じゃない。

 夢じゃ。

「ほげえええええええええっ」

「鯨の捕獲は禁止されてるけど」

「だ、だって・・・・・・っ」

 ほんとに。

「ほんとに、王様、何ですか」

「さあ」彼はおざなりに肩を竦めた。何食わない顔。「ここに新王が誕生したらしいが。まあ・・・・・・間違っちゃ、いない」

「陛下」身軽になったオルハさんが小走りでやってきた。投獄完了の旨を伝えると、ごくろう、と王様は労わった。

 事情のわからない民衆は、新王とその取り巻きを露骨に避けながら散っていく。

「さあ、帰りましょう」幸福感たっぷりの笑みでオルハさんが言った。何もかも吹っ切れたというような表情だ。「城でラナシが腕を振るった御馳走を用意して待っているとのことですよ」

「寄るとこがあんだよ。先に戻ったらラナシにそう言って。んで、そん時の顔、写真撮って額に飾っといて」

 嫌がらせ以外の何物でもない。

「どこ行くんですか」

 ロロが訊ねると、彼はぶっきらぼうに言った。

「見舞い」

「お見舞、い・・・・・・?」

 ロロは口元を手で覆った。

 金色の巻き毛が脳裏をよぎる。

「おうさまぁ」ロロが瞳を潤ませると、王様はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。

 優しいにおいがする。

 とても安らげる香りだ。

 ありがとうございます、と勢いよく頭を下げたロロに王様が言った。「代わりに付き合ってもらうからな」

「もちろんですよ!」ロロは拳を握った。「今夜は寝かせませんよ! 一晩中、遊びましょう!」

「・・・・・・ほーぉ」

 意味ありげな思案顔。ロロは首を傾げる。

「言ったな」

「え」

「二言はないな」

 ふふん、と彼は笑って、「まあ、初めは手加減してやるか。まずは五回勝負ってとこだな」

「魚介・・・・・・?」

 ロロは困ってオルハさんを見上げた。視線を逸らされた。

 な、何だか、嫌な、予感が。

「な、何ですか、何して遊ぶんですか」

「んー?」ぐ、と端正な顔が近づく。「お前は、こんな公衆の面前で、それを俺に言わせるわけ」

「えー・・・・・・」

 渋い顔のロロを置いて王様はさっさと歩き出してしまう。オルハさんの暖かい眼差しを背中で受けながら、ロロは王様の後に続いた。

 大通りを避け、薄暗い小路に入る。両脇を固める建物の壁が外からの音を遮断し、ロロの足音や王様の息遣いを大きくする。訊ねるならば今しかないと思った。口を開いたロロを制するように、王様が口火を切った。

「気が遠くなるくらい昔の話だ」

 王様は歩みを止めずに続ける。

「遊び好きの男がいてな。そいつは気さくな野郎でダチも多くて、愛した女もいて――だけど底抜けのお人好しで、だまくらかされてあっさり身ぐるみ剥がされちまった。女は慰み者にされた挙句、腹をかっさばかれた。その身に宿していた小さな命ごと。狂った男は拷問まがいの暴力にあった。耳を引きちぎられ、目を抉り取られ、奥歯を全部抜かれて、手首と足首は溶接された。そんで未開の地だった西の森に捨てられた。女の遺体は東へ……一匹の狼が、連れていった」

 王様はそこで言葉を切った。ロロが何か言うのを待っているのかと思って、一生懸命、頭を巡らせたけれど、何も浮かんでこなかった。結局、ロロは項垂れるようにして口を引き結んだ。王様はただ考えを纏めていただけだったようで、またすぐに喋りだした。

「二人は会えない」

 もう二度と。

「それでも、互いを求めて、探して回ってるんだ。狂った嬌声をあげながら……ずっと」

 王様はジャージのポケットからあの眼鏡を取りだした。新王さんが身につけていたものだ。王様が仕事中にかけていたものでもある。彼は眼鏡のつるを持って無造作に眺めると、突然、親指で押しこんでガラスを外した。それからまた何事もなかったかのようにポケットにしまった。一つだけ零れた物憂げな溜息。

「・・・・・・格好つかないったらねーよな。くだらない規則にずーっとこだわって、しかもとんだ勘違いで、それを臣下に指摘されちまうんだからよ」

「・・・・・・あの」ロロは迷った。訊ねていいものなのかどうか。言葉にしてしまう恐怖がある。それでも、逡巡するロロに王様は優しい瞳を向けてくれるから、意を決して口を開いた。「あの・・・・・・王様が、王様なら・・・・・・新王さんは、今、どこに――」

「遊び疲れて寝てるんじゃないの」それか、と王様は唇の端を吊り上げ、「十数年かけて歌いあげた大勝負で、飛び込み参加のあほの子に負けてふて寝」

 どちらにせよ、と王様は言う。「いるよ――ここに」

 醜い火傷の痕を宿した右手が、服の上からそっと胸に触れた。

「・・・・・・王様」ロロは深く息を吸った。緊張を落ちつけようと思ったのだ。「どうして、自分で自分を、刺したりしたんですか」

 あの嵐の夜。王様が何者かに刺された夜。

 ロロは確かに見たのだ。顔を隠した誰かが王様の体に重なるのを。そうして鈍い刃をその腹部に突き刺したのを。

 でもそれは真実じゃなかった。

 ロロがそう見えただけで、そう見せられただけで、

 現実は違ったのだ。

 それだけじゃない。

 王様が兄君である新王さんと共にいる姿を見た人は、誰一人いない。

 思い出す、という表現は適切ではないかもしれない。ならば何と言えばいいのかと言われると――。

「間違い探し」

「え・・・・・・?」

 何でもない、と王様は首を振り、「狂気が真実を歪んで見せるのはよくある話だ」

「幻だった、ってことですか」

「思いこみじゃねーの」

「ふぇ・・・・・・?」

 聞きとれなかったと思ったのか、王様はもう一度、繰り返した。「お、も、い、こ、み」

「ロ、ロロの勘違いってことですか」

「さー、どうだろなー」

「は、はぐらかすんですかっ」

 王様はくつくつと喉の奥で笑って、ふいに表情を引き締めた。「何なんだろうな、遊び狂いの兎って」

「お、王様も、わかんないんですか」

「わかんないどころじゃねーよ。何も知らんよ。・・・・・・こりゃ一回、訊きにいく必要がありそうだな」

「誰に・・・・・・?」

「お前んとこの神父」

 オルハさんが手引きしたとはいえ、ロロを城に――王様の元へ寄越したのは神父様だ。神父様は何か知っているんだろうか。知っていて、ロロを。

「兎は眠らないんだ」

 王様はぎゅっと胸元を掴んだ。

「その場しのぎで騙し騙し生きてくわけにはいかない」ふっと緩む頬。「お前がいるし」

 ロロは王様の隣に並び、その端正な横顔を見上げた。

 王様、とロロが呼ぶと、何、と彼は返してくれる。

「ロロは、王様の何ですか」

 ずっと。

 ずっと、訊ねようと思っていたことだった。長い間、暖めていたせいで、随分と柔らかくなってしまった気がするから、どんな言葉が返ってくるか予想もできなかった。高鳴る鼓動。顔が熱くなってしまいそうだ。

 それだけ。

 それだけ、期待していたのに。

 彼は数度、瞬きをして、あっけらかんと言った。

「ぺっと」

 ・・・・・・何か。


 何か、違う。


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