第六章「それでもうