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うしろのしょうめんだあれ  作者: るかひ
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第二幕『かごめかごめ』

    第二幕『かごめかごめ』



 あの、とロロは訊ねる。

 何、と王様は答える。

「わたしたち、何やってるんですか」

「チェス」

「いや」ロロは肩を落とした。「それはわかるんですけど・・・・・・」

 片や国王、片や召使いが、仕事をほっぽって何をやっているのか、ということが言いたいのである。


 城仕えが始まって三日たった、ある昼下がりのことだ。

 シェルジュの指導のもと、ロロは倉庫の整理に励んでいた。大の大人も敵わない腕力を発揮するに申し分ない仕事内容である。

 甘かった。

 たかが荷物運びと高をくくったのが間違いだった。

 床に置かれた箱に足を引っ掛けて中身をぶちまけた挙句、腕に抱えていた工具も散乱させる始末である。大惨事だ。ロロは注意散漫な自分を理解していなかった。

 シェルジュに宥められつつ、泣く泣くドライバーを拾おうとしたところ、横からひょいと腕が伸びてきた。差し出された工具を両手で受け取り、「ありが――」

 顔を上げたロロは口の端が引きつった。

 整った容貌が嘲るようにロロを見下ろしている。

「とろくせーの」

「わぁっ」

 驚いたロロは体勢を崩して尻もちをついた。王様は僅かに身を屈めた。「白の無地」

 ロロの下着の色である。

「やーっ」

 繰り出した右拳は軽やかにと避けられた。「そう何度も食らうかっつーの」

「ご、ごめんなさい、わたし、また・・・・・・っ」

「からかいがいのある奴だなぁ」王様は愉快そうに肩を揺らした。

 ロロは気を取り直して訊ねた。「何かご用事ですか。探し物とか」

 ここは広い敷地の隅っこに建てられた、ほとんど使い道のない道具や機材が保管されるような場所で、何の理由もなしにふらっと訪れるような所ではない。てっきり倉庫の中に用があったのだと思ったロロは、いや、と王様の否定に目をぱちくりさせる。

「お前の様子を見に来た」王様はしげしげとロロの全身を眺め、「服、どうかと思って。なかなか様になってんぞ。さすが俺」

 自分のこと褒めに来ただけじゃないのか。

 そう、ロロは今や立派な侍女である。顔を隠す帽子も外している。やはり周りに嘘をつき続けるのは心苦しいものがあった。頭が重くなるのでロロはあまり帽子の類が好きではないし、素の自分でいられるというのはこんなにも楽なのだと学んだ次第である。ばれてしまった時はどうなることかと思ったが、結果的にこうして仕事にありつけているのだから、失敗は成功のもととは良く言ったものだ。

 賭け事に負けたらしいオルハさんは日が沈んでから夜が明けるまでひたすらあやとりをするという苦行に精神が崩壊して復帰に丸二日かかったという。彼の尊い犠牲はロロの胸でひっそりと息づいているのだった。

 ロロの半眼をどう受け取ったのか、王様は少し慌てて付け加えた。「あれ、不満? バストぶかぶかとか、胴がきついとか、袖が長いとか?」

「ばかにしてませんか」

「してるしてる」

「むがーっ」

 王様はいきり立つロロの頭を押さえながら、金の巻き毛の青年に向き直った。「シェルジュ」

 王様が名を呼ぶと、シェルジュは金色に輝く巻き毛を更に煌めかせて瞬いた。

 明るい表情はすぐに沈んだ。

「こいつ、借りてくな」

 一番、驚いたのはロロである。

 こいつ、と言って王様が指差したのは、他でもない、自分だったからだ。

「うえぇっ」

「うるさい」

「あ、す、すみません」ロロはただでさえ小さな体を一回り縮めて、おずおずと訊いた。「あ、あの、わたし、また何か」

「今現在、大失態を犯したわけだが」

 ロロ、撃沈である。

「それはまあ置いといて、だ。安心しろ、お前は悪くない」

 ロロは意外な想いで王様の瞳を見つめ返した。吸いこまれそうな光を放つ翡翠の双眸。その目元が僅かに緩む。ロロは何だか不思議な気持ちになった。ロロの失態を王様は腹を抱えて笑うけれど、そんな風にけらけらと無邪気に笑う姿はそうそうお目にかかれないとオルハさんは言う。そう言われてみれば、遠目に見る王様は確かに仏頂面でいることが多い。複雑だ。王様が楽しいそれすなわちロロの失敗である。

 王様は偉そうに腕を組み、「俺が暇なだけ」

 ロロは膝から力が抜けて崩れ落ちた。

 がっかりしても仕方がない。

 誠実で清楚な聖人を想像していたロロにとって、ジャージ姿の茶目っ気たっぷりの現実は落差が大きすぎた。親しみやすいとは思う。だが一介の召使いが君主と慣れあっていいものか。ロロの責任ではないはずなのだが。

 本人の意思はそっちのけで王様は話を進める。「オルハに仕事取られて退屈なのよ。お前、チェスできるか。今日は斜めにひとっ飛びしたい気分なんだ」

 ロロはぎくしゃくと頷いた。「おぼろげなら」

「わかんねーならそう言え馬鹿」

 額にでこぴん。

 怯んだロロの腕を取り、王様はさっさと歩きだしてしまう。「早く」

「あ、でも、お仕事が」

「あ? 何? 手取り足取り教えてほしいって?」

「うはー、それだけは勘弁してください」

 王様は怖い感じに目をすがめて足を止めた。「王の戯れに付き合うのも給仕の一環だとは思わんかね」

 それは。「ずるいです・・・・・・」

 項垂れたロロの髪を王様は引っかき回した。「犬みたいな、お前」

「にゃーっ」

「それは猫だ」


 というような出来事があり。

 ロロは今現在、禁断の罰ゲームに従事しているのである。

「い、いった、痛いっつの、バカてめぇ、そんなに強く掴む奴があるか・・・・・・!」

 ロロは怯えて喉を細くし、見た目よりがっちりした肩を揉みほぐす力を抑えた。

 王様の規則説明は非常にわかりやすかった。物覚えの悪いロロにも辛抱強く付き合ってくれて、何とか前進できる程度にはチェスの規則を把握できた。付け焼刃で勝てる相手ではなかったということだ。連敗した。ぼろ負けだった。始めて五分とたたず盤上は黒く蹂躙された。罰ゲームと言われて何をやらされるのだろうと心臓を縮み上がらせたロロだったが、

「肩揉みは、禁止されて、いたので・・・・・・!」

 その昔、神父様の鎖骨を折ったロロである。

「もういい。交代だ」

「ぎょえ」

 王様が椅子から立ち上がり、ロロは間の抜けた声を上げた。考えてみたらな、と王様はロロに指を突きつけ、「お前の肩揉んだ方が罰ゲームになりそうだ」

「うぇ」

 ロロは後ずさった。一国の主の肩揉みなんて、考えただけで罰が当たりそうだ。ロロははっとした。確かに罰ゲームである。

「い、いいです、ロロは、あ、わたしは、肩凝りませんから! 健康だけが取り柄ですから!」

「馬鹿は風邪引かないってか。知るか、そんなの。負けたお前が悪い。観念しろ」さり気なく酷い。

 椅子を間に挟んでじりじりと時計回りだ。

 青ざめるロロに差し伸べられる救いの手。

「な・・・・・・にしてるんです」

 呆れた吐息が二人の間に割って入った。ロロは扉を開けた姿勢で固まる蒼い髪の騎士に駆け寄った。

「オルハさぁん」

 涙目のロロの頭をオルハさんは優しく撫でる。非難がましい目で王様を見て、「あまりからかうと嫌われますよ」

「からかってなんかないさ。俺はいつだって本気だ」

「なおのこと問題だな」

 オルハさんはふっと息を抜くように笑った。表情は控え目だけれど、とても喜んでいるのを感じた。日常生活では支障がでるぐらい鈍いロロだが、感情の機微には異様に聡いのである。ドジなくせに変なところは敏感なのだ。

