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理想の婚約者でした。でも私は、彼の周りにいる人たちを見て縁談を断りました  作者: 黒猫と珈琲


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2/2

後編

 その後、私はしばらく社交界から距離を置いた。


 父の領地で過ごし、母が好きだった庭を整えたり、孤児院へ本を届けたりした。


 そんなある日、辺境伯レオナルド・ウォルフ様から手紙が届いた。


 内容は求婚ではなかった。


『以前、王宮の庭でお会いした給仕の少女が、あなたに礼を伝えたいと言っています。彼女は今、王宮を辞め、私の領地の療養院で働く準備をしています』


 たったそれだけの手紙だった。


 けれど、そこには誰かの人生を軽んじない人の温かさがあった。


 私は返事を書いた。


 そこから、私たちの文通が始まった。


 レオナルド様の手紙は飾り気がなかった。


『今年の麦はよく育ちました』


『雪崩で橋が落ちましたが、村人に怪我はありませんでした』


『騎士たちが子どもたちに剣を教えたがり、仕事が増えています』


 華やかな言葉はない。

 愛を囁くような文もない。


 けれど、彼の手紙にはいつも人の姿があった。


 領民のこと。

 騎士のこと。

 使用人のこと。

 怪我をした馬のことまで。


 彼はいつも、自分以外の誰かを気にかけていた。


 私は気づけば、次の手紙を待つようになっていた。


 やがて一年が過ぎた頃。

 私はレオナルド様の領地を訪れることになった。


 辺境の地は王都よりも寒かった。


 けれど、屋敷の中は不思議なほど暖かかった。


「エレナ様、ようこそお越しくださいました」


 出迎えてくれた家令は、目尻に皺を寄せて笑った。


 侍女たちも緊張はしていたが、怯えてはいない。

 厨房からは香ばしいパンの匂いが漂っている。

 窓の外では騎士たちが雪かきをしていた。


「隊長! 今日は客人が来る日なのに、なぜ我々まで雪まみれなのです!」


「領主が雪をどかしているのに、騎士が見ているだけか?」


「そう言われると思いましたよ!」


 周囲から笑い声が上がる。

 私も思わず口元を緩めた。


 その時だった。


「エレナ嬢」


 振り向くと、レオナルド様がいた。


 冬の外套には雪が積もっている。


「お迎えが遅れて申し訳ありません」


「いえ」


「寒くはありませんか」


 そう言って、彼は自分の外套を私の肩へ掛けようとした。

 私は慌てて首を振る。


「大丈夫です」


「無理はしないでください」


 その声は相変わらず穏やかだった。


 私は彼を見上げた。


「レオナルド様」


「何でしょう」


「あなたの周りにいる方々は、皆さん幸せそうですね」


 彼は少し驚いた顔をした。


「そうでしょうか」


「ええ」


 私は窓の外へ視線を向ける。


「使用人の方も、騎士の方も、皆さん笑顔でいらっしゃいます」


 レオナルド様は少し照れたように視線を逸らした。


「私が不器用なので、周りが支えてくれているだけです」


「違います」


 私は首を横に振った。


「あなたが皆さんを大切にしてきたから、皆さんも安心して笑っていられるのだと思います」


 レオナルド様は何も言わなかった。

 けれど、その耳が少し赤くなっていた。


 私はそれを見て、初めて彼を可愛いと思った。


 その後、私は数日間を辺境伯領で過ごした。


 市場を見て回り、孤児院を訪れ、領民たちと話した。

 どこへ行っても、人々はレオナルド様の話をした。


「領主様には助けられました」


「去年の洪水の時も真っ先に来てくださったんです」


「子どもの名前を覚えていてくださるんですよ」


 誰もが嬉しそうに話す。

 誇らしそうに話す。


 そして何より、信頼していた。


 私は思った。


 この人は、人から慕われるために優しくしているのではない。


 優しく生きてきた結果として、人に慕われているのだと。


 ある日の夕暮れ。


 雪の積もる庭を二人で歩いていた時だった。


「エレナ嬢」


「はい」


「私は、ローラン殿のような方ではありません」


 突然の言葉に私は足を止めた。


 レオナルド様は真っ直ぐ前を見ていた。


「気の利いた言葉も言えません」


「そうですね」


「贈り物を選ぶのも上手くありません」


「それも知っています」


 彼は少しだけ困った顔をした。


「社交界であなたを華やかに扱うことも得意ではないでしょう」


「はい」


「ですが」


 そこでようやく彼は私を見た。


「あなたが泣くような場所にはしません」


 冷たい冬の空気の中。

 その言葉だけが真っ直ぐに胸へ届いた。


「あなたが大切にする人たちを、私も大切にします」


 飾り気のない言葉だった。


 けれど、私がずっと欲しかった言葉だった。


「約束します」


 気づけば、私は笑っていた。


「私も」


「え?」


「私も、あなたの大切な人たちを大切にしたいです」


 レオナルド様は目を見開いた。


 それから、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 けれど、その笑顔は誰よりも温かかった。


 それが私たちの始まりだった。


 結婚式の日。


 辺境伯家の屋敷は朝から大騒ぎだった。


 侍女たちは花を飾り、料理人たちは大鍋をかき混ぜ、騎士たちはなぜか落ち着かない様子で廊下を歩き回っていた。


「隊長が緊張しているぞ」


「戦場では平然としているのにな」


「花嫁様を見る前から顔が赤いぞ」


 そんな声が聞こえてきて、私は思わず笑ってしまった。


 鏡の中の私は、白いドレスを着ている。

 髪には、母が遺してくれた真珠の髪飾り。


「お母様」


 私はそっと髪飾りに触れた。


「私、選べました」


 目の前の人だけではなく。

 その人が大切にしている世界ごと。


