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理想の婚約者でした。でも私は、彼の周りにいる人たちを見て縁談を断りました  作者: 黒猫と珈琲


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前編

 母が亡くなる少し前、私に言った言葉がある。


「エレナ。結婚相手を選ぶ時は、その人だけを見てはいけないわ」


 ベッドの上でやせ細った母は、それでもいつものように穏やかに微笑んでいた。

 私は十三歳だった。

 恋も、結婚も、まだ遠い物語の中にあるものだと思っていた。


「その人が優しいかどうかではなく?」


「それも大切よ。でもね、あなたを幸せにしてくれるのは、今目の前にいる相手だけじゃないの」


 母は私の手を握った。

 その手は驚くほど軽く、冷たかった。


「その人の周りにいる人たちを見なさい。家族、友人、仕える者、領民……その人がどんな人たちに囲まれているか。そこに、その人と生きる未来が見えるから」


 私はよく分からないまま頷いた。

 ただ、母がとても大切なことを言っているのだということだけは分かった。


「お母様」


「好きな人ができたら、その人の言葉だけを信じては駄目。あなたの前でだけ優しい人は、いくらでもいるわ」


 母は少しだけ寂しそうに笑った。


「でも、その人の周りにいる人たちは嘘をつけない。使用人が怯えている家に、幸せな妻はいない。友人が人を見下す人ばかりなら、いつかあなたも同じように扱われる。家族が誰かを大切にできないなら、嫁いだあなたを大切にできるとは限らない」