「つーか、オルハ」王様は唇を尖らせてオルハさんを睨んだ。「仕事、返せ」

 オルハさんはやれやれと首を振った。「あなたはすぐ根を詰めるから。食事と睡眠を忘れる癖を治してくれたら、俺も考えるんですけど」

「国王ってのは多忙なもんだろ」

「過労死したいんですか」

 王様はにやりと笑って否定した。「いいや」

 どこか危うい光を孕んだ目。

 薄ら寒さを感じ、ロロは王様に詰め寄った。「お体は大事にしてください!」

 思いがけない大きな声にロロ自身が驚いた。すみません、と肩を落とす。王様は目を瞬かせ、ふい、と顔を背けると、大仰に溜息を吐いた。呆れられているようだ。

 そういえば、と苦笑しながらオルハさんが言った。「通達が来ていましたよ。荷物の受け取りの。ラナシの奴は手が離せないようで」

「何!」王様の瞳が輝いた。その矛先がロロに向いた。「よしお前、取りに行って来い」

「わ、わたし、ですか」

「ああ」王様は大仰に頷いて、ロロのために地図を作製した。城を出て街まで下りなければならないらしい。迷わない自信はないのだが。これから買い出しなどにも駆り出されるだろうから、今のうちに慣れておけ、と王様は言う。

「陛下も一緒に行って来たらどうです」

「却下」オルハさんの提案を王様は一蹴した。「俺には仕事があんの」

「俺がやっておきますよ」

「首刎ねっぞ。いいからその書類の束、寄越せや」

 脇に抱えていた紙束を奪い取り、王様は執務机に座った。オルハさんは困り顔だ。そんなに王様に仕事をしてほしくないのだろうか。普通、逆だと思うのだけど。

 そういえば、近く、といっても広大な森を抜けたところにある街までの買い出しに誰がついていくか、義兄姉とよくじゃんけんをして決めたものだ。ロロが勝つと、神父様は丁度、今のオルハさんと同じような顔をしたのだった。心配で仕方ない、でもしょうがない。ロロにとっての神父様が、王様にとってのオルハさんなのかもしれない。そう思うと嬉しくなった。それは王様がオルハさんを大好きだということに繋がるから。

「じゃんけんで決めるのはどうですか」胸が暖かくなっていたせいだろう、ロロはさして緊張せずそう言うことができた。

 王様が怪訝そうにロロを見て、口元に笑みを浮かべた。「へえ。俺に勝負ふっかけようっての。面白ぇじゃん」

 ロロ、とオルハさんが、「やめておいたほうが」

「負け犬は部屋の隅で背中丸めてな。あやとり程度で気絶しやがって。そんなんじゃしりとりできねぇじゃん。縛りのないしりとりはそうそう終わんないんだからな。舐めんなよ」

「舐めてないですよ。身を持って知ってますから。それにその場合、自死します」

「自爆かよ。プライドってもんがないの。つーかわざと負けるのは規則違反。ペナルティかける二」

「どちらに転んでも地獄ですか・・・・・・」

 大変そうである。

「はいじゃーんけーん」

「わっ」

 突然、始まった掛け声に不意を突かれ、ロロは何も考えずぐーを出そうとした。

 どうしてかはわからない。

 無意識だった。

 ロロは直前に手札をちょきに変えた。ぎりぎり後出しにならないタイミングだった。

 オルハさんが目を見開く。

「か」ロロの声は震えていた。懐かしさになんとなく提案しただけだった。勝つ気なんてなかったし、そもそも勝てるとも思わなかった。それなのに、まさか、本当に――。「勝っちゃった」

「嘘」王様は瞬きも忘れロロを凝視する。

「俺」オルハさんが呆然と呟いた。「あなたが遊戯で負けるところを、初めて見てしまった気がします」

 ロロは固唾を飲んだ。勝ったのにとても喜べる雰囲気ではない。たかがじゃんけん、されどじゃんけんである。なんたって勝負の相手は一国の主なのだから。

 王様はしばし呆然として自身の左手を見つめ、やがて腕を組むと顎を逸らした。

「勝った奴が行くんだぞ」

「えええっ」

 横暴だ。



 さっきから意識が字の表面を滑る。

 全く頭に入ってこない。

 彼は苛々とペン先で机を叩く。

「気になりますか」

 臣下がそんなことを言った。蒼い髪を持つ、彼が心を許す数少ない人間だ。それが最近、一名増えた。ここ二、三日の話だ。最近すぎる。会ったばかりの、それも世間知らずの小娘に、自分は何故、こんなにも揺さぶられているのか。突拍子のない行動と素直な性根。見ているだけでも飽きないのだから、からかったらさぞ面白かろうと、ほんの戯れに過ぎなかった。遊び相手は多い方がいい。ロロに目をつけたのはその程度の理由だ。

 今もそうだ。

 児戯であることに変わりはない。

 それなのにどうしたことだろう。

 彼は負けた。

 生涯、二度目の敗北だ。

 あの日もそうだった。まるで同じだ。ほんの一瞬で着いた決着が彼の運命を大きく捻じ曲げた。

 もう誰にも勝利は渡すまいと、彼は誓ったのだ。

 背中に宿る醜い傷跡に。

 別に、と彼は素っ気なく答えた。オルハは顎に手を当てたりして、意味深な態度で言う。

「ちゃんと辿り着けるかな。あの子は方向音痴だから」

「知ってる」

 彼と彼女の始まりはただの偶然だった。彼はほんの気まぐれで少女に情けをかけた。

 決してあの浅緋の眼差しに呑まれたわけではない。

 透き通る瞳の表面に映る自分の姿は澄んでいた。

「今頃、城門を出たところかな」

「あのさぁ」彼は手の平を机に叩きつけた。「何なの、さっきから。何が言いたいわけ。はっきりしろよ」

「そんなつもりは」オルハは海原のような蒼い髪を振った。「ただ、あなたがあまりに思いつめた顔をしているものですから」

 彼は目元を擦った。

 強張っている。

「・・・・・・なあ、オルハ」

「何です」

「あいつ」

 彼が片手を振れば容易くなくなってしまう小さな存在。

 そんな奴が。

「俺に、勝ったよな」

 オルハはいやにゆっくりと頷いた。「はい」

「俺は、あいつに負けたよな」

 彼は手元に視線を落とした。節くれだった指。毛先の丸まった茶色い髪の感触がすっかり馴染んでいる。

「負けたら罰ゲームだよな」

 オルハは苦笑しながら首肯した。「そうですね」

 彼はほっと息を吐いた。

 しょうがないな、と。呆れたようにこうして笑ってくれる奴がいるから、彼は安心して遊戯に興じることができる。

「そしたら」彼は考えた。考える振りをした。

 答えはすでに出ている。

「・・・・・・内壁三十周してくる」

「いってらっしゃい」

 父のような男は、慈愛に満ちた目を細めて笑った。



   * * * * *



 どうしてこの街はこんなにも複雑に入り組んでいるのだろう。きっと夢を抱いて王都に上ってきた田舎者の希望を打ち砕くためなのだ。厳しい現実を知って人は成長するのだと神父様が――。外敵を阻む構造になっているとは露とも知らないロロであった。

 遅くなったら叱られるだろう。一も二もなく首を刎ねるような人ではないけれど、逆に何をされるか想像が及ばなくて恐い。

 ロロは地図の上下を引っくり返して陽光に透かした。特に意味はなかった。

 とりあえず真っ直ぐ行ってみよう。やけくそになって歩きだしたロロだったが、

「おーい」

「わひゃうっ」

 首筋を冷たい指が撫でて身を強張らせた。

「な、ななな、な、なななななな」

「何でもねーから。お前って恐怖症か何か」

「ち、違います、臆病なだけです!」

「・・・・・・あっそ」

 予想通りというかなんというか、こんな風にロロに触れるのは王様ぐらいのもので、だからロロはそれほど取り乱すことはなかった。これでもまだ落ち着いている方である。教会で幽霊騒動が起こった時は長椅子を三つ破壊した。

