第一幕『いついつでやる』
第一幕『いついつでやる』
内壁を背にロロは途方に暮れた。
目の前をこれでもかという数の人間が巨大な波を作ってロロを進ませまいとする。いかに自分の世界が狭いものだったかを思い知るには十分で、しかも、ロロは体が小さいから遠くまで見渡せないが、蟻の大群のような人の群れは遥か彼方まで続いているようだ。馴染まない活気だった空気が肌にびりびりする。地面が揺れているような錯覚までする。
ロロは他の孤児と共に小さな教会で暮らしていた。隣国との国境線をぎりぎり跨ぐか跨がないかという曖昧な立場に位置する、森に囲まれた教会。その存在を知る者はそう多くないだろう。ロロは一番、年下で、今年で大体、十七になる。澄んだ深緑の香りが立ちこめるあの場所には、義兄や義姉の優しい笑顔と、小さくても逞しい多くの命が在った。
この街は忙しい。
目が回りそうだ。
神父様には正門の前で待つように言われていた。そこに来る蒼い髪の騎士を頼りなさいと。その方はきっとお前の行く先を導いてくださる。恐れずに進みなさい。お前が前を向き続ける限り、神はきっとお前の未来を祝福してくださる。
きっと。
ねえ、神父様。
ロロは目を閉じた。
きっと、とは、何ですか。
曖昧で、不確かで、不鮮明なお言葉を、信じろとおっしゃるのですか。
ロロは神を信じていない。
父と母を奪い、ロロを置き去りにした神を。
神父様。
ロロは悪い子です。
口にしたことこそないけれど、信仰を失った、いやそもそも持ったことのないロロの心を、神父様は見抜いておられたのですか。
だから。
だから、ロロを追い出したのですか。
ロロが王都に上ったのにはちゃんとした理由がある。それでも、もしかしたらと、考えてしまう。
貧相な暮らしにも不満はなかった。ただ、神父様が、修道女が、兄や姉が、自然に息づく動物達がいれば、それで良かった。
教会の経営難は困窮を極めた。
神父様は最後の手段として国王に援助を求めた。そうして、城仕えの者を一人寄越す代わりに、その申し出を受けていただけることになった。神父様からはそう聞かされた。
ロロは愚図でのろまでおっちょこちょいだけど、女のくせに力持ちで体力もあるし、何より勘が鋭い。
それだけだろうか。
お前にしかできないことだと、励まし肩を撫でる神父様の手が、小刻みに震えていた気がして。
「いけない」
ロロは首を振った。暗い感情に呑まれてはいけない。ロロが頑張らないと。皆が飢え死にしないために。皆のために、ロロが頑張らないと。どんなに心細くたって大丈夫。ロロは服越しに胸に下げた石を掴んだ。お父さんとお母さんが残してくれた形見。所々、色の沈殿した浅緋の玉。これがあれば大丈夫。何だってできる。それに、ロロは一人じゃない。空を飛ぶ鳥や地を這う鼠。犬も猫も兎も蛇すらも、皆、ロロの友達だ。天に輝く星と鼻孔を満たす風は教えてくれる。身に迫る危険も、雨の降る予兆も。
それが他の人にはわからないものだと知ったのは、いつだったか。少なくともそう昔のことではない。不気味そうな顔をするから誰にも言わないようにしている。
どん、と横から突き飛ばされて、ロロは人混みに揉まれた。わ、わわ。戻ろうとしてもどんどん押し流されて体の自由が利かない。あっぷあっぷと溺れるうちに大通りを横切り東へと漂流した。何とか見えていた巨大な正門も、そのうち視界から消えた。う、わ。再び弾かれて薄暗い路地へ放り出される。
訳もわからぬままロロは壁にぴったりとくっついて呼吸を整えた。大きな口に租借されてまずいと吐き出されたような気分だった。ロロは食べてもおいしくないというのに。
その肩を強い力が引っ張った。「ひゃ・・・・・・っ」
「忘れてはならぬ」
「え、え」
「忘れてはならぬ!」
「な、ななな、なな、んですか」
老婆だった。
薄汚いローブで全身を包み皺に埋もれた顔を歪めた老婆が、ロロの両肩を揺さぶって叫んだ。「忘れてはならぬ、月の哭く夜、奴はやってくる。忘れてはならぬ、忘れてはならぬ・・・・・・!」
「や、奴、て」
「遊び狂いの兎よ!」ああ、と老婆は嘆いた。炭の臭いのする口がロロを食べてしまおうと大きく開き、近づいてくる。「奴には何も通用しない、奴は眠らない、ただあるものを求めて、狂ったように哄笑を上げるのだ! 何者も奴を止めることはできない、できるとすれば、ただ一つ――」
もう駄目なのか。
ロロはここで終わるのか。
ロロはここで食べられてしまうのか。
というか。
「ロロは、食べてもおいしくないって、言ってるでしょーがーっ!」
ロロは老婆の枯れ枝のような腕を振り払い、薄っぺらい体を両腕で突いた。老婆は踏鞴を踏み、だがすぐにロロを捉えようと腕を伸ばす。「こ、来ないで」後退しようとした膝が笑って尻もちをついた。日の当たらない地面は冷たかった。「来ないで!」
「失せな、婆さん」
恐る恐る目を開けると、見知らぬ背中が視界を塞いでいた。見慣れない服装だ。通気性の良さそうな布地は運動に適しているように見える。ジャージ、というやつだ。
おお、と老婆が呻いた。おお、おお、おおおおお。怯えるように、恐れ慄くように全身を震わせ、おおおおお、と叫びながら路地の暗がりに身を躍らせた。おお、おお、おおおおお。いつまでも耳から離れないその悲鳴。ロロはしばし呆然として、差し出された手をぼんやりと見つめていた。
「おら、立て」
滑らかな指先がロロの腕を掴んだ時だった。
鼻の先を鉄錆の臭いが掠めた。血と腐臭。
手首を引く手の平は真っ赤で。
頭の中が真っ白になってロロは青年の顔を凝視した。青年もまた、ロロの瞳をじっと覗き込んだ。その頃には彼の手は傷一つない生白い肌に戻っていた。錯覚だったのだろうか。今のが、幻。
「地味」
「へ」
うなじまで伸びた目にも鮮やかな深紅の髪を掻き上げて、青年が唇をひん曲げた。その右手の甲は淡く発光する包帯が巻かれている。