 その言葉の意味を、私は何年も後になって知ることになる。


 十七歳になった春、私は侯爵家の嫡男ローラン・グレイン様から求婚された。


 ローラン様は、社交界で誰もが振り返るような方だった。

 金糸のような髪に、澄んだ青い瞳。甘い言葉を自然に口にし、女性に恥をかかせることがない。

 ダンスは上手く、会話も軽やかで、誰に対しても笑顔を絶やさない。


 伯爵家の娘である私にとって、侯爵家からの求婚は望外の名誉だった。


 父は喜び、親戚たちは口々に祝福した。


「エレナ、よかったな」


「グレイン侯爵家なら申し分ない」


「お母様もきっと喜んでいるわ」


 私も、最初はそう思った。

 ローラン様は本当に優しかったから。


「エレナ嬢、君の瞳は春の湖のようだね」


「まあ、ローラン様はお上手ですのね」


「本心だよ。君といると、心が安らぐ」


 彼にそう言われるたび、胸がくすぐったくなった。

 私は愛されているのだと思った。

 幸せになれるのだと思った。


 けれど、婚約が整いかけた頃、私は母の言葉を思い出すようになった。


 きっかけは、グレイン侯爵家に招かれた日のことだった。


 玄関広間に入ると、磨き上げられた大理石の床が光を反射していた。

 壁には名画が並び、天井には豪奢なシャンデリアが輝いている。


 だが、その美しさに反して、屋敷の空気はひどく冷たかった。


 出迎えてくれた侍女は深く頭を下げたが、その指先が震えていた。


「エレナ嬢、ようこそ」


 ローラン様は変わらず優しかった。


 けれど、その背後で年配の侍女が小さく肩をすくめたのを、私は見逃せなかった。


「遅いわ」


 鋭い声が広間に響いた。


 現れたのは、ローラン様の母君、グレイン侯爵夫人だった。


 美しい人だった。

 けれど、その美しさは刃物のようだった。


「お客様を玄関で待たせるなんて、何をしていたの」


「申し訳ございません、奥様」


「謝れば済むと思っているの? あなたのような者がいるから、屋敷の格が下がるのよ」


 侯爵夫人は、私の前で侍女を叱りつけた。


 侍女は何度も頭を下げていた。

 私は胸が痛んだ。

 失礼があったわけではない。

 むしろ、侍女は丁寧すぎるほど丁寧だった。


「母上、エレナ嬢の前ですよ」


 ローラン様が困ったように笑う。


 侯爵夫人はようやく私を見た。


「あら、ごめんなさいね。うちの使用人は気が利かなくて」


「いえ……」


「エレナ様が嫁いでいらしたら、きちんとしつけ直していただかなくてはね」


 その言葉に、私は返事ができなかった。


 しつけ直す。


 人を物のように扱う言葉だった。


 昼食の席でも、違和感は消えなかった。


 ローラン様の妹であるベアトリス様は、私と同い年だった。


 華やかで愛らしい方だったが、食事中に何度も給仕の少年を呼びつけた。


「違うわ。このスープ、熱すぎる」


「申し訳ございません」


「下げて」


「かしこまりました」


 少年が下がろうとすると、ベアトリス様は小さく笑った。


「本当に使えないわね」


 侯爵夫人も笑った。


「平民上がりは仕方ないわ。教育しても染みついたものは変わらないもの」


 ローラン様は何も言わなかった。


 ただ、私の皿に肉を取り分けてくれた。


「エレナ嬢、これはうちの料理人が得意な一品なんだ」


「ありがとうございます」


 彼は優しかった。

 私には、確かに優しかった。


 だからこそ、余計に分からなくなった。


 私の前で微笑むこの人は、どうして使用人が傷つけられている時には、笑っていられるのだろう。


 それは優しさなのだろうか。


 それとも、私にだけ向けられた飾りなのだろうか。


 数日後、私は王宮の夜会に出席した。


 ローラン様は私の手を取り、多くの人に紹介してくれた。


「私の婚約者になる方です」


 その言葉に、周囲の令嬢たちは羨ましそうに私を見た。

 私は微笑んだ。


 だが、心の奥は静かに揺れていた。


 そんな時、庭園の片隅でひとりの令嬢が泣いているのを見かけた。


 彼女のドレスには葡萄酒の染みが広がっていた。


 近くには、ローラン様の友人たちがいた。


「だから言っただろう。田舎伯爵家の娘が王宮の夜会なんて無理だって」


「歩き方もぎこちなかったしな」


「泣くくらいなら来なければいいのに」


 笑い声が聞こえた。


 私は思わず足を止めた。


「エレナ?」


 ローラン様が私を見る。


「あの方に、何か……」


「ああ、気にしなくていいよ」


「でも」


「夜会ではよくあることだ。あの程度で泣くなら、社交界には向いていない」


 その声は穏やかだった。

 いつもと同じ優しい声だった。


 けれど、私は背筋が冷たくなった。


 よくあること。


 あの程度。


 泣いている人がいるのに。


 傷つけられている人がいるのに。


 彼の中では、それは大したことではないのだ。


「ローラン様は、止めないのですか」


「私が?」


「ご友人でしょう?」


 ローラン様は少しだけ困ったように笑った。


「エレナは優しいね。でも、ああいう冗談にいちいち口を出していたら、場がしらけるよ」


「冗談……」


「君は気にしなくていい。私は君にあんな真似はさせない」


 彼は私の手を優しく握った。


 その優しさに、以前の私なら安心していたかもしれない。


 でも、その夜の私は違った。


 母の声が耳の奥で響いていた。


 あなたの前でだけ優しい人は、いくらでもいるわ。


 その夜、私は庭園で迷ってしまった。


 王宮の庭は広く、似たような小道がいくつも続いている。

 人の声から離れ、私は噴水の近くまで来ていた。


 そこで、ひとりの男性が膝をついているのを見つけた。


 彼は倒れた給仕の少女に、自分の上着をかけていた。


「無理をしなくていい。誰かを呼ぶ」


「で、ですが、レオナルド様……」


「皿より君の体の方が大事だ」


 低く落ち着いた声だった。

 私は思わず立ち止まった。


 男性は私に気づき、静かに頭を下げた。