「どうして、王様が」

 王様は一瞬、怯んだ。そしてロロの鼻を摘まみ、「おせーから様子見に来たんだよ」

「うう、ずびばぜん」ロロは赤くなった鼻を押さえ、「でも、どうしてここが」

 王様は閉口した。きつく眇められた視線が痛い。

 ややあって、苦し紛れにこんなことを言う。「この国で俺にわからないことはねーの」

 実は心配して後をつけていたが、あまりに見当違いの方向へ行くのでたまらず声をかけたことなど、ロロが知る由もない。

 王様は肩を落とした。少し疲れているような感じがした。

 ロロのせいだろうか。

「あの――」

「丁度いい」王様はふと遠くを見やって、「ついてこい」

 夕陽に背を向けて歩き出した背中を追おうとしてロロは躓き、見かねた王様に腕を掴まれ、そのまま連行された。

 黙々と歩いた。

 嫌な沈黙ではなかった。

 王様の手の平は吸いつくような熱を帯びている。

 尖塔が見えた。辿り着いたのは、街外れにひっそりと佇む寂れた聖堂で。

 周囲には人っ子一人いなかった。柵に囲まれた小さな庭も荒れ果てて土が剥きだしになっている。どうしてこんなところにあるのだろう、とロロは思った。この街の中心には教会に内設された立派な大聖堂がある。それに比べて、この場所の何と静かなことか。

 静謐な空気が喉を潤し、呼吸をする度に視界が晴れていくようだ。

 気づけばロロは足を止め、その光景に見入っていた。王様も立ち止まった。ロロに無理強いをすることはなかった。

「ここ、好きです」口の中がしょっぱくなった。「でも、なんだか、とても――」

 悲しい。

 狼狽した王様の顔が歪んで見えた。「ちょ、お前、いきなり泣くとか」

「だって、なんか」

 これほどの負の感情で満ち満ちているのに、怒りも、憎しみも、あっていいはずなのに、ここにはなくて、強く感じるのは、優しさだ。

 優しい、こんなにも優しい感情には、触れたことがない。

「・・・・・・わかるのか」

 王様がロロの背をあやしながら呟いた。

「お前には、わかるのか」

 ロロは駄々をこねる子供のように首を振った。わからない。何も。ただ、流れてくる愛しさに言葉も出ない。嗚咽の合間合間に必死で言葉を紡いだ。

「ご、ごめ、んな、さ、い」

「いいよ」

 王様の声にはいつもの棘がなくて、ロロの胸に渦を巻く残酷なまでの優しさと同調するようだった。

 まるで同じものみたいに。

「ここは、そういう場所だから」



 見た目のこぢんまりした様相に反し、聖堂の中は意外にも広かった。壁は多少、風化して脆くなっていそうだったが、太い柱は健在で、設置された十数個の長椅子もしっかりとしている。荒れ果てた印象は窺えない。つい数年前までは使用されていたようにも見える。

 奥に祀られた双子の神像。

 王様は大胆にも祭壇に腰かけ、ロロはその隣に立った。祈るでもなく、むしろ挑むように、王様は双子の神を見上げた。

「そういえば」王様がロロの頭に手を置いた。「お前のとこって、一神教だったか」

 ロロは頷いた。

 国境にある教会は、領土こそぎりぎり凪の国にあれど、宗派は戒の国に属している。本来なら異端として排除されるところだが、それも先代国王の時代の話だ。

 現国王は宗教の自由を掲げている。

 信仰心とはそう簡単に変化に順応できるものではない。長き戦の原因ともなれば尚更だ。民の多くは未だ双神にこだわりを持っている。絶対に自身の信仰を吹聴してはいけないと、神父様にも強く説かれた。

 今は停滞しているだけの戦が完全に終結すれば、また、変わるのだろうか。

 きっと時間が人々の疲弊しきった心を癒してくれる。

 そしていつか、誰もがそれぞれの信条を掲げて生きる時代が、来る。

 そうなればいいと思う。

 戦争なんてなくなれば。

「お前はどう思う」

 ロロは顔を上げた。真摯な瞳がロロを射抜く。

「どっちが正しいと思う」

 双子の神と、一人の女神。

 争うことに意味はあるのかと、ロロは問いかけられている。

「わたしは」ロロは途切れ途切れに答えた。嘘偽りは一切、混入せず、思っていることを素直に吐露した。彼なら許してくれると思った。そう望んでいると、思った。「どちらも、同じものなんじゃないかって、思います」

 この国では双生児が産まれることはないとされている。

 双子は神聖なものだからだ。

「双子っていうのは、二人で一つ、というか・・・・・・一つで二人、なんじゃ、ないかな・・・・・・て」

「・・・・・・お前」王様はロロの答えに呆然とした。「お前、神を信じてないのか」

 どちらも同じものだというロロの言葉は、どちらの神も否定することに繋がる。

 いつの間にか王様の手の平はロロの頭を離れていた。

 急に心細くなった。ロロがこれまで頼りにしてきたのは、自身の足と、胸に下がる小さな石。

 ロロの瞳と同じ色の石。

「だって」ロロはぎゅっとお腹の前で両手を握り合わせた。「だって、お父さんと、お母さんを、取ってっちゃったもの。神父様とも、お義兄ちゃんとも、お義姉ちゃんとも、離れ離れになって、みんな、みんな・・・・・・っ」

 一人が寂しいと感じられるうちはまだ幸せだ。いつかそんな感情も忘れてしまうだろうか。恐い。恐くてたまらない。それでも頼りたくない。いるかもわからない存在に。いや、確かに神はいるのかもしれない。けれどきっと、皆が思うほど優しい存在ではない。

 柔らかな感触がロロの髪を撫でた。ぎゅっと引き寄せられた頭。仄かな甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 強いな、と王様は言った。

「強く、なんか」

「強いよ」王様は言い募る。「皆が縋るものに頼らないで、一人で立ってられるお前は、すげぇ」

 己に言い聞かせるようだった。この人もロロと同じなのだと思った。信じることができたらどれだけ楽だろう。だが自分でそれを許せないのだ。また熱いものが溢れてしまいそうになるのをロロは懸命に堪えた。負けたくなかった。ここで泣いてしまったら、もう二度と立てなくなる気がした。