「髪の色もナリも地味なくせに、目だけ綺麗な、お前。真っ赤。兎みてぇ」
「う・・・・・・っ」
ロロの髪はくすんだ茶色だ。身なりも野暮ったい。肌も白いとは言い難い。
にも関わらず、宝石のように赤い瞳の色は目立つことこの上なく、あまりに容姿と不釣り合いだった。だがロロは気にしても嫌悪したことはない。胸に下げる形見の石とそっくりな色は、顔も見たことのない両親との繋がりをはっきりと感じられるから。
ロロを立ち上がらせると、青年は不躾にロロの全身を眺め、「ははぁ、さてはお前、田舎者だな」
う、とロロが呻くのをいいことに、青年は更に言い募る。
「大方、出稼ぎにでも来て、人に酔って路地裏に迷いこんだってとこだろ」
「うう」
「お前、いくつよ。迷子とか。だせー」渇いた声で笑われた。「っつかちっせーなー、お前」
「し、失礼な。これでも十七歳です」
「じゅうななぁ?」綺麗な流線を描く眉が不穏に歪む。「嘘ついてたら承知しないぞ」
俺は嘘は嫌いなんだ。
吐き捨てられた言葉に、ロロは首を縮ませた。「ほ、ほんとです・・・・・・」
彼とは優に三十センチ以上、差がある。疑われても仕方がない。
「まぢで」青年はしげしげとロロの頭のてっぺんから爪先まで再度、観察する。
「あ、あなたは」居心地の悪さに何とか話の流れを変えようと、ロロは思いきって声をかけた。「王都の人ですか」
「たりめ」
「どうしてこんなところに」ロロは首を巡らせる。日の陰った路地裏は冷えた石壁が沈黙するばかりで、大通りのように目を引くものは何もない。
青年は翡翠の瞳を瞬かせた。
「おにごっこ」首を傾げるロロに、こう付け加える。「かくれんぼでも可」
どっちにしろ、謎だ。
「お前とも遊んでやりたいが」青年は老婆が消えた細い道を見やり、目を細めた。「生憎、俺はさっきのばばぁ捕まえなきゃなんねーから。これでようやく試合が再開できる。こそこそ隠れやがって、十年も無駄にした落とし前、どうつけてもらうかな・・・・・・」
「はあ」
「ああ、悪い」思考に没頭していた青年ははっと我に返り、「ま、縁があったら遊ぼうぜ」
じゃ。
青年は片手を上げて軽快に立ち去ろうとした。あ、ちょっと待って、とロロが制止するも、聞こえなかったのか、はたまた無視したのか、すらっとした長身は路地の角に消えてしまう。
ロロは肩を落とした。道を訊ねたかったのに。正門までどうやって戻ればいいのだろう。
とぼとぼと歩きだした時だ。
「おい!」
ロロの後頭部に固いものが衝突した。「いたぁ」
ぼて、と足元に落ちる麻袋。
「地図、入ってっから。その中。どうしてもわかんなかったら巡回してる兵士に訊け。兵士ってわかるか。甲冑着こんでる奴らのことな」
「そのぐらい、知ってます!」いくら田舎者だからといって。
路地の角から紅い髪を覗かせた青年は、またけらけらと無邪気に笑って、今度こそ行ってしまった。
麻袋には折り畳まれた紙と一緒に小さな包装が入っていた。色とりどりの星達にロロは目を輝かせる。金平糖だ。いっぺんに口に含んでがりがりしながら至福に浸る。良い人だ。ちょっと口の悪さと態度の粗暴さが目立ったけれど、親切で、とても綺麗だった。美人さんだ。男の人なのに。お礼もできないまま行ってしまった。
また会えるだろうか。ありがとうも言えなかった。
ロロはしょんぼりして大通りへの道を急いだ。
何故、こうなるのか。
地図と睨めっこしたところで、口が浮き出てきて道を教えてくれるわけでもない。
「ここはどこ・・・・・・」
そもそも現在地点がわからないのだから、目的地まで辿り着けるはずがないのだ。
当てもなく歩いていたら、何だかどんどん薄暗くなっている気がする。細長い空から見える陽はまだ高い。ロロが奥まったところへ足を踏み入れてしまっているのか。多分、そうだ。そう思って道を引き返しても同じところをぐるぐる周回しているようで。変わり映えのしない建物の構造が引き起こす錯覚だと思いたい。
とりあえず、人の多い道へ出よう。そうしたら、兵士さんに道を訊ねよう。闇雲に歩き回るより、誰かに訊くのが一番いい。困ったら人を頼りなさい、と神父様もおっしゃった。誰かを頼りにするのは悪いことではありません。次はあなたが誰かのためになれば良いのです。
喧騒に向かって走り出したロロは、横道から出てきた人影に突撃した。激突じゃない。突撃である。
「ごふっ」「わひゃうっ」
鈍い音がした。
「だ、大丈夫ですかっ」
ロロの頭突きを腹部に見舞われた中年男性は薄手の装備を身に纏っていた。統一のない服装が異人のように感じられる。擦り切れた風貌が近寄りがたい雰囲気を増長していた。
「あ、あんた、すげぇ頭してんだな」
ロロがぶつかったのは腹を覆う甲冑である。
「石頭ですから!」
「ああ、そう・・・・・・」
拳を握って言うロロ。男はうんざり顔である。
生きるのも面倒くさいと言いだしそうなやる気のない目が、ロロの頭のてっぺんから爪先まで丹念に眺め、最後に、浅緋の瞳で止まった。物珍しそうな表情にたじろいでしまう。初対面の人には絶対にされる行為だ。新しいところに来たのだから、連続しても仕方ない。
「あんた、名前は」
無造作に訊かれた。ロロです、と答える。ふーん、とあまり興味のなさそうな相槌。
「カペラ」
「う、うぇ?」
「俺の名前」
喋るのも億劫そうだ。
あの、とロロは身を乗り出し、「カペラさんは、兵士さん、ですよね。正門ってどこですか」
紅の髪の男の人は、もしまた迷うことがあったら、街の警備をしている兵士に訊けと言った。カペラさんは重装備とはいえないけれど、きっと街を巡回する程度ならこのぐらいの軽装でも構わないのかもしれない。そう思ってロロが道を訊ねると、カペラさんは数度、瞬きをして、ああ、と頷いた。
「そう、そうそう、兵士さん」急に声が生き生きとする。「あんた、迷子?」
「はい・・・・・・」