「失礼。驚かせてしまいましたか」


「いえ。あの、大丈夫ですか」


「少し熱があるようです。夜会の裏方は忙しいですから」


 彼は近くの衛兵を呼び、少女を休ませるよう頼んだ。

 衛兵も彼をよく知っているらしく、すぐに動いた。


「レオナルド様、またご自分で」


「倒れた者を見つけて放っておく方が難しい」


 衛兵は笑った。

 少女も申し訳なさそうにしながら、安心した顔をしていた。


 その男性こそ、辺境伯レオナルド・ウォルフ様だった。


 社交界では地味で無口、面白みに欠ける方だと言われていた。


 確かに、華やかなローラン様とは違う。

 黒に近い茶色の髪。

 灰色の瞳。

 背は高いが、表情は控えめで、言葉も少ない。


 けれど、その場にいる人たちは、誰も彼を恐れていなかった。

 むしろ、近くにいるだけでほっとしているように見えた。


「エレナ・ブランシャール嬢ですね」


「私をご存じなのですか」


「グレイン侯爵家とのご縁が進んでいると聞きました」


「ええ……」


 私の返事が曇ったことに、彼は気づいたようだった。

 けれど、余計なことは聞かなかった。


「広間へ戻られますか。道が分かりにくいので、お送りします」


「ありがとうございます」


 並んで歩く間、会話は少なかった。

 だが、不思議と気まずくなかった。


 途中、庭師が彼に気づき、嬉しそうに頭を下げた。


「レオナルド様、先日はありがとうございました。母の薬代のことまで」


「気にするな。早く良くなるといい」


「はい」


 また少し歩くと、騎士が彼に声をかけた。


「隊長、こんなところに」


「今日は非番だろう」


「そうですが、隊長を見かけたら挨拶したくなりまして」


「休める時に休め」


「はは、隊長らしい」


 彼の周りには、人が集まってきた。


 それも、媚びるためではない。


 慕っているのだ。


 大切にされてきた人たちが、大切に返そうとしている。


 私はその光景から目が離せなかった。


 それから私は、ローラン様の周りを見るようになった。


 彼自身ではなく、彼の隣にいる人たちを。


 侯爵夫人は使用人を叱りつける。


 ベアトリス様は下位貴族の令嬢を見下す。


 友人たちは弱い者を笑う。


 そしてローラン様は、それを止めない。


 私には花を贈ってくれる。

 優しい言葉もくれる。


 だが、私以外の誰かが傷つく時、彼はいつも静かに笑っていた。


 ある日、私は彼に尋ねた。


「ローラン様は、使用人の方々をどう思っていらっしゃいますか」


「急にどうしたの?」


「知りたくなったのです」


 彼は少し考え、当然のように答えた。


「屋敷を動かすために必要な者たちだよ」


「大切な人たちではなく?」


「もちろん大切だ。きちんと働いてくれるならね」


 きちんと働いてくれるなら。


 私はその一言に、胸の奥が沈んでいくのを感じた。


「では、もし私が嫁いで、きちんとできなかったら?」


「君はそんなことないよ」


「もしもの話です」


 ローラン様は私の頬に触れようとした。


 私は反射的に一歩下がった。


 彼の手が宙で止まる。


「エレナ?」


「私は、いつも正しくはいられません。失敗することもあります。侯爵家のしきたりに馴染めず、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれません」


「その時は母上に教えてもらえばいい」


「叱られ続けても?」


「最初は仕方ないよ。侯爵家に嫁ぐのだから」


 その言葉で、私はようやく分かった。


 彼は私を愛しているのではない。


 彼の理想に合う私を愛しているのだ。


 侯爵家にふさわしく微笑み、母君に従い、妹君に譲り、友人たちの冗談に笑う私。


 彼の前でだけ幸せそうにしていれば、それでいい。


 そんな未来が、はっきりと見えてしまった。


 私は婚約の話を白紙に戻したいと父に告げた。


 父は驚いた。


「エレナ、本気か」


「はい」


「グレイン侯爵家との縁談だぞ」


「分かっています」


「ローラン殿は、お前を大切にしているように見えたが」


「私も、そう思いたかったです」


 父は長く黙った。


 母が生きていれば、きっと私の味方をしてくれた。

 けれど父は現実的な人だ。

 家のこと、領地のこと、身分のことを考えなければならない。


 それでも私は、父から目を逸らさなかった。


「お母様が言いました。結婚相手だけを見てはいけない。その人の周りを見なさい、と」


 父の表情が変わった。

 母の名を出したからだろう。


「彼の周りにいる人たちは、誰かを傷つけることに慣れています。ローラン様は、それを止めません。私はあの家に嫁いだら、いつか心が壊れてしまうと思います」


「……そうか」


 父は深く息を吐いた。


「お前の母も、同じことを言っていた」


「お母様が?」


「ああ。私と結婚する前、私の屋敷に来て、使用人たちの顔を見たそうだ」


 父は懐かしそうに笑った。


「皆が笑っていたから、この家なら大丈夫だと思ったらしい」


 私は胸が熱くなった。


 母は、自分の言葉通りに父を選んだのだ。


「分かった。グレイン侯爵家には私から話そう」


「お父様……」


「家より大切なものを、お前の母に教わったからな」


 私は泣きそうになりながら頭を下げた。


 当然、グレイン侯爵家は怒った。


 侯爵夫人は父に抗議し、ベアトリス様は社交界で私の悪口を広めた。


 ローラン様も、何度も手紙を送ってきた。


『何がいけなかったのか分からない』


『君を愛していた』


『君ほど大切にした女性はいない』


 私は返事を書かなかった。


 彼が最後まで分からなかったことが、答えだった。


 私だけを大切にしても、私は幸せにはなれない。


 私の周りにいる人たちも、私が大切にしたい人たちも、同じように尊重してくれる人でなければ、共に生きてはいけない。


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