 うなじを撫でる優しい手の平がロロに安らぎをくれる。

 神などより、よほど信じられる手。

「正解だ」王様が言った。「お前の勝ち」

 ロロは睫毛を震わせる。

「何か褒美をやろう。何でもいい、言ってみろ」

 耳のすぐ横に感じる鼓動が、少し速くなった気がした。

「お前はどうしたい」

 王様の声はロロの心を整頓していくようだ。

「お前は何が欲しい」

 何でも。

 何でもいいと、言うのなら。

「褒めてもらえませんか」

 記憶に残っている感触は、新しくも古くもない、神父様や、義兄や、義姉の暖かい腕。

 頑張ったねって。

 ロロはよく頑張ってるねって。

 褒めてもらえたらそれだけで、ロロはまた、前を向ける。

 もう会えないかもしれないけれど、その温もりは確かにあったものだ。妄想なんかじゃない。ロロはそう信じたい。

「・・・・・・お前、さ。馬鹿な、ほんと。全くな」

 解けた結び目を繋ぎ合わせるような声で王様が言った。

「嫌いじゃないけどよ」


 帰りたいと。

 金が欲しいと。

 そう言えば、望むとおりにしてやったのに。

 たとえ与えようとしたって、お前は受け取らないんだろう。



 王様はロロに聖堂の外庭で待機するよう命じた。ついていくと言っても頑なに拒まれた。

「いいか、聖堂の半径ニメートル以内から出るなよ。動くな、絶対だぞ、わかったな」

「そんなに念を押さなくても・・・・・・」

 ロロは庭を囲う柵に寄り掛かり、ぼんやりと空を見上げた。太陽は彼方に追いやられ、徐々に闇が侵食する夕暮れ。瞬く光。

 ふと、何かが聞こえた気がした。

 耳元で囁かれたようにも、体の内側で鳴り響いたようにも思えた。

 確固たる何かがあるわけではない。

 けれど時たま、ロロはこんな風に曖昧な気配を感じる。

「王様」

「あ?」

 振り向いた深紅の髪に向かってロロは言った。「雨が降りそうだから、早めに帰ってきてくださいね」

 王様は首をもたげ、不可解そうに唸った。「雲も出てないし、空気も乾燥してるだろ。そんなわけあるか」

「ですよね・・・・・・」ロロは肩を落とした。自分自身だって測りかねる漠然とした感覚なのだ。他人に納得しろと言っても無理な話である。

「と、とにかく」ロロは拳をぐっと握る。「早くお願いします」

「・・・・・・わーったよ」

 腑に落ちない顔で、それでも王様は頷いてくれた。ひらひらと手を振ると、すぐに路地の影に見えなくなった。

 風が徐々に冷たく、重くなってくる。

 湿気を孕んだ黴臭さがロロの髪を湿らせる。

 庭の手入れでもしていようか。そう思った時だった。

 どこからか歌声が響いた。

 突然、ロロの目の前に数人の子供達が姿を表した。彼らは輪をつくり、遊ぶように歌った。


    孤独に震える蛙の王様 僕と一緒に鬼ごっこ

    さあさ逃げなきゃぴょんぴょん跳ねる 鬼に捕まり食われちゃう

    勢いあまってころころころりん 高い壁に囲まれて

    突き抜けるような空の下 王は一人何思う


    森に迷える哀れな双子 僕と一緒におままごと

    さあさお食べよどんどんお食べ ミートローフに甘い菓子

    急いで食べすぎごほごほごっほん 肉の塊詰まらせて

    白み始める空の下 双子は二人何思う


    醜い身なりの三匹の子豚 僕と一緒にかくれんぼ

    さあさ隠れろお尻をしまえ 隙間に挟まり動けない

    業火に囲まれぶひぶひぶひひ 悲鳴のスパイス振りかけて

    煙燻ぶる空の下 子豚は三匹何思う


    無邪気に走る玩具の兵隊 僕と一緒に戦争ごっこ

    さあさ構えろばんばん放て 下手な鉄砲数撃ちゃ当たる

    的が狂ってどんどんどどん 味方にあっさり裏切られ

    真っ赤に染まった空の下 兵士は四人何思う


 独特な旋律にのる不気味な詞。

 童謡だった。初めて聴く歌だった。それなのに、何故かはっきりとロロにはわかった。

 これは遊び狂いの兎の歌だ。

 おお、おお、おおおおお。

 老婆のしわがれた嘆きが甦る。

 真っ赤な髪が風になびいた。

 けらけら笑いながら去っていく小さな頭の群れに、紅の頭髪が混ざっていた気がする。

 血のにおいのする手の平がロロの肩を掴んだ。

「・・・・・・何て顔してんの」

 錯覚だ。

 異様な空気に呑まれて見た幻覚。

 見上げれば、そこには見知った暴君の整った顔立ちがある。いつ戻ってきたのだろう。こんなに近づかれるまで気づかなかったなんて。はー、とロロは体の力を抜いた。

 王様は鼻に皺を寄せる。「お前に脱力される謂われはないんだが」

 ロロは慌てて手を振った。「あ、いえ、何でもないんです、気にしないでください」

「ったく、ぼーっとしやがって」王様は表情を消して、ロロの腕に短い棒を押しつけた。

「わあ」

「林檎飴。可愛いだろ」

「くれるんですか!」

 ん、と王様は意味もなく脇に抱えた小包を持ち直したりする。受け取ってきたものだろう。取引相手とは無事に会えたらしい。王様が手ずから取りにいくほど大切な代物だ。中身が気になるけれど、ちょっと知るのが恐い気もする。

 ロロの視線に気づいた王様が、さっと小包を背中に隠した。「これは、あれだ。お前が知るにはまだ早い」

「あ、危ないものなんですか」

「危ない・・・・・・な、うん、そうだな、危ないな、うん。大人の世界っつーやつ? まあ、新しい扉を開いちゃいたいっていうなら俺は止めないが」

「・・・・・・遠慮、しておきます」

 好奇心に勝ったのは、恐怖というよりも抵抗感だった。何だろう、知ってしまったらすごく胸がどす黒くなりそうな気がするのである。

 そんな疑念も、まあるい林檎飴を口に運ぶとどうでもよくなった。ふふ、とロロが笑うと、

「何だよ、気持ち悪いな」

「いえ。こういうの、王様が好きそうだなって」ロロが林檎飴を指して言うと、

「はあ?」王様はロロの額を指で弾いた。「馬鹿にしてんのか。これはお前に似合うと思って――」

「え?」

「あー、ごほん」視線を彷徨わせつつ、王様は咳払いなんかする。「・・・・・・帰るぞ。雲行き怪しくなってきたし。こりゃほんとに一雨くるな」

「はい」釈然としないながらもロロは頷いた。

 さっきまで晴れていた夜空を流れの速い分厚い雲が覆い隠している。出発したのは昼過ぎだった。随分、遅くなってしまった。きっとオルハさんが心配している。

 ロロは何気なく訊ねた。「王様なのに、いいんですか、外出歩いて」

 護衛もなしに一国の主が街を闊歩するなんて危険極まりない。いくら治安がいいとはいえ。

 ところが王様は、本気なのか冗談なのか判断のつかない顔で胸を張った。「だから変装してるだろ、ジャージで」

 確かに普段着がジャージの王様なんて聞いたことがない。

「ジャージが普段着だったら変装にならないんじゃないですか」

「そこをつっこまれるとは思わなかったな。馬鹿のくせに」

 ロロは目が胡乱気になってしまう。「大丈夫なんですか、ほんとに」

「いーんだよ。俺が平気だっつってんだから平気なの」

 小走りで路地裏の角を曲がった時だ。うおーい、と景気の良い声が二人を呼びとめた。酒屋の店主らしき髭の濃い男が細長い瓶を掲げて叫んだ。「お久しぶりです、陛下! 最近、めっきり顔を見せてくれないから野郎ども寂しがってますよ! 良い葡萄酒が手に入ったんです、ご一緒にいかがです!」

 ロロはがつんと奥歯を強打されるような衝撃を受けた。

「思いっきりばれてるじゃないですか、顔割れてるし! 常連だし!」

「あー聞こえない聞こえない」

「もう・・・・・・っ」

 王様はロロを無視すると、口に手を当てて酒屋の店主に答えた。「とっとけ、今度、飲みにくる!」

「へーい」

「むごーっ」

 むきになったロロの頭を手で押さえ、王様は白々しく空を見上げた。「あ、雨」

「わぁっ、降ってきちゃったじゃないですか!」

「俺のせいかよ」

「違いますけど!」

「走るぞ、飴落とすなよ!」王様はロロの腕を引き、とても追いつけない速度で駆け出した。ロロはひいひい言いながら文字通り引っ張られていく。ほとんど足が地面についていない。

 何故か城の見える方角と反対に走っていく背中。「どこ行くんです!」

 王様は涼しい顔で振り返り、あっけらかんと言った。

「や、内壁三十周してかねぇと」

 ずぶ濡れます。



   * * * * *



 城仕えといっても年中無休というわけではないらしい。月に一度だけ許される休暇。ロロの順番は明日である。ついさっき言われた。

 急だ。

 趣味など持たないロロには休日の過ごし方などわからない。

 何をすればいいのだろう、とシェルジュに訊ねると、何もしないのが休暇だよ、と彼は笑った。

「一日、ぼーっとしてていいってことですか」

 それはさぞ楽しかろうと期待したロロだったが、

「うーん、それともちょっと違うかな」

 シェルジュは苦笑いだ。

「してみたいこととかないの。好きなこととか。城下にも自由に下りれるんだよ」

 ロロはぱっと顔を輝かせた。「それだったら、わたし、林檎飴のお礼がしたいです」

 シェルジュは、ん、と顎を傾けた。「林檎飴」

「はい。王様に」

 す、と銀に近い彩色の瞳が細くなった。ぞくりと背筋が粟立って、ロロは思わず首を巡らせてしまう。

 他に何か原因があるわけじゃない。今しがた感じた悪寒は、確かに、目の前から――。

「どうしたの」

 シェルジュが抑揚のない声で訊いた。

 何でもないです、とロロは曖昧に笑って、仕事が一段落したのを見計らい、給仕場を後にした。

 ロロはたまにシェルジュがこわい。

 優しくて、頼りがいがあって、とても良い人だというのはわかっている。ロロがどんな失敗を犯しても笑いながら手伝ってくれる。

 でも。

 時折、見せる表情は、人のものではなくて。

 ロロは頭を振った。宿舎の廊下を急ぎ、自室の前で立ち止まった。

 まただ。

 扉の前に生ごみが散乱している。

 ロロは短く息を吐いて、用具入れから掃除道具を取り出すと、我が物顔で床を汚すごみを片付けた。

 最初の数回は単なる事故だろうと思った。さすがのロロも、何十回と同じことが続けば、人為であると気づく。

 嫌がらせは様々だった。仕事の邪魔をされたり、廊下でぶつかられたり、わざと聞こえるように嫌味を言われたり、ありもしない噂を流されたり。その筆頭は、艶やかな黒髪の美しい上流貴族の娘だ。