カペラさんはまたふーん、と唸った。さっきよりも調子は軽い。「あんた、どこから来たの。王都の外?」
「そうです」
「なぁるほど」
「なぁるほど、です」
ややあって、カペラさんは踵を返し、ひら、と手を振った。「ついといで。案内してやるよ」
「ほんとですか!」
ロロは目を丸くして喜んだ。思わず飛び跳ねてしまったくらいだ。やさぐれた雰囲気からはとても想像できないけれど、実は面倒見がいいのかもしれない。この街はぐるぐる忙しない分、優しさに溢れているのだ。苦労した分だけ人は優しくなれるのだと、神父様が口をすっぱくして言っていた。
「ちょっと遠いから馬車に乗ろう。すぐそこに俺のが停めてある」
「馬!」
きらきら目を輝かすロロをカペラさんは眩しそうに見て、「好きなの?」
はい、とロロは頷く。
さすが世間知ら、いや田舎娘、とカペラさんは一人ごち、「これが貴族の令嬢となると臭い汚い騒々しいの三拍子だ。馬ほど綺麗な生き物はいないってのに」
「カペラさんもお馬さん好きなんですか」
「昼寝と同程度には」なるほど。それはとても重要である。
「良かったです。カペラさんがいい人で」
にこにこしながらロロが言うと、カペラさんは何故か渋面顔を作り、すっとロロから目を逸らした。どうしてだろう。やっぱり迷惑なんだろうか。面倒くさくなったとか。ロロはよく、うざくはないけど鬱陶しいと言われるのである。
「あの、ご用事とかあるなら、わたし、一人で――」
「え」カペラさんはきょどった。「いや、いやいや、遠慮なさんな。俺も丁度、王都から出るところだから。門まで送るぐらい造作もない」
だけど、とロロが食い下がると、いいから、と乱暴に腕を取られた。通りに出て馬車に押し込まれる。幌のついた荷台でロロは背を丸めた。
「絶対に顔出さないでくれよ。危ないから」
「はい」
素直に頷くロロに、またカペラさんは少しバツの悪そうな顔をして、髪を掻き乱すと布を閉めた。しばらくして、がたん、とお尻が揺れた。馬車が出発したのだ。そういえば、お馬さんに触る機会を逃した。がっくしである。
約束の時間も随分、過ぎてしまった。
正確な時間はわからないけれど、あちこち歩き回ったから、かなりの時間を浪費したはずだ。まだ待ってくれているだろうか。会うことができるだろうか。青い髪の騎士。どんな人だろう。国王直属の親衛隊を務めているらしい。きっと名のある方だから、カペラさんに訊いてみれば良かった。
ふいに、馬車が急停車した。
ロロは耳を澄ました。
喧騒に混じって、カペラさんの話し声が聞こえる。
「オルハさん、な、何でこんなところに」
「待ち合わせを」
「へ、へぇ。そいつは珍しいっすね」
「そうだろうか。・・・・・・君は? 昨日、王都に来たばかりだろう。そんなに急いでどこに行くんだい」
「あ、や、その」
カペラさんはしどろもどろだ。何かまずいことでもあったんだろうか。誰と話しているんだろう。ロロは幌から覗き見ようとしてぐっと堪えた。駄目だって言われたよね。せっかく親切にしてくれてるんだから、大人しくしていないと。これ以上、迷惑はかけたくない。そう思いつつ、盗み聞きはしてしまうロロである。
「急ぎで、陛下に頼まれものが」
「陛下に、ね・・・・・・」
奇妙な沈黙が下りた。カペリアーノ、と本名を呼ばれると、カペラさんはひぃっと奇声を上げた。
「君は役者にはなれないね」
「は、はひ・・・・・・?」
「積荷を見せろ」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください、蒼い髪の騎士・・・・・・!」
ロロは耳を疑った。
蒼い髪の騎士。
今、確かに。
いてもたってもいられずロロは布に顔を突っ込んで外に乗り出した。「ほわぁっ」「おっと」
海に飛び込んでしまったのかと思った。
そのぐらい深く、澄んださざ波の色。
驚いて体勢を崩したロロを、温かい腕が抱きとめた。
「カペラ」
静かな声音。死刑宣告のようにカペラさんは背筋を正す。
「二度はないと、言ったはずだ」
蒼い髪の騎士が何か合図を送ると、厳めしい甲冑を身につけた兵士が五人、カペラさんの身柄を拘束した。ロロはたまらず身を捩り、地面に足がつくと走った。
「何してるんですか!」
「ト、トド・・・・・・?」ロロです。
「カペラさんは道に迷った私を案内してくれたんです、やめてください!」
立ちはだかるロロに兵士達が戸惑いの目を向けた。カペラさんは必死に体を張るロロを見て、ふっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「ロロ」
「はい」
「あんた、馬鹿だね」
「は、い・・・・・・?」
「世間知らずの田舎もんが。あんた、騙されたんだよ。まだ気づかないの。馬鹿なんてもんじゃないな」
ロロは立ち竦んだ。
言葉を失っている間にカペラさんは連行されていく。
嘘をついていたのか。
カペラさんは、ロロに、嘘を。
それでも、と思ってしまうロロは、やはり世間知らずで田舎者で馬鹿なのだろう。それでも。ロロは下唇を痛いほど噛みしめ、きつく拳を握りしめて自分を鼓舞すると、遠ざかるくたびれた背中に叫んだ。
「お、お馬さん、可愛かったです、ありがとうございました!」
仮に嘘をついていたとして。
ロロが彼を庇った時に、便乗することもできたはずだ。そうしなかったのは、カペラさんの人柄を如実に表していると思った。良い人ではないのかもしれないけれど、悪い人でもない。だってロロはカペラさんが恐くなかった。ロロは悪意に異常なほど敏感だ。そして善意にも。優しさにも。
カペラさんは驚いた顔で振り返り、嘲笑には少し意地悪が足りない苦笑を浮かべ、行ってしまった。
「失礼」陽光をふんだんに浴びた温い海の水のような手の平がロロの肩を掴んだ。「大丈夫かい。どこか怪我は」
