後編
その後、私はしばらく社交界から距離を置いた。
父の領地で過ごし、母が好きだった庭を整えたり、孤児院へ本を届けたりした。
そんなある日、辺境伯レオナルド・ウォルフ様から手紙が届いた。
内容は求婚ではなかった。
『以前、王宮の庭でお会いした給仕の少女が、あなたに礼を伝えたいと言っています。彼女は今、王宮を辞め、私の領地の療養院で働く準備をしています』
たったそれだけの手紙だった。
けれど、そこには誰かの人生を軽んじない人の温かさがあった。
私は返事を書いた。
そこから、私たちの文通が始まった。
レオナルド様の手紙は飾り気がなかった。
『今年の麦はよく育ちました』
『雪崩で橋が落ちましたが、村人に怪我はありませんでした』
『騎士たちが子どもたちに剣を教えたがり、仕事が増えています』
華やかな言葉はない。
愛を囁くような文もない。
けれど、彼の手紙にはいつも人の姿があった。
領民のこと。
騎士のこと。
使用人のこと。
怪我をした馬のことまで。
彼はいつも、自分以外の誰かを気にかけていた。
私は気づけば、次の手紙を待つようになっていた。
やがて一年が過ぎた頃。
私はレオナルド様の領地を訪れることになった。
辺境の地は王都よりも寒かった。
けれど、屋敷の中は不思議なほど暖かかった。
「エレナ様、ようこそお越しくださいました」
出迎えてくれた家令は、目尻に皺を寄せて笑った。
侍女たちも緊張はしていたが、怯えてはいない。
厨房からは香ばしいパンの匂いが漂っている。
窓の外では騎士たちが雪かきをしていた。
「隊長! 今日は客人が来る日なのに、なぜ我々まで雪まみれなのです!」
「領主が雪をどかしているのに、騎士が見ているだけか?」
「そう言われると思いましたよ!」
周囲から笑い声が上がる。
私も思わず口元を緩めた。
その時だった。
「エレナ嬢」
振り向くと、レオナルド様がいた。
冬の外套には雪が積もっている。
「お迎えが遅れて申し訳ありません」
「いえ」
「寒くはありませんか」
そう言って、彼は自分の外套を私の肩へ掛けようとした。
私は慌てて首を振る。
「大丈夫です」
「無理はしないでください」
その声は相変わらず穏やかだった。
私は彼を見上げた。
「レオナルド様」
「何でしょう」
「あなたの周りにいる方々は、皆さん幸せそうですね」
彼は少し驚いた顔をした。
「そうでしょうか」
「ええ」
私は窓の外へ視線を向ける。
「使用人の方も、騎士の方も、皆さん笑顔でいらっしゃいます」
レオナルド様は少し照れたように視線を逸らした。
「私が不器用なので、周りが支えてくれているだけです」
「違います」
私は首を横に振った。
「あなたが皆さんを大切にしてきたから、皆さんも安心して笑っていられるのだと思います」
レオナルド様は何も言わなかった。
けれど、その耳が少し赤くなっていた。
私はそれを見て、初めて彼を可愛いと思った。
その後、私は数日間を辺境伯領で過ごした。
市場を見て回り、孤児院を訪れ、領民たちと話した。
どこへ行っても、人々はレオナルド様の話をした。
「領主様には助けられました」
「去年の洪水の時も真っ先に来てくださったんです」
「子どもの名前を覚えていてくださるんですよ」
誰もが嬉しそうに話す。
誇らしそうに話す。
そして何より、信頼していた。
私は思った。
この人は、人から慕われるために優しくしているのではない。
優しく生きてきた結果として、人に慕われているのだと。
ある日の夕暮れ。
雪の積もる庭を二人で歩いていた時だった。
「エレナ嬢」
「はい」
「私は、ローラン殿のような方ではありません」
突然の言葉に私は足を止めた。
レオナルド様は真っ直ぐ前を見ていた。
「気の利いた言葉も言えません」
「そうですね」
「贈り物を選ぶのも上手くありません」
「それも知っています」
彼は少しだけ困った顔をした。
「社交界であなたを華やかに扱うことも得意ではないでしょう」
「はい」
「ですが」
そこでようやく彼は私を見た。
「あなたが泣くような場所にはしません」
冷たい冬の空気の中。
その言葉だけが真っ直ぐに胸へ届いた。
「あなたが大切にする人たちを、私も大切にします」
飾り気のない言葉だった。
けれど、私がずっと欲しかった言葉だった。
「約束します」
気づけば、私は笑っていた。
「私も」
「え?」
「私も、あなたの大切な人たちを大切にしたいです」
レオナルド様は目を見開いた。
それから、少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
けれど、その笑顔は誰よりも温かかった。
それが私たちの始まりだった。
結婚式の日。
辺境伯家の屋敷は朝から大騒ぎだった。
侍女たちは花を飾り、料理人たちは大鍋をかき混ぜ、騎士たちはなぜか落ち着かない様子で廊下を歩き回っていた。
「隊長が緊張しているぞ」
「戦場では平然としているのにな」
「花嫁様を見る前から顔が赤いぞ」
そんな声が聞こえてきて、私は思わず笑ってしまった。
鏡の中の私は、白いドレスを着ている。
髪には、母が遺してくれた真珠の髪飾り。
「お母様」
私はそっと髪飾りに触れた。
「私、選べました」
目の前の人だけではなく。
その人が大切にしている世界ごと。
この場所なら大丈夫だと、心から思える未来を。
扉が開き、父が入ってきた。
「エレナ」
「お父様」