 名をラバナという。

 シェルジュと同期らしい。

 彼女はいつも、二人の召使いを従えている。

 シェルジュのフォローにより、今のところ目立った被害は起きていない。

 一仕事終えた倦怠感だけでは説明できない疲労を感じ、ロロはベッドに突っ伏した。足をじたばたさせてシーツを乱す。愚図でのろまなロロのことだ。何かとんでもない失敗を犯して反感を買ってしまったのかもしれない。それとも、愚図でのろまなこと事態、優秀で気高い彼女らには許せないのだろうか。地位の違いか。生まれの。ロロは孤児であることを引け目に思ったことはない。そんなの教会の皆に失礼だからだ。けれど、どうしたって覆せないことというのはあって、往々にして目の前に立ち塞がるものである。

 誰かに相談してみようか。

 オルハさんやラナシさん、そして給仕長の優しい笑顔が浮かんで消えた。

 代わりに瞼に焼きついたのは、燃えるような紅の髪。

 ロロはぎゅっと枕に顔を埋めた。彼らは忙しい。ロロとは比べ物にならないくらい。

 どうせ相談するのなら、もっと楽しい話題がいいと思う。

 ロロはがばっと身を起こし、部屋を飛びだした。

 休暇の過ごし方を訊いて回ってみよう。

 とてもいい考えだ。

 ロロはまず厨房に顔を出した。この時間なら、明日の調理の仕込みをしていると思ったのだ。陽気な声がロロを迎えてくれる。

「お、どうした、ロロちゃん。嬉しそうに顔真っ赤にしよっと」

「ラナシさん」

 彼は今、可愛いクマの顔がプリントされた前掛けエプロンをして、頭に背高帽を被り、大きな中華鍋を振るっている。

 ラナシさんは国王お抱えの料理長だったのである。

 騎士兼親衛隊兼料理長なんて役職、聞いたことがない。

 しかも彼は裁縫までできるのだった。オルハさんが王様のお父さんだとしたら、ラナシさんはお母さんだと思う。そんなことを言おうものなら手ひどい罰ゲームを科せられそうなので口が裂けても言えないロロであった。

「王様にお礼がしたいんですけど、何がいいと思いますか」

「礼?」ラナシさんは卵をかき混ぜながら眉を顰めた。「あんたがあいつに礼することなんてないだろ。感謝されこそすれ。いっつも振り回されてんべ」

「ちょっと前に、お菓子貰ったんです。それで」

 ふーん、とラナシさんは思案顔になった。油の跳ねる元気な音が似合う。「菓子貰ったんなら、菓子返せばいいんじゃねーの」

 ロロは目を瞬かせた。「ラナシさんの、ですか」

「それじゃ意味ねーだろ」ラナシさんは笑った。「ロロちゃんが何か作ってやればいいんじゃねーかって」

「わ、わたしがですかっ」

 ラナシさんの手掛けるスイーツはどれも一級品である。そんなものを毎日、食べている王様の口にロロの料理が合うはずもない。

「田舎臭いって言われちゃいますよ・・・・・・」

 肩を落としたロロを、ラナシさんは面白そうに見た。

「そんなことねーと思うけどな。あいつ、手作りなら基本は何でも食べるぞ」

「まずくてもですか」

「まずくてもですよ」

「焦げててもですか」

「焦げててもですよ」

「未確認飛行物体でもですか!」

「いや、何で?」

 ロロはむむむ、と頭を抱えて唸った。製菓の経験がないわけではない。教会に住んでいた頃は、よく義姉と一緒に焼き菓子などを焼いていた。

 できないことはない。

 だけど、できなくはないからといって、やってみるのはどうだろう。

 お菓子作りとはそんな簡単なものなのだろうか。

 甘くみていいのか。

 足元をすくわれたら踏み潰されるのが必然だ。

 世の掟だ。

 世界の理だ。

「わ、わたしにはそんな覚悟は・・・・・・!」

「ロロちゃんロロちゃん、考えすぎ、戻ってきて、お願いだから」

 ロロははっと我に返った。自分の世界にすぐ潜って息ができなくなるのはロロの悪い癖である。

 ラナシさんは苦笑して、鍋に豪快に油を差しながら提案した。「じゃ、俺と作るか」

「え」

「糞ガキの明日のおやつ」

「ええっ」

 ロロは燃え盛る炎の熱風に煽られながら詰め寄った。「いいんですか、ほ、ほんとに!」

「俺としてはむしろ歓迎っつーか、華がないからなぁ、ここは」

 華も何も、王様はラナシさんの手料理しか食べないため、ここは国王専用の厨房だ。一般は立ち入り禁止である。給仕や兵士の食事を賄う大厨房は別にある。

 補助の人間も取れないのだから、孤独になるのは当然だ。

「でも、食べてくれるでしょうか」

 ロロは俯いた。何それ犬の餌、とか吐き捨てられる光景しか浮かばないのだが。

「くれるだろー。大喜びだろー。満腹でも食うと思うぞ、あいつー」野菜を炒めがてらラナシさんはそう言った。

 ロロはつい嬉しくて、勢い込んでしまった。「じゃ、じゃあ、あの、師匠!」

「・・・・・・」

 ラナシさんの笑顔が消えた。

 いつも絶えず笑っているこの人の無表情は初めて見る。

 ロロは反射的に頭を下げた。「あ、ご、ごめんなさい、調子に乗りました・・・・・・」

 ラナシさんは無言でずいとロロに薄墨色の右の目を近づけると、

「今の、もう一回、お願いします」

「ふぁい?」

 視界の端で黒い煙が上がった。

「わぁっ、焦げてます、ラナシさん、焦げてます!」

「うおおっ」

 不安だ。



 甘い香りを含んだ湯気が食欲をそそる。

 良い焼き色のついたマドレーヌとクッキーの皿が乗ったお盆を、ロロはそれは慎重に運んだ。入れたての紅茶もポットに入っている。絨毯の毛を固めるようにして、一歩一歩、踏みしめて歩く。味見もした。ラナシさんの太鼓判も貰った。