ありません、とロロは首を振る。そうか、と蒼い髪の騎士は頷いた。気遣うような視線に今はとても救われる。
溜息をつこうとして、でもどうしてか、喉がつかえて上手く息が吐けなかった。
「わたし」
あのまま連れていかれていたら。
「どうなっちゃってたんですか」
蒼い髪の騎士はどこか遠くを見やって、言った。「王都から南下すると貿易で名高い港町がある。そこで異国に売り飛ばされたか、あるいは・・・・・・隣国に、売り渡されたかもしれないね」
ここ、凪の国は、隣国である戒の国と長らく敵対関係にある。それこそ何千年もの戦の歴史。
今は停戦状態に落ち着いている。
このまま集結するのではないか、という噂も耳にする。
それと言うのも、十一年前、僅か十二歳で即位した新王の手腕が目覚ましいものだったからだ。彼は裏で反王権勢力として働く貴族達を次々に摘発し、まず国内の敵を一掃した。そうして国内の安定を図ると、隣国にこう申し開いたのだ。
もうお互い疲れただろう、と。
かつては大きな衝突を繰り返していた両国も、今や国境線上の小競り合いが年に数回、勃発する程度だった。何千年と積み重ねられてきた祖先の意地を、晴らすわけでもなくただ惰性で続いていく争いに、民は疲弊しきっていた。
信仰。
戦の原因は神についての見解である。
凪の国は双神教。戒の国は一神教。
双子の神と一人の女神。
どちらが正しいかが勝敗で決するなんておかしな話だ。
「あの」
ロロが伏し目がちに声をかけると、蒼い髪の騎士は穏やかな微笑を浮かべた。「何かな」
「蒼い髪の騎士さん、ですよね。わたし、あの、国境の教会から来た者です」
騎士の笑顔が凍りついた。
ごほん、と咳払いをして、「失礼、いや、その・・・・・・君は、女の子、だよね」
ロロは頷いた。性別にあまりこだわりはないけれど、女と呼ばれる生き物であることは承知している。
「まずったな・・・・・・」騎士は顔を手で覆った。
女だと何か問題があるのだろうか。神父様は何と言ったんだろう。まさか男と偽ったわけではないと思う。
「力持ちで体力があり、体も丈夫な子、と手紙に書かれていたから・・・・・・てっきり、男性だと」
「うはぁ」何ということだ。体力自慢が裏目に出るとは。力仕事に大いに役立ち、義兄にだって腕相撲で負けないほどの特技が。
どうするか、と騎士さんは顎に手を当て、「女性の枠は埋まっているしな」
「お城のお仕事ですか」
「そうだね」
「だったら、別に――」
ロロは男役でも構わない。力仕事にだけは自信があるロロである。これを利用しない手はないと提案しようとした時、蒼い髪の騎士の背を無骨な腕が叩いた。
いよーっす、と陽気な挨拶。
「なんだよオルハ。こんな目立つところで逢い引きか」
ロロと似た焦げ茶の髪を短く刈り込んだ、こちらも騎士だろうか。過度の装飾を施されていないシンプルな甲冑に身を包み、蒼い髪の騎士と同様の勲章が軍服の襟を飾っている。剣を振るうよりも子供の遊び相手の方が似合いそうな朗らかな笑顔だ。
柔らかい目元がふいに赤らんだ。「か、可愛い嬢ちゃんじゃねぇか」
ラナシ、とオルハさんは眉根を寄せ、「失礼だろう。この子は――」
「あー、いい、いい。遠慮しなさんな、俺に彼女がいないからって! いいねぇ、年の差カップル。そりゃちょっとばかし、いやかなり俺好みだけども、そこはあれだ、選ぶ権利は嬢ちゃんにあるわけで」
「だから」
「いっやー、心配してたんだぜ、俺、実は。お前はまぢで陛下一筋なんじゃないかって――」
ロロは目を泳がせた。さっきからロロは巻き込まれているのに置いてけぼりな、変な感じだ。劇中に出演していながら傍観する野次馬役で延々と脇に突っ立っているような。
あの、とロロは伏し目がちに言った。「わたし、あの、出稼ぎにきたんです、それで」
給仕のお仕事を。
ラナシさんは唇を引き結んで、恐々とオルハさんの横顔を見た。がっちり組んでいた肩をそろっと外す。
「あー、今の、なし」
「聞かなかったことにしておく」
「うん、それがいい」
んで。
ラナシさんがロロを見下ろした。威圧感を感じるほどの長身だ。ロロが小さいのか。あの紅い髪の男の人も背が高かったけれど、この人ほどじゃなかったと思う。
「話と違くね?」
「それで悩んでいたんだよ」
「なるほどなー。そりゃどげんかせんと」
二人は額を突き合わせて相談を始めた。ロロは判決を待つ罪人みたいな気持ちで整った顔を見比べる。
「いいんじゃねぇの、別に。事情を話せば」
「だが」オルハさんは言い淀んだ。声を小さくして言う。「陛下の悪い癖を、お前も知っているだろう」
ラナシさんはちらりとロロを盗み見て、「この子、知らないのか。あいつ目当てじゃないって?」
「ああ。国境の教会からはるばる出稼ぎに」
「何でまた。仕事なんてほかにいくらでもあるだろ」
「それは」
あれ、とロロは首を傾げた。僅かに焦りの見える蒼穹の瞳。
この人。
嘘のにおいがする。
オルハさんが大きく息を吸った。遮るようにラナシさんが言った。何故か慌てた様子だった。「ま、何か事情があんのか。確かに給料は高いしなぁ」
オルハさんは溜めた息を吐き、「陛下があの癖を治してくれさえすれば」
「無理だろ、あれは。なんだか知らんが、あいつにとって必要なことなんだろ」
「陛下とお呼びしろ」
「へぇへぇ」
困ったもんだよまったく。ラナシさんは伸びをするように両腕を天高く突き上げて、奇抜さを出そうとして失敗した彫刻のようにその姿勢で固まった。オルハさんが鼻柱に皺を寄せて訊いた。
「何の真似だ」
「思いついちゃった」
昼下がりの光を一身に浴びるラナシさんをぼけっと見上げていると、突然、がっしと肩を強く掴まれ、わきゃ、とロロは悲鳴を上げた。「思いついちゃったもんねーっ。降りてきたよ、今、何かが!」
近くで見ると子供みたいにきらきらした瞳は左右で色が違った。
驚く暇もなかった。
「君、男装したら」
・・・・・・はい?