 この場所なら大丈夫だと、心から思える未来を。


 扉が開き、父が入ってきた。


「エレナ」


「お父様」


 父は私を見るなり目を潤ませた。


「綺麗だ」


「ありがとうございます」


「お前の母によく似ている」


 その一言で、私は泣きそうになった。


 父は私の手を取った。


「幸せになりなさい」


「はい」


「いや、違うな」


 父は優しく笑った。


「幸せにしてもらうのではなく、幸せを作っていきなさい。あの方たちと共にな」


 私は頷いた。


「はい」


 それから十二年が過ぎた。


 私は辺境伯夫人となり、二人の子どもの母になった。

 長女のリリアは今年十二歳になる。


 最近、騎士見習いの少年を見ると頬を赤くするようになった。

 本人は隠しているつもりらしい。

 けれど母親にはすぐ分かる。


 ある夕暮れ。

 リリアは私の部屋を訪ねてきた。


「お母様」


「どうしたの?」


「人を好きになるって、どういうことですか」


 私は思わず微笑んだ。


 初恋というものは、いつの時代も変わらないらしい。


「そうね。会いたくなったり、その人の言葉で嬉しくなったりすることかしら」


「その人が優しかったら、好きになってもいいのですか」


 私は娘の髪を撫でた。

 そして、遠い昔を思い出す。


 十三歳だったあの日。

 母が教えてくれた言葉を。


「リリア」


「はい」


「お母様のお母様がね、昔、私に教えてくれたことがあるの」


「おばあ様が?」


「ええ」


 私は窓の外を見た。


 庭ではレオナルドが子どもたちと雪玉を作っている。

 騎士たちが笑い。

 侍女たちが温かいお茶を運び。

 家令が呆れた顔をしながら見守っていた。


 あの日、私が選んだ景色が今もそこにあった。


「結婚して、あなたを幸せにしてくれるのは、今目の前にいる相手だけじゃないの」


 リリアが首を傾げる。


「その人だけじゃないの?」


「ええ。その人の周りにいる人たちが大事なのよ」


 私はゆっくりと言葉を続けた。


「その人の家族が誰かを大切にできる人たちか。その人の友人が弱い人を笑わない人たちか。その人に仕える人たちが怯えずに笑っているか」


 リリアは真剣な顔で聞いている。


「そして、その人が立場の弱い人にどう接しているか。それを見なさい」


「好きな人を見るだけじゃ駄目なの?」


「好きな人ほど、よく見えなくなるものだから」


 リリアは少し考え込んだ。


「お父様は?」


「お父様は、言葉は少なかったわ」


「今も少ないです」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


「でも、お父様の周りにいる人たちは、みんな笑顔だった」


 私は窓の外を見る。


「使用人も、騎士も、領民も。だから私は、この人のそばなら大丈夫だと思ったの」


 リリアも窓の外を見た。


 ちょうどレオナルドが雪玉をぶつけられ、騎士たちに笑われているところだった。


 領主としての威厳はまるでない。

 けれど、そこには幸せがあった。


「お父様、楽しそう」


「ええ」


「みんなも楽しそう」


「そういう場所を選びなさい」


 リリアは小さく頷いた。


「分かりました、お母様」


 今はまだ、本当の意味では分からないだろう。

 私がそうだったように。


 けれど、いつか恋をして迷った時、この言葉が娘を守ってくれますように。


 私はそう願った。


 その夜。


 レオナルドにその話をすると、彼は暖炉の前で少し考え込んだ。


「どうしたのですか?」


「いや」


 彼は少しだけ眉を下げた。


「私は、君を幸せにできているだろうか」


 私は思わず笑ってしまった。


 十二年経っても、この人はこういう人だ。


「あなた一人では無理だったかもしれません」


「そうか……」


 本気で落ち込みそうになったので、私は慌てて続けた。


「でも、あなたの周りにいる人たちと一緒だったから、私は幸せになれました」


 彼は私を見た。


「あなたが大切にしてきた人たちが、私も大切にしてくれました」


 私は彼の手を握る。


「私が失敗した時は笑ってくれて、泣いた時はそばにいてくれて、子どもたちを一緒に育ててくれました」


「それは君が皆を大切にしたからだ」


「最初に大切にしていたのは、あなたです」


 レオナルドは照れたように視線を逸らした。

 その横顔は、初めて会った日のままだった。


「レオナルド」


「何だ」


「私、あなたを選んでよかったです」


 彼は何も言わなかった。


 ただ、私の手を強く握り返した。


 それだけで十分だった。


 母の言葉は、私の人生を守ってくれた。


 恋は、目の前のひとりから始まる。


 けれど結婚は、その人の生きてきた世界ごと受け入れることだ。


 美しい言葉よりも。

 豪華な贈り物よりも。

 甘い眼差しよりも。


 見なければならないものがある。


 その人の周りにいる人たちが笑っているか。


 その人のそばで、弱い人が怯えていないか。


 その人が大切にしている世界に、自分も大切にされる未来があるか。


 いつか娘が誰かを好きになった時、私はもう一度伝えるだろう。


 ――結婚して、あなたを幸せにしてくれるのは、今目の前にいる相手だけじゃない。


 ――その人の周りにいる人たちが大事なのよ。


 そうして、この言葉が母から娘へ、そしてまたその先へと受け継がれていくことを願うのだった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると嬉しいです。


新作短編

『婚約者を庇って死んだ私が、二度目の人生で恋をした相手は執事でした』を公開しています。

雨の日に温かい飲み物でも片手に、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。

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