 喜んでくれるだろうか。

 高鳴る鼓動が皿を持つ手を震わせる。

 結構、緊張するものだ。

 そのせいで、ロロは視野が狭くなっていたのかもしれない。

 ほとんど真横から誰かにぶつかられた。

「あ・・・・・・っ」

 ロロは鈍重に尻もちをついた。「あっつ・・・・・・っ」紅茶が零れ右手にかかった。痛みに顔をしかめたロロの目の前で、床に落ちたクッキーが粉々に砕けた。

 可憐な細足が残骸を踏み潰している。

「あら、ごめんなさい」

 くふ、と色艶のある笑い声がロロの耳を犯した。

「あんまり存在感がないものだから、避けられなかったわ」まるで今、気づいたかのように美しい黒髪の娘は言う。「どうしましょう、陛下のお茶菓子じゃないの」

「・・・・・・わ、わたしが、謝ります。気に、しないで、ください」

 ロロはなんとかそれだけ言った。熱湯のかかった手の皮膚が真っ赤に湯だっている。

「あらそう」ラバナはうっとりするくらい綺麗な微笑を浮かべ、「では、御機嫌よう」

 黒髪の少女と二人の取り巻きは颯爽と立ち去った。ロロに目もくれなかった。

 どうしよう。

 床に散った高価な磁器の破片を悲しく見つめる。

 ポットも、お皿も、カップも、割れてしまった。

「か、片付けないと・・・・・・!」

 少し先の部屋の扉が開いた。

「おい、何の音・・・・・・」顔を覗かせた王様が目を見開いた。「お前」

 ロロは誤魔化すように笑った。「王様、あの、ごめんなさい、お菓子も、お皿も、割れちゃ――」

「どうでもいい、そんなの!」

 大股で歩み寄り、王様はロロの手を取った。「火傷か。冷やさねぇと。他に怪我は」

「ありません。大丈夫です、ちょっと熱かったけど、少し時間がたってましたから――」

「馬鹿言え!」

 どうしてかわからないほど王様は鋭い剣幕で怒鳴った。

 火傷に嫌な思い出でもあるみたいに。

「舐めてんじゃねぇよ、ちゃんと処置しねぇと」

「あ、は、はい」

 水場に連れて行かれ、手を冷水に浸した。ひんやりとした心地よさが肌の内側の熱を奪い去っていく。

「何があった」

 具合を確かめながら王様が訊いた。ロロは咄嗟に答えられなかった。視線を泳がせ、呻くように言った。

「わたし、ドジなんで、その、転んじゃって」

 王様はロロをじっと見つめた。ロロは目を合わせることができなかった。

「俺は」ありありと滲み出る嫌悪。「嘘は嫌いだ」

「う、嘘なんかじゃ」

「・・・・・・そう」王様は落胆した様子で深く息をついた。「そうか。お前もその程度か」

 失望した、と。

 王様は言った。

 ラバナの嫌がらせも、せっかく作ったクッキーを台無しにしてしまったことも、ラナシさんの好意を無駄にしてしまったことも、この一言には敵わないと思った。

 たった一言でロロの胸は深く抉れたのだ。

「あ、お、王様」ごめんなさい、とロロは頭を下げた。「い、言います、ちゃんと、言いますから」

 王様は息を吸い、止めた。長く吐きながらロロの頬を指の甲で撫でた。「悪い。この手の誘導尋問はよく使うんだが、お前には効きすぎるな」

 それで、と王様はロロを促す。「何があったって」

「ラ、ラバナさんと、ぶつかってしまって」

 は、と王様は笑った。「ぶつかられたの間違いじゃないの」

「し、知ってたんですか」

「何を。お前がいじめられてること?」当たり前だろ、と王様は言う。

「わざとそう仕向けてんだから」

「・・・・・・え・・・・・・?」

 ロロは耳を疑った。

 聞き間違いだったら、どんなに。

「じょ」ロロの米神を汗が伝う。「冗談、です、よね・・・・・・?」

 王様はロロの顎に滴った雫を指で掬い、「そうだな。冗談だ」

 この時ばかりは、ロロは自分の嗅覚を恨んだ。

 嘘だ。

 王様は嘘をついている。

 ロロはそれ以上、何も訊けなかった。

「痛いか」王様は赤くなった皮膚を撫でた。

「・・・・・・少し、だけ」

「ん」王様は頷いた。「この分なら、大丈夫だろ」

 廊下へ戻った。目も当てられない惨状にロロは下唇を噛みしめた。毛並みの良い絨毯を割れた陶器の破片や零れた液体が蹂躙している。

 ロロは顎を引き、床に視線を落とした。「すみません、お菓子、駄目にしちゃって。食器も、割れちゃって」

「全くだ」

 項垂れたロロは目を剥いた。

 王様の細長い指が、床を弄り、ガラスの破片を選り分けて、クッキーの欠片を口に運んだ。

「お、王様・・・・・・っ」

「あれ」うろたえるロロを余所に、王様はのんびりと首を傾げる。「いつもと味が違う」

「あ、そ、それは」ロロは髪を触りながら言った。何だか落ち着かなかったのだ。「わたしが、作ったので」

「お前が」信じられないといった風に、王様はまた菓子を拾って食べた。止める暇もない。「でもちゃんと甘いぞ。お前なら砂糖と塩を間違えるくらいのことはするだろ」

「し、失礼な! いくらロロだって、あ、わたしだってそんなへましません!」

 間違えかけたところをラナシさんに制止されたのは秘密である。

「うまいよ、ちゃんと。やるじゃん、お前」

 素直な称賛に胸が熱くなった。

 感動した。

 ロロだってやればできるのだ。王様に褒めてもらったなんて初めてだ。

 さっきの少しこわい王様はどこかに行ってしまった。ロロの思い違いだったのかもしれない。緊張と疲労のあまり、尖った受け取り方をしたのかも。

「でも何で急に」

「あの、この前、林檎飴を貰ったので、そのお礼に」

「はああ?」

 優しかった王様の顔が険しさを取り戻し、ロロは首を竦めてしまう。

「馬鹿か、お前なぁ、あれは・・・・・・」額に手を当て、やれやれと頭を振る。「いいや、もう」

「あれ、わたし、何か・・・・・・?」

 やっぱり良くなかっただろうか。

 一国の主からの賜り物に、焼き菓子を返すなんて。

「すみません、わたし、高価なものは何も持ってなくて」

「ちげーっつの。変な勘違いすんなや」

 額を弾かれてロロは呻いた。暴力反対である。

「けどなるほどな、林檎飴か・・・・・・」王様は意味深に一人ごち、「俺が片付けるから、お前は部屋で待ってろ」

 そう言って彼が示したのは開きっぱなしの執務室だ。仕事中だったに違いない。そして、貴重な休憩時間をロロが奪ってしまった。

「大丈夫です、自分でできますから」

「いいから休んでろ」溜息。「ガラスでまた怪我されたらと思うと仕事も手につかん」

 最もな意見だ。否定できる要素がない。

 落ちこみながら執務室に入ると、慌てて立ち上がったのだろう、椅子が蹴倒されていた。横倒しになった重い椅子を直し、ふとロロは机上で目をとめた。

 繊細な筆致の踊る書きかけの文面の隅に、華奢なフレームがちょこんと腰を下ろしている。

 誰のものだろう。

 そう思って手に取り、レンズ越しに部屋を見渡すと、小さくなった呆れた瞳と目が合った。

「ぎゃう」

「・・・・・・どんな遊び、それ」

「うはぁ、ごめんなさい・・・・・・」

 返せっつの、と眼鏡を奪われた。ロロは意外な面持ちで訊いた。

「王様、眼鏡かけるんですか」

「・・・・・・仕事の、時だけな」奇妙な沈黙を挟んで王様は山積みの書類の上に眼鏡を置いた。ちなみにうず高く積まれているのが済みのものだ。残りは精々、二、三枚である。彼は本当に優秀だ。

「早かったですね、戻ってくるの」

「オルハがたまたま通りかかったから押しつけた」

「あう・・・・・・」また迷惑をかけてしまった。

 さて、と王様は腰に手を当て、「トランプでもするか」

「え、や、それはちょっと」

「負けたら三十回回ってわんと鳴くこと」

 ハードすぎる。


 その日の夜遅く。

「オルハ、しりとり」

「・・・・・・また急な」

「詰まった奴が林檎飴一年分発注な」

 男二人の熱い戦いが繰り広げられたことを、ロロはまだ知らない。



   * * * * *



 この城は慢性的な人手不足だという。

 それというのも、半年とたたず侍女がばたばたとやめてしまうのが原因らしい。初めこそやる気に満ち溢れていた彼女らだが、辞職する間際は声をかけるのも憚られるほど沈鬱とした表情を見せる。理由は誰も語らない。鎖で縛り南京錠をいくつもかけるように、一言も漏らさないのだ。

 召使いの夕食は意外にも早い。陽が沈む頃には各自でさっさと食べ始めてしまう。騎士の風呂支度や食堂の切り盛り、翌日の仕込みなど、夜の方が忙しいからだ。

 洗濯物を取りこみ終えて、ロロはシェルジュと第一給事場に向かった。

 ノブを引こうとしたロロをシェルジュが遮った。

 し、と立つ人差し指。

「どういうことなのよ!」女の甲高い怒声が聞こえた。「陛下は一体、何をお考えなの!」

 ラバナだ。

 普段のしとやかな声とは違う、剥き出しの牙を隠しもしないその剣幕に、ロロはシェルジュと顔を見合わせる。

「落ち着いて、ラバナ」

「そうです、きっと、陛下はお疲れなだけですよ」

 たしなめる声はチエリとクォラのものだ。彼女らはいつもラバナと行動を共にしている。直接、話したことはないけれど、ここで生活するうちにロロもようやく人の顔と名前を覚えてきた。

「もう半年も遊んでくださらないのよ!」

 遊ぶ。

 遊んでもらうとは、どういうことだろう。

 ラバナもロロと同様、王様の遊びに付き合わされていたのだろうか。そして、ラバナは望んでそれに応えていた?