* * * * *
「顔を隠している理由を訊ねられても、君は何も答えなくていい。俺が何とかする、いいね」とオルハさん。
「はい」と頷くロロ。
「多分、これでもかってくらいしつこいと思うけど、心を強く持つんだ。負けちゃいけない」
「・・・・・・はいぃ」
段々、自信が。
ロロは今、侍従の制服に身を包み、肩まで伸びた髪は目深に被った帽子にしまっている。無論、男性仕様である。
オルハさんに心得を説かれていると、脇で見守っていたラナシさんが言った。「なかなか様になってるんじゃねー? 背が小さいのは、まあ、これからが成長期だと思って。少年尻だし、喋らなきゃぼろは出ないだろ」どうせロロは寸胴です。
「ふぉ、ふぉろーしてくださいね、わたし、ちゃんと黙ってますから!」
「おーう、まかしとけーい」
不安だ。
何でもこれから新人のお披露目会があるらしい。ロロの他に侍女が五人。彼女らとは別の控室にロロはいる。どこをどう切り取っても豪奢だ。壁も、絨毯も、備えつけの家具も、とてもただの待合室とは思えないくらい。これが王城。ロロは慣れない革靴の底で絨毯を擦った。ふさふさの毛の感触がこそばゆい。
ここが正念場だ、とオルハさんがロロの肩に優しく手を置いた。「披露宴が終われば、陛下が君に興味を示すことはないだろう」
「どうしてです」
ロロが首を傾げると、オルハさんはさらりと言った。
「陛下は女性にしか興味がないから」
それってただの駄目親父ではないか。
ロロの中で大事に育て上げていた国王のイメージが瓦礫と化した。長き戦いに終止符を打つべく、日々、奮闘する人物とはとても思えない。
ふと疑問が浮かんだ。王様に隠し通せたとして、その後はどうすればいいのだろう。
「あの」
「何かな」
「王様にばれなくても、ほかの人にはそのうち、ばれちゃうんじゃないですかね・・・・・・」
オルハさんの穏やかな微笑に亀裂が走った。
まさか。ロロはラナシさんを見上げた。顔を逸らされた。
この人達、何も考えていなかったのでは。
「ど」ロロは腕を交差した。よくわからないけれどそうしたくなったのである。「どどどどど」
「さて、そろそろ時間だ」
「えええっ」
柔らかい物腰とは裏腹の、有無を言わさぬ強さで背を押され、ぽんと廊下に放り出された。何てことだろう、ロロはこれから煮え滾る竃に飛び込もうとしている。
「オ、オルハさぁん」
「大丈夫、君ならできる」
「俺は信じてるぜ!」
「ラナシさんまでぇ・・・・・・」
泣きごとを零そうとしたロロは、はっとして唇を引き結んだ。突き刺さる視線を肌で感じ振り返る。
それはそれは煌びやかな衣装で着飾った娘達が列をなし、冷ややかな目でロロを見ていた。一人一人異なる意匠は制服というよりドレスだ。ロロの簡素な侍従服とは違う、貴族の令嬢といった身なり。実際、この城で働く侍女のほとんどは有力貴族の出身で、それも国王目当てだという。凪の君主は見る者を虜にする妖艶な美貌と儚げな雰囲気の持ち主で、一介の市民、それも王都から遠く離れた地で育ったロロは未だご尊顔を拝見したことがない。それこそ一生ないはずだった。
どうしたら。ロロは不思議に思った。どうしたら、彼女らのように誰も彼もを敵とねめつけるような目ができるのだろう。近寄りがたい空気に足が竦んでしまう。
やんわりと大きな手の平がロロの頭を撫でた。帽子がより深く沈み、鼻まで覆った。
「おら坊主、びりっけつは最後尾だぞ」
「あ、は、はい!」
見えない視界で壁に激突しそうになったロロを、ラナシさんが慌てて引き止め、方向修正した。
広間に通されロロは唖然とした。
壇上に設えられた玉座に君臨するその人。
燃え盛る煉獄の炎の髪に、真っ黒なジャージに包まれる均整のとれた肢体。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
地図を渡してくれた親切なあの青年だ。
五人の娘と一列に並び、その右端で肩を小さくするロロは、隣に立つオルハさんを振り仰いだ。口がぱくぱくして声も出ない。オルハさんは懸命にロロの唇の動きを読もうと不毛な努力をしている。この人、意外と天然だ。ロロはより一層、不安を掻き立てられた。規則や心構えを説明する大臣の言葉も頭に入ってこない。
ロロは慎重に帽子の唾を持ち上げ、王様の様子を窺った。
湖面のように静かな緑の瞳と目が合った。
悲鳴を上げそうになった口をオルハさんが塞ぐ。鬱陶しそうにこちらを睨む大臣に、失礼、と断ると、「彼の口があまりにも臭かったので」
それはふぉろーと呼べるのですか。
壁際に並ぶ騎士の一人が腹を抱えた。ラナシさん、あなた絶対に楽しんでますよね。
何か言われるのではないか。そうロロは身構えたが、王様はふい、と視線を逸らし、
「一番目、合格」
突如、左端で背筋を伸ばす金髪の娘を指差した。
「二番目も合格。三番目はぎりぎり許容範囲。四番はもう少し化粧落とせ。五番、合格。なかなかだ」
何だ、何が始まったのだ。困惑するロロの眉間を、するりと滑った人差し指が捉えた。
彼我の距離はとても離れているのに、額を床に縫いとめられる心地がした。
「お前は――」
ロロは咄嗟に給帽を押さえ俯いた。絨毯の毛並みを目で洗うロロの耳の横を流れる冷や汗。
「脱げよ、それ。失礼な奴」
彼は、とオルハさんが口を挟んだ。「生まれつき、顔に酷い痘痕を患っております」
「彼、ねぇ」王様は呟いた。「それで。だから何」
「彼には熱意と実力がある」
「具体的に」
王様が顎を上げると、オルハさんは今までにない饒舌を披露した。
「彼は象を片手で担ぐ並はずれた腕力を持ち、一秒間に五枚皿を洗う特技、一日に可能な洗濯量五トンに加え、一人で城中の廊下を雑巾がけする体力があります。故に、美醜を問わず、こうして給仕に迎え上げた次第です」
ラナシさんがついに壁を叩いて爆笑した。
ロロは最早、立っていることもできそうになかった。
オルハさんは得意顔で、どうだと言わんばかりに胸を張られても、
困る。
「オルハぁ」王様は半眼で睨んだ。「お前、その癖、どうにかしたら」
「と、言いますと」
「・・・・・・あー、いいや、もう」王様は呆れて物も言えない、といった風に溜息をついた。「じゃー最後に。お前ら全員、俺を一言ずつ讃えろ」
ロロは眩暈を堪えた。
ここにはまともな人間がいないのか。
訳のわからない要求に、他の新人侍女達は何故かうっとりと頬を赤く染めている。
すらりとした長い脚を惜しげもなく剥き出しにした真ん中の娘が前に進み出て、噂以上のお美しさに言葉も出ませんわ神々さえもその美貌の前には物憂げな吐息を零すことでしょう私も今にも昇天しそうで云々。次に長い黒髪をなびかせた娘が、陛下に仕えられるなど至極の誉れです一目拝見しただけで天寿を全うできるというのにこれから同じ屋根の下で云々。次に、何者にも染まらない陛下を敬愛しやみません情熱を秘めた紅の御髪と純度の高い海原のごとき翡翠の瞳に私の心はもう骨抜きで云々。次に云々。次に・・・・・・。
なるほど。
これが褒め称えるということか。
正直に言わせてもらおう。
「一言じゃないですよ・・・・・・っ」ロロは小声でオルハさんに進言した。
明後日の方向を向かれた。
もう誰も信じられない。
小鳥の囀るような長い口上が途切れ、広間にしんとした静けさが降り積もった。
ロロの番だ。
王様の目が真っ直ぐにロロを射抜いているのを感じる。娘達の冷ややかな視線も突き刺さる。頭の中が真っ白になった。いけない。冷静に、冷静にならないと。落ち着く方法が確かあった気がするのだが、駄目だ、思い出せない。余計に気持ちが焦る。
「あ、あの、えっと」ロロは喘ぐように口を開いた。「と、とっても・・・・・・お綺麗だと・・・・・・思います・・・・・・?」
なにゆえ、疑問形なのか。
自分で自分につっこんだロロである。
漂白した空気が襟首を吹きつけた。オルハさんが呆れた様子で額を手で覆った、が、あなたにそんな顔される筋合いはないです。
あっは、と笑う声。
「確かに、一言だ、はは、すっげぇ」肩を震わせる王様が言う。「くく、お前、馬鹿だろ、ふは」
ロロはどうしたらいいんだろうか。
ロロは何を求められているんだろうか。
膝を叩いて爆笑する王様に合わせて笑えばいいのだろうか。
残飯を漁る浮浪者を見るような貴族の視線が痛い。
王様はひとしきり笑うと、犬でも追い払うような仕草で手を振り、閉幕を宣言した。「解散」
大扉へ誘導される列の後ろについた直後だった。お前、と王様が声を張った。そこの根暗ちび! 構わず行こうとしたロロは肩を跳ねさせて振り返った。根暗とはロロのことなのか。顔を隠し床と睨めっこして、喋りも下手くそとなれば、暗い性格に見られても仕方ない。
「お前は居残り」
顎が外れそうになった。
「あ、あの、でも」
「口答え」王様の目がすっと細くなった。「するんだ、俺に」
「しかし、陛下――」
オルハさんが口を挟むも、王様は一蹴した。「オルハ、お前は黙ってろ」
すれ違い際、ラナシさんとオルハさんが申し訳なさそうな顔でロロを見た。ロロは曖昧に口元だけ笑っておいた。二人はロロのために尽力してくれたのだ。予想外に天然なオルハさんと行きあたりばったりな計画と馬鹿なロロ。失敗した理由はいくらでも挙げられる。元々、無理難題だったのだ。大体、ドジでおっちょこちょいなロロに他人を欺き続けるなんて到底、無茶な話で、この場はしのげたとしてもそのうちばれるに決まっていた。
広い空間にぽつんと取り残されたロロ。
ロロは諦めて息を吐き、壇上で睥睨する王様を見上げた。ちゃんと事情を説明しよう。彼の性格が名声通りならば、例え態度は粗暴でも、決して悪い人ではないはずだ。話せばわかってくれるかもしれない。許してくれなかった時のことは考えない。
微かな金属音がロロの注意を惹いた。
王様の手の平に収まる小さな金貨。
「遊ぼうか」
彼は器用に片手で貨幣を弄びながら言った。
「表か、裏か。負けた方がマスターベーションな。人の自慰行為ってどーにも笑える」
「じー・・・・・・?」じー。じい。ロロは窺うように訊ねる。「に、にらめっこですか・・・・・・?」
「ふむ」王様は少し考えて、「そいつも悪くない、悪くはない、が・・・・・・どうだろうな。まあ、そっちの楽しみは後に残しておくとして」
面倒くさそうに王様はロロを急かす。「いーから早く答えろよ。俺が今、求めてるのは是か非」
ロロは咄嗟に答えた。「表、で」
王様は満足げに頷いて、金貨を指で弾いた。
ごくり、とロロは喉を鳴らした。
「残念」
王様がロロに引き当てた貨幣の面を見せつける。
「裏だ」
この状況でなければ、その蠱惑的な微笑みに心を奪われていたかもしれない。けれど今は、ただひたすらに恐ろしくて。
「つーわけで」王様が手を叩いた。「さっさと始めて」
ロロは目を泳がせる。「始める、て・・・・・・?」
「呑みこみの悪ぃガキだな。一人でヤれって言ってんの」
「ぶぇ・・・・・・?」
しどろもどろのロロに王様が眉を吊り上げた。「まさかほんとにわかんねーんじゃねーだろーな。お前、いくつよ。男だっつーなら、したことあんだろ」
ロロはぎくりと身を強張らせた。男の子のことなんて何もわからない。女の子のことさえわからなくなりかけているのに。
「それとも」
ぎし、と玉座が軋んだ。
床に降り立った王様が近づいてくる。
ロロの前に立ち塞がった長身は、街で会った時よりも大きく感じた。
「一人じゃ服も脱げないって?」
ロロの胸元を細く繊細な指が掴んだ。
制服の第一ボタンが外れた。
瞼の裏で七色の光が弾け、
「い」
「い?」
「いぎゃああああああああっ」
渾身の平手が主君の左頬を強打した。
オルハーランスはふと窓の外に目をやった。
甲高い悲鳴を聞いた気がした。
じっと耳を澄ましてみるも、争う声や物音はしない。気づけば物憂げな溜息が零れていた。また幻聴か。いつまでたっても、その声は消えない。消えやしない。
どれほどの年月が過ぎようとも、俺の罪は許されない。
不思議な浅緋の瞳が脳裏をよぎった。彼女は大丈夫だろうか。陛下に何か嫌がらせをされていないといいけれど。彼女には申し訳ないことをした。良かれと思ってしたことが裏目に出てしまった。
かなりの無理をおしてでもロロの力になろうと思ったのは、もう失ってしまった命を、彼女に重ねて見てしまったからかもしれない。
浅はかなことだ。愚かだ。自分は全く成長しない。
罪の意識から行動するのはやめようと、あの日、陛下が首を吊って死にかけた日に、誓ったはずなのに。
だがそうして得たものがあることも事実だ。
オルハーランスは彼を息子のように思っている。
本人は嫌がるだろうし、本来なら許されない身分なのだけれど。
荒々しく扉が叩かれた。返事も持たずに入ってくる真っ赤な髪。オルハーランスは苦笑した。子供扱いされることを口では拒絶しつつも、まんざらでもなさそうに見えてしまうのは、オルハーランスの我儘だろうか。
その陶磁器のように滑らかな頬が赤く腫れているのを目にし、オルハーランスは慌てた。
「どうしたんです」
「面白い玩具を見つけたんだ」陛下は上機嫌に目を細めた。「お前が拾ってきたんだろ、あいつ」
「その頬は」
「殴られた」
「ロロにですか」