父は私を見るなり目を潤ませた。
「綺麗だ」
「ありがとうございます」
「お前の母によく似ている」
その一言で、私は泣きそうになった。
父は私の手を取った。
「幸せになりなさい」
「はい」
「いや、違うな」
父は優しく笑った。
「幸せにしてもらうのではなく、幸せを作っていきなさい。あの方たちと共にな」
私は頷いた。
「はい」
それから十二年が過ぎた。
私は辺境伯夫人となり、二人の子どもの母になった。
長女のリリアは今年十二歳になる。
最近、騎士見習いの少年を見ると頬を赤くするようになった。
本人は隠しているつもりらしい。
けれど母親にはすぐ分かる。
ある夕暮れ。
リリアは私の部屋を訪ねてきた。
「お母様」
「どうしたの?」
「人を好きになるって、どういうことですか」
私は思わず微笑んだ。
初恋というものは、いつの時代も変わらないらしい。
「そうね。会いたくなったり、その人の言葉で嬉しくなったりすることかしら」
「その人が優しかったら、好きになってもいいのですか」
私は娘の髪を撫でた。
そして、遠い昔を思い出す。
十三歳だったあの日。
母が教えてくれた言葉を。
「リリア」
「はい」
「お母様のお母様がね、昔、私に教えてくれたことがあるの」
「おばあ様が?」
「ええ」
私は窓の外を見た。
庭ではレオナルドが子どもたちと雪玉を作っている。
騎士たちが笑い。
侍女たちが温かいお茶を運び。
家令が呆れた顔をしながら見守っていた。
あの日、私が選んだ景色が今もそこにあった。
「結婚して、あなたを幸せにしてくれるのは、今目の前にいる相手だけじゃないの」
リリアが首を傾げる。
「その人だけじゃないの?」
「ええ。その人の周りにいる人たちが大事なのよ」
私はゆっくりと言葉を続けた。
「その人の家族が誰かを大切にできる人たちか。その人の友人が弱い人を笑わない人たちか。その人に仕える人たちが怯えずに笑っているか」
リリアは真剣な顔で聞いている。
「そして、その人が立場の弱い人にどう接しているか。それを見なさい」
「好きな人を見るだけじゃ駄目なの?」
「好きな人ほど、よく見えなくなるものだから」
リリアは少し考え込んだ。
「お父様は?」
「お父様は、言葉は少なかったわ」
「今も少ないです」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「でも、お父様の周りにいる人たちは、みんな笑顔だった」
私は窓の外を見る。
「使用人も、騎士も、領民も。だから私は、この人のそばなら大丈夫だと思ったの」
リリアも窓の外を見た。
ちょうどレオナルドが雪玉をぶつけられ、騎士たちに笑われているところだった。
領主としての威厳はまるでない。
けれど、そこには幸せがあった。
「お父様、楽しそう」
「ええ」
「みんなも楽しそう」
「そういう場所を選びなさい」
リリアは小さく頷いた。
「分かりました、お母様」
今はまだ、本当の意味では分からないだろう。
私がそうだったように。
けれど、いつか恋をして迷った時、この言葉が娘を守ってくれますように。
私はそう願った。
その夜。
レオナルドにその話をすると、彼は暖炉の前で少し考え込んだ。
「どうしたのですか?」
「いや」
彼は少しだけ眉を下げた。
「私は、君を幸せにできているだろうか」
私は思わず笑ってしまった。
十二年経っても、この人はこういう人だ。
「あなた一人では無理だったかもしれません」
「そうか……」
本気で落ち込みそうになったので、私は慌てて続けた。
「でも、あなたの周りにいる人たちと一緒だったから、私は幸せになれました」
彼は私を見た。
「あなたが大切にしてきた人たちが、私も大切にしてくれました」
私は彼の手を握る。
「私が失敗した時は笑ってくれて、泣いた時はそばにいてくれて、子どもたちを一緒に育ててくれました」
「それは君が皆を大切にしたからだ」
「最初に大切にしていたのは、あなたです」
レオナルドは照れたように視線を逸らした。
その横顔は、初めて会った日のままだった。
「レオナルド」
「何だ」
「私、あなたを選んでよかったです」
彼は何も言わなかった。
ただ、私の手を強く握り返した。
それだけで十分だった。
母の言葉は、私の人生を守ってくれた。
恋は、目の前のひとりから始まる。
けれど結婚は、その人の生きてきた世界ごと受け入れることだ。
美しい言葉よりも。
豪華な贈り物よりも。
甘い眼差しよりも。
見なければならないものがある。
その人の周りにいる人たちが笑っているか。
その人のそばで、弱い人が怯えていないか。
その人が大切にしている世界に、自分も大切にされる未来があるか。
いつか娘が誰かを好きになった時、私はもう一度伝えるだろう。
――結婚して、あなたを幸せにしてくれるのは、今目の前にいる相手だけじゃない。
――その人の周りにいる人たちが大事なのよ。
そうして、この言葉が母から娘へ、そしてまたその先へと受け継がれていくことを願うのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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雨の日に温かい飲み物でも片手に、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。