 王様は美しい。

 見目の麗しさだけじゃない。しっとりとした艶やかさを持つ低い声、独特な間、空気。カリスマというやつだ、とラナシさんが言っていた。彼の虜になる人間は数知れない。城に仕えたいという要望があちこちの貴族から絶えないほど。時には他国から婚約の申し込みなどもあるらしい。王様は興味がないらしく適当に蹴っ飛ばしている。

 それにしても異常だ。ラバナの執着は目覚ましい。目に見えるほどの嫉妬と憤怒がロロの背筋を震わせる。

「あの田舎者が来てからだわ」

 ロロは息をのんだ。

 ロロのことだ。

「あたくし、調べたのよ」扉の向こうで物が倒れる音。竦んだロロの肩をシェルジュが抱いた。「あの小娘、没落貴族の出ですらないのよ! 異端分子に育てられた悪魔よ!」

 頭の中がぐるぐるして呼吸が速くなった。

 どうして。

 ロロの出自はオルハさんや給仕長、王様など、限られた人物しか知らない。

 ロロは話していない。

 親しくなった、人にしか――。

 ロロの肩に触れた手に力がこもった。一瞬だった。ロロは呆然とシェルジュを見上げる。華やかな巻き毛に阻まれて表情は窺えない。

 そうだ。

 ロロが自分から話したのは、シェルジュだけだ。

 シェルジュはロロと同じ孤児だった。

 身の上話を打ち明けられた時、ロロも自分の素状を説明した。

「何してんの、こんなとこで二人でくっついて」

「はうっ」

 耳に息を吹きかけられてロロは飛びあがった。

「相変わらずいい反応するなぁ、お前」

「お、おお、王様、しー、しぃーっ」

「なに、トイレ?」

「ロロはちゃんとトイレのことはお手洗いって言います!」

「どうでもいー」ロロの気も知らないで王様はけらけら笑う。

「と、とにかく静かにしてください・・・・・・!」ロロは扉に耳を当てじっと息そひそめた。

 扉越しに聞こえていた怒鳴り声はやんでいる。

 ばれてしまったかもしれない。

 ロロがここで立ち聞きしていたこと。

「入んねーの」ロロを押しのけて王様はノックもせずに給仕場のドアを開けた。身を固くしたシェルジュは王様の綺麗に伸びた背筋をただ目で追っている。

「取りこみ中か」

「王様が室内の異様な雰囲気に首を傾げると、ラバナは今更のように髪を撫でつけながら明るく言った。

「へ、陛下、いえ、何もございませんわ」

「あっそ」

 王様がロロに目配せした。無下にすることもできず、ロロは溜息をのみこんで給仕場に足を踏み入れる。

 恐る恐る椅子に腰かけたロロを鋭い声が打った。「ロロさんではないの。何の用かしら」

「あ、あの」ロロはどもりながら答えた。「食事を、と、思いまして」

 あら、とラバナはわざとらしく大きな目を丸くして口元を押さえた。「遅かったものですから、てっきりもう済ませたのかと思いましたわ。シェルジュの分しか残っていませんの」親しい友にするようにラバナはロロの手を握る。「お詫びにあたくしの実家が製造しているチョコレートを差し上げますわ。専門家のブレンドした最高級の肥料と、霊峰を流れる清水を使用しておりますの。とても高価なものだから――」

 赤く色づいた爪が皮膚に刺さる。

「野蛮な悪魔に育てられ、雑草を食べて生きてきたあなたのお口には、合わないかもしれませんけれど」

 ロロは沈黙した。ラバナが妖艶に笑い、つと王様を流し見た。はん、と王様は鼻を鳴らし、

「だってさ。どうなの、お前としては」

 ロロは首を傾げ、おずおずと言った。「・・・・・・あ、あの、本当に、本当に申し訳ないんですけど」

「何か言いたいことでもあるのかしら」

「い、いえ、その・・・・・・よく、わからなかった、です」

 ラバナは不可解そうに小さな鼻をひくつかせた。「わからなかった?」

「はい、あの、れいほ? って、何でしょう。あと、悪魔、とか、雑草、とか? なんのことか、ロロには・・・・・・」

 ロロはそこで言葉を切った。ラバナの目尻が歪んだ。恐ろしい表情だった。童話に出てくる鬼みたいな。

「馬鹿にするのも」ラバナが腕を振り上げる。「馬鹿にするのも、大概になさい・・・・・・!」

 ロロはわけもわからずぎゅっと目を瞑った。馬鹿になんてしてないのに。馬鹿なのはロロの方なのに。ロロが馬鹿だからラバナの言葉の意味がわからなくて、ああ、だから彼女は怒っているのだ。それにしたって、ぶたなくても――。

 瞼の裏が暗くなった。薄目を開けたロロは、意外にも逞しい腕に守られていた。

「よしなよ」

 ラバナを睨みすえ、シェルジュが凄む。

「陛下の御前だよ」

「な、何よ」明らかな動揺がラバナの顔に走った。「あなたまでその女に加担するの」

「そんなんじゃない」

「じゃあ何よ、この――」フリルがふんだんにあしらわれた翻るスカートの裾。「裏切り者!」

 足音高く去っていく令嬢の後を二人の召使いが追った。

 彼らの姿を見送り、一つ息をつくと、ロロはシェルジュに頭を下げた。「ありがとうございます」

「ロロが礼を言うことじゃないよ。ラバナが一方的すぎただけ」

「それでもです」

 はにかんだロロからシェルジュはふいと顔を逸らしてしまう。

 悲しくなった。

「裏切り者、ね・・・・・・」王様がロロの隣に立った。ラバナの足跡を辿るように扉へ首を巡らせ、顔を戻すとシェルジュに視線を送った。「そういうこと」

 シェルジュは表情を引き締めた。緊張しているみたいだった。

 王様は不満そうに言う。「何で止めんだよ」

「何でって・・・・・・」シェルジュは困惑顔で詰まった。そんなことを言われるとは露とも思っていなかったようだ。面喰らっている。「何でって、どういうことですか。ロロが殴られるのを黙って見てれば良かったと」

 シェルジュの問いにも王様は耳を貸さない。

「嫉妬に駆られる豚は醜い。なあ、そう思わねぇ?」

 誰に同意を求めるでもなく、虚空に吐き出される呟き。

「安心する」

「え・・・・・・?」ロロは思わず訊き返した。

「どんなに偽ったって、着飾ったって、あれが人間の本性だ。そう思うと、安らげる」

 ロロは王様の腕を引いた。

 とにかくそうしなければならないと思った。

「王様」

 返事はない。

「王様・・・・・・っ」

「今夜、十一時」

 王様は平坦な口調でそれだけ告げると、部屋を出て行った。

「今のは」シェルジュが抑揚のない声で言った。「今のは、君に言ったんだろうね、ロロ」

 軋んだ歯車に四肢を引きちぎられるような、そんな痛みを孕んだ声だった。



 約束の時間に三十分ほど遅れて執務室を訪れたロロは、安堵でそのまま床に崩れ落ちてしまいそうになった。

 待ちくたびれたのだろう、机に突っ伏した王様は規則正しい寝息をたてている。良かった。そう思ってしまったことに小さな罪悪感を覚えた。

 数刻前の王様はとてもこわかった。

 あの一瞬だけ別人になってしまったみたいだった。会いたくないと感じていた。

 踵を返した足が止まった。

 苦しげな呻き声が静寂を破った。がたん、と机上のペン立てが倒れた。

「う・・・・・・っつ・・・・・・」

 椅子から滑り落ち、床に崩れる長身。

「王様・・・・・・?」ロロは蹲る背中に駆け寄った。「王様・・・・・・!」

 激痛を堪えるように震える体。食いしばった歯列から漏れる唸り声。曇りのない肌には大粒の汗が玉のように浮かんでいる。

 王様が胸元を掻きむしった。苦痛に呼吸もできないのだ。

「お、王様、どこか、痛いんですか・・・・・・っ」

 視界がぐっと狭くなって、額に張りつく紅しか目に映らなくなる。どうしよう、どうしたら。怪我をしたという話も、持病があるという話も聞いたことはない。聞かされていないだけかもしれない。わけもわからず、ロロはひたすらに呼びかけた。王様、王様、しっかりして。痛い、痛いと、呻く王様の目尻を涙が濡らす。