陛下はふーん、と顎を撫で、「ロロっていうんだ、あいつ。覚えやすい名前」
怪我の具合を確かめながらオルハーランスは息を吐く。「一体、何をしたんです」
「服脱がそうとした」
「・・・・・・何てことを」
「罰ゲームさ。敗者に相応しいペナルティを用意してやったというわけだ」
「逆に食らってどうするんです」
「ほんとだよ、身も蓋もねー」
けらけらと無邪気に笑い、「あいつ、女だろ」
オルハーランスは口を噤んだ。どうするべきか。頭の中で判断が飛び交う。
ややあって、オルハーランスは首を横に振った。「ロロは男でもあり女でもあります。北の大雪原に禁断の果実が存在するのをご存じですか。ロロはそれを食べたことで両性類となり陸でも水中でも活動できるようになったというわけです。ちなみに――」
「たんま。すとっぷ。そこまで」陛下はやれやれと肩を竦めた。「つっこむ暇もないってーの。鳩尾にぱんちしたい気分だわ。要するに、あいつは女じゃないと、お前は言い張るわけだろ」
ふむ、と何か考える素振りを見せると、ふんと鼻を鳴らして、
「なーんか聞いたことある気がするんだよな、あいつの声・・・・・・田舎臭さがぷんぷんするっつーか・・・・・・あのちっささも何かでじゃぶ・・・・・・まあ、いいさ。あくまでもしらばっくれるっつーなら、賭けをしよう」
オルハーランスは眉を顰めた。陛下の悪い癖だ。何でもかんでも遊びにしたがるのは。自ら遊戯を仕掛けなければならないほど、彼にとって世界はつまらないものなのだろうか。それはとても悲しい。冗談で塗り潰さなければ生きていかれぬ世界など。
あるいは。
誤魔化しているだけなのかもしれない。
「俺が勝ったら、そうだな・・・・・・何がいい」
顎に手を当て、陛下は逆に問うた。
「お前は俺に何をしてくれる」
こんな風に試すような物言いをする時、大抵、彼は大それたことは求めていない。彼が望むのは、ほんの些細な幸福と、ほんの些細な愛情だ。
オルハーランスはお手上げとばかりに両手を上げ、「気がすむまでお付き合いしますよ。チェスでもトランプでもオセロでも」
瞳を輝かせる陛下は幼子そのものだ。過酷な人生を歩んできて、この無邪気さを失わずにいてくれたのはせめてもの救いである。
「やり。んじゃ、あれだな」
オルハーランスはすぐに自身の発言を後悔した。
「朝日が昇るまで夜通しあやとりしよう」
これ以上、ロロに負担をかけるわけにはいかないが。
オルハーランスは祈るように目を閉じた。
俺の命運は君の肩にかかっている。
* * * * *
ロロは鬱々とした気分を引きずったまま仕事場に顔を出した。
目の下には濃いクマができている。自分がしでかしたことを考えると一睡もできなかった。枕に顔を埋めて手足をじたばたさせて夜を過ごした。事情を考慮して一人部屋を与えられたのが唯一の救いだった。普通の従者は三人部屋らしい。破格の待遇である。
いつ死刑を宣告に遣いの者がやって来るかと怯えていたが、なんとか今日はこうして日の目を拝むことができた。明日はどうかわからない。
国王を張り飛ばすなんて。
きっと前代未聞だ。
だけど、家臣の服を脱がそうとする王様も未曾有の人物だと思う。
給仕場にはすでに数人の侍女が顔を並べていた。ロロは帽子を深く被り直し、そろそろと気配を殺して部屋に入った。
誰かの足を踏んだ。「わ、ご、ごめんなさい」
「気にしないで」
すぐに柔らかい声が近くで聞こえた。
「君、新しく入った子だよね。僕はシェルジュ。よろしくね」
差し出された手を握り、ロロは頭を下げた。「よろしくお願いします」
「いいよ、そんな畏まらなくて。歳もそう変わらないし」嬉しいんだ、とシェルジュは明るく言った。「ここ、男少ないから、肩身狭くて。これから一緒に頑張ろうね」
シェルジュはもうかれこれ三年は城で働いているらしい。大先輩である。困ったことがあったら何でも言ってね。そう朗らかに笑う声を嬉しく思う反面、心苦しく感じた。ロロは嘘をついている。男じゃない。それでも、こうして声をかけてくれたことは喜ばしい。頑張ろう。そう思えた。
「全員集まってるかい。ねぼすけはいないね」
張りのある声に早朝の緩んだ空気が引き締まった。
恰幅のいい中年女性が腹を揺らして扉をくぐる。ぐるりと集まった顔ぶれを確認すると大らかに頷いた。あの人が給仕長だよ、とシェルジュが小声で教えてくれた。
不安と期待でそわそわする新人を窘めるように給仕長は少しきつめの声で語った。ここでは出自は一切関係ないこと。どれだけ高い地位も何の役にも立たないこと。失敗したら叱られるのは当たり前、疲れても温かいお茶とスコーンは出てこない。でも、と給仕長は陽だまりの笑みを浮かべて言った。その代わり、努力した分だけ成果が出る。頑張れば褒めてもらえる。
「あんた達の大半は陛下目当てだろう。お褒めの言葉を賜りたいのなら、精々、頑張りな」
貴族の娘達は揃って晴れやかな表情を浮かべた。鮮やかな美貌が更に際立ったように見えた。
ロロの気分は沈んでいく。
そう、陛下。
問題は王様だ。
「さあさ、わかったら早速、仕事に取りかかるよ!」
給仕長が勢いよく手を叩くと、侍女達はわっと散った。これからは一人一人に指導の人間がつく。彼らに従い、慣れない作業に没頭し始める。
ロロは俯いて床の埃を見つめた。
「何、暗い顔してんだい」
景気の良い声にロロは顔を上げる。
「あんたの事情は聞いてるよ。他の皆にはちゃんと内緒にしてある。力になってやるから、できる限りやってみな」
「きゅ、給仕長ぉ」不覚にも涙が。
「何の話」シェルジュが首を傾げる。
ロロは慌てて手を振った。「何でもないんです」
ふーん、とシェルジュは唇を尖らせ、「世話役の僕にも言えないこと」
「え、えと」ロロは困った。ロロの指導役なら、ある程度の話は通しておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。給仕長に意見を窺おうとしたロロだったが、ふと嫌な気配を感じて振り返ろうとした。
首根っこを掴まれた。
「わ、う、わ」
「捕獲」
「わーっ」
少し喉がごろごろ鳴るこの低音は。
ロロが体を反転させると、うなじを掴む腕は案外、あっさりと外れた。
痛々しい湿布が覆う腫れた頬。
「痛そうです!」
「痛ぇよばーか」王様はぶっきらぼうに言った。
「ご、ごめんなさい・・・・・・! 本当にごめんなさいです・・・・・・!」
ロロはがばっと頭を下げた。膝におでこがくっつきそうなぐらい上体を倒す。体柔らかいな、と王様の呟き。
「う、打ち首だけは、どうかご勘弁を・・・・・・!」
王様は何も言わない。ロロは必死に謝罪した。
「痛かったですよね、ロロは馬鹿力だけが取り柄だから、は、歯とか、折れてたり――」
もっとロロの頭が良かったら、ましな謝罪も出てきたのだろうが。ロロには申し訳ないとひたすら頭を下げることしかできない。
くく、と喉で笑う声。
王様は品性の欠片もなく大声で笑いながら、身を屈めて、何かを拾った。
なるほどね、と何やら納得し、「どうやら縁があったみたいだな」
すっとした細長い指には給帽が握られている。
「遊びにきたのか」王様はまだ収まりきらない余韻に肩を揺らした。「オルハには悪いが、賭けは俺の勝ちみたいだな」
ロロは呆然と頭部に手をやった。
ぼさぼさした髪の感触。
視界は良好だ。
目を丸くしたシェルジュの顔も良く見える。
すっとした目鼻立ちにかかる金色の巻き毛。
思ったより格好いいではないか。
ではなくて。
「わ、わ、わ・・・・・・」
「まぁ、落ち着け」
「お、落ち着けませんよ!」ロロは拳にぎゅっと力を入れて叫んだ。「落ち着けるもんですかー!」
「あっは、てんぱってるてんぱってる。面白いなー、お前」
目を白黒させるロロの顔に布めいたものが押しつけられた。一瞬、止まる呼吸。
「そんな色気ねー服は脱げ。んでこっち着ろ」
見れば、それは侍女服だった。
一見、簡素な印象を受けるが、要所要所にあしらわれた装飾が可愛らしい。煌びやかながらも必要以上の派手さを抑えた見事な一品である。ロロ好みであり、くすんだ茶色い髪にも似合いそうだ。
王様は鼻高々に言った。「俺直々にデザインしてやったんだぞ、感謝しろ」一晩で作り上げたのはラナシだけどな。王様は意外な注釈を入れ、ん、とロロに召し物を渡した。
あと、これは靴下。履物も変えろ、合わん。下着ってどうしてんの、まさか着けてないとか。
王様の声も右から左へ流れていってしまう。
どうしよう。
ばれてしまった。
ロロはここを追い出されるのだろうか。
そうしたら、神父様はどうするだろう。教会の皆は。援助が受けられず、食べるものもなく、ひもじさに一人また一人と倒れていく――。そんな光景を想像してロロは血の気が引いた。何とかしないと。何とかしないといけないのはわかっているのに、どうすれば何とかなるのかわからない。
ぐつぐつと煮詰まった思考がロロの判断を鈍らせた。
「何、ぼーっとして。立ったまま死んだの」王様がにや、といやらしく笑う。「だったら勝手に着替えさせても文句言わないよな」
硬直するロロの一瞬の隙をついて、節の目立つ指が胸のボタンを外した。
「おー」感嘆の声。「体格通りのつるぺた。この分じゃくびれも期待できな――」
王様ははっと息を呑んだ。
ロロの胸元にしまわれた首飾りを凝視する。
「お前、これ」
「え・・・・・・」さらさらした深紅のカーテンが鼻先をくすぐり、遅ればせながら正気を取り戻したロロは、自分の痴態を見下ろして、「ぎゃ・・・・・・っ」
湿布に重ねるようにビンタをお見舞いすると、「王様のばかぁ・・・・・・!」胸元を掻き集めて逃げ出した。
もう駄目だ。
今度こそ本当に、首がとぶ。
床に伸びていた彼は給仕長に助け起こされた。気持ち良いほど遠慮容赦ない一撃に軽く自分が誰だかわからなくなりかけた。いかなる暴力も自分は耐える自信があるが、こればかりはそう何度も食らいたくない。床にだらしなく胡坐をかき、彼は腹を抱えて笑った。楽しい。楽しすぎる。ちょっとつつけば常識外れの行動に走る様は、初めてやったポーカーでラナシの身ぐるみを剥いだ時よりわくわくする。
いってー、と彼は湿布の剥がれた頬を撫で、「あいつ、ロロだっけ。昨日と同じとこ殴りやがった」
「二度目かい。全く、あんたって子は」給仕長は呆れ顔だ。
いくつもの視線が集まっているのを感じた。当たり前の反応である。男の服を着た女が国王を張り飛ばしたのだ。仕事も手に着かなくて当然だ。
給仕長が彼を叱った。「あんた、またそんな恰好で。示しがつかないからジャージで城を徘徊するのはやめなって言ってるだろ」
「いーだろ別に。素晴らしいだろジャージは。正装は何かいっぱいぢゃらぢゃらしててうざい。動きにくい」
「そういう問題じゃないさね」
給仕長の濃厚な溜息も何のそのだ。彼は嫌味ったらしく片頬を持ち上げると、よっこらせ、と膝を伸ばした。ロロの消えた廊下を見やる。つーかよ。彼はまた込み上げてくる衝動に逆らわず大笑いした。王様のばかって何だよ。陛下だろ普通。
面白いからいいけど。
「気にいったのかい」
給仕長の含みのある言い方に彼は少し機嫌を損ねた。「何だよ急に」
「あんたがあの子に触れたからさ」
彼は驚いて自分の指先を見つめた。右手の甲を覆う包帯に隠されるのは、甘い蜜のような秘め事。芳しい香りに誘われて食らいつけば最後、果てに待つのは地獄も可愛く見えるほどの絶望だ。
空虚な彼には遊びが必要だ。盛大な遊戯が。
遊び相手は選ぶ権利がある。
彼の許可なしに彼に触れることは許されない。大切な規則だ。これが守れない輩は即刻退場である。
逆に言えば。
彼が触れるのは、彼が許可した者だけ。
赤い瞳。赤い石。
「あいつ――」
彼は床に落ちていた侍女服を拾い、埃を払いながら呟いた。
「何か、あるな」
彼は制服を給仕長に預けた。戻って来たら渡す旨を伝えた。今頃はオルハにでも泣きついているだろう。
そうして、給仕場をざっと眺め、「二人借りてく」
「・・・・・・新人いびりは感心しないよ」
「いびってねーよ、別に」彼は目を細めた。「一緒に遊ぶだけだろ」
彼は一心にこちらを見つめていた巻き毛の青年の名を呼んだ。白磁の頬が薔薇色に染まる。彼が遊ぶ給仕はほとんどが女だ。触れないとはいえ、どうせ遊ぶなら若くて可愛い方がいい。それが言い訳だというのは自覚した上で無視している。彼は男が嫌いだ。思い出すだけで吐きそうになる理由がある。
だがシェルジュだけは別だ。
こいつはロロとは違った意味で楽しめる。
駒はやはり、手中に収めていなければ面白くない。シェルジュはいわば籠の中の鳥だ。己の意思はとうに失くしている。彼が奪った。哀れではない。感謝してほしいくらいだ。濁った眼球の曇りを取り去ってやったのだから。
「あとは・・・・・・適当。お前でいいや」
一番、近くにいた新人を指差し、今夜九時、と彼は言い渡した。挨拶もなしにさっさと部屋を辞す間際だった。
小さな舌打ちが聞こえた。
奥で皿洗いを指導していた見事な黒髪の侍女だ。この女も古株であり、かなりの頻度で彼と遊んでいる。そのせいか何か勘違いしているようだ。面倒なので最近は遠ざけている。
熱っぽい視線をその背に集め、彼は廊下に出た。
今日も楽しめるといい。
そうすれば彼は安らかに眠ることができる。