 泣かないで、と思った。

 打ち捨てられた教会に置き去りにされた優しい感情が胸に去来した。

「王様」

 徐々に浅く速くなる彼の呼吸。丸くなった背に触れようとしたロロの腕が跳ねのけられた。

 脳が揺れて息ができなくなる。

 喉元に圧迫感。

「うざいな、ほんと」

「う・・・・・・っ」

 気づけばロロは床に押し倒されていた。

 ロロの髪を静かに撫でる手の平が、今はロロの首を握り潰そうとしている。

「いらないよ」

 口調も、雰囲気も、何一つ違った。

 ロロを見る目つきは傷を負った野良犬を蔑むかのようだ。

 違う。

 ロロは直感した。

 王様じゃない。

 これは、違う。

「邪魔なんだよ、あんたは」

 ごぼ、と体内で泡立つ感覚が神経を麻痺させた。肺が収縮する。目がかすむ。

 白く染まる世界で、その鮮やかな紅の色だけはいつまでもそこにあった。

「おうさま」

 ロロは叫んだ。

 とめどなく溢れる涙に顔をぐちゃぐちゃにして、おうさま、おうさまと、掠れた声で何度も彼を呼んだ。

 哀しくて仕方がなかった。

 私は彼の名を知らない。

「ぐ・・・・・・っ」

 喘ぐロロを映した翡翠の瞳が揺らいだ。

 急に酸素が流れ込んできた。刺すように冷たい空気を貪るのに必死だった。床をのた打ち回るロロの頬を蒼い髪がくすぐる。

「ロロ・・・・・・っ」

 遅れて駆けつけた温かい腕にロロは縋りついた。「オルハ、さん、王様、王様、が」

「くそ・・・・・・っ」

 蒼い髪の騎士は迷った。瀕死のロロと、原因不明の痛みに苛まれる君主と、それらを天秤にかけ、ぎゅっとロロの肩を抱いた。小刻みに震えるオルハさんの指先を握り、ロロは言った。

「王様を」

「・・・・・・っ、すまない・・・・・・!」

 温もりが離れる。

「陛下・・・・・・!」

 オルハさんは暴れる王様を拘束にかかった。痛い、熱い、痛い。王様は頭皮に爪を立て、喉をひっかき、うなじを掻き毟った。徐々に悪化する容態。オルハさんは苦戦している。王様を傷つけたくないのだ。王様の抵抗には躊躇がなかった。無理に押さえては関節を痛める。

 掻き毟るうなじがロロの瞳の色と同じ色に染まった。

 解けて外れた包帯の下。

 右手の甲に刻まれた焼け爛れた傷跡を目にして、ロロの中の何かがかちりと音を立てた。

「どいて・・・・・・!」

 ロロはうだつの上がらないオルハさんを突き飛ばし、王様の胸倉を掴むと、

「王様のばかーっ」

 渾身の力を持ってその左頬を引っぱたいた。

「ばか、ばか、ばか、ばか・・・・・・!」

 ロロは声を上げて泣いた。今まで言われた分を全部、返すくらい、馬鹿と叫んだ。

 悔しかった。

 ロロは何もわからないのだ。

 彼のことを、何一つ。

 肩書きでしか名も呼べない。

 何が苦しいのかも想像できない。

 時折、見せる、笑顔の守り方さえ。

「ばか、ばか、ばかぁ・・・・・・!」

「ロ、ロ」

 宙を彷徨う右手をロロはぎゅっと握りしめ、涙に濡れる頬に押しつけた。ひきつる傷跡をほぐすように。

「いんの」

 王様が苦渋に顔を歪めながら訊く。

「そこに、いんの?」

 王様の目は開いているのに、眼球は白濁として焦点が定まっていなかった。熱い指先がロロの顔を這う。顎を撫で、首をなぞり、うなじをさする手。

 彼の手だ。

 王様は両腕でロロを抱きしめた。力強かった。痛いほどだった。

「何も、見えない・・・・・・ここは、暗く、て」

「います」

 ロロは王様の背中に手を回してきつく身を寄せた。

「ロロは、ここにいます。ちゃんと」

「――ごめん」

 それは何に対する謝罪だったのか。

 これまでの行いを悔いたのか。

 それとも。

「ロロ、ごめんな」

 中座していた哀しい遊戯の再演を告げるものだったのか。



 ぐったりした王様をオルハさんが寝室に運んだ。

 煌びやかな扉もどこかくすんで見えるその部屋。

 ロロは言葉も出ず立ち竦んだ。

 明かりのない部屋は破壊されていた。

 荒れているなんてものではなかった。カーテンは引き千切れ、絨毯は毛羽立ち、壁にはいくつも穴が開いて、ぽっかりと空虚な空洞を寒々しい風が入り乱れる。寝具は傾き、破れたシーツの所々にざらざらした黒い染みが疫病みたいに斑に浮かんでいた。

 血だ。

 シーツだけじゃなかった。

 部屋の至るところに血痕が飛び散っている。

 苦しみ喘ぎ、暴れる彼の姿が見えた気がした。

「王様は」喉は干からびて粘ついていた。「王様は、眠ると、いつも」

 あんな風に、何かに怯えるように身を縮め、自分を傷つけ、手当たり次第の物を壊して。

 オルハさんは半壊したベッドに王様を横たえ、いや、と首を振った。「彼は遊ばないと眠ることができない」

「遊ぶ・・・・・・?」

「・・・・・・普通の」オルハさんはきつく目を瞑った。深く悔いているようだった。何に対して、いや、誰に対してなのかはわからない。「普通の、遊びでは、ない。とても遊戯と呼べる代物では」

「トランプとか、あやとりとかとは、違う・・・・・・て、こと、ですか」

 ラバナが言っていた。

 もう半年も遊んでくださらないのよ。

 彼女の言っていた遊びとは、オルハさんの言う遊びのことだったのだ。

「あやとりとしりとりは」オルハさんは更に眉根をきつく寄せた。「また違う意味で苦行だけれど」

 不憫である。

 死んだように眠る土気色の頬をさすり、オルハさんは長く息を吐いた。「このところ、陛下はぱったりと例の遊戯で遊ばなくなった。それでもよく眠れるのだと、悪夢に苦しめられることはないと、嬉しそうに言っていたよ。陛下は頑なに否定したけれど、俺は・・・・・・君のおかげだと思っている」

 ロロは頭を振った。「ロロは何の役にもたてていません」

 苦しそうな寝顔がその証拠だ。

「油断してしまったんだろうね。陛下は自分で思っているほど愚かではない。・・・・・・この子は、賢すぎる。まともではとても生きていけないほどに」

 ロロは室内を見渡した。

 ここには何もない。

 何も感じない。

 虚しさだけが降り積もる。

「訊かないのかい」湿った声でオルハさんが訊ねた。「気には、ならないのかい」

 知りたいと。

 思わないと言えば嘘になる。

 何が彼を苦しめるのか、知ったところでどうにもならないというのに。

「でも」ロロはぽつりと水滴を落とすように言う。「勝手に、訊くのは・・・・・・良くない、と、思います。王様は、そういうの、やだって」

 オルハさんの体が揺らいだ。「彼の口から、直接、訊きたいということだね」

「いつか」ロロは曖昧に笑った。「話してくれたらいいな、とは」

 でも、話してくれなくてもいい。

 今の王様がいれば十分だ。

 つまらない遊びで一喜一憂する、我儘で、強引で、人でなしで、とても大国を束ねる主君とは思えない、ついつられてしまうほど無邪気な笑顔が、そこにあれば、それで。

 オルハさんはまた長い息を吐いた。それは溜息というより呼吸に近くて、もう吸ってくれないんじゃないかとひやひやした。「俺はかつて、君に嘘をついた」

 ロロは蒼い髪の騎士を見上げた。

「そして、今も騙し続けている」

「王様の、ためなんですよね」

 罪の意識に陰る瞳がロロを切り取る。

「だったら、いいです。嘘ついててください。ほんとなんて、いりません」

 一人で真っ直ぐ立つことができないのに、無理をして手放す必要はない。

 しがみつくものが例え虚偽で彩られた飾りだとしても、前を向いていられるのなら、悪いことじゃない。

 そうしていつか真実に気づき躓いてしまったとしても、その時にはきっと、新しい何かを掴んでいる。

 オルハさんはロロの頭を抱いた。

 すまない、と、何度も繰り返される謝罪が床に層を為す虚しさと一つになった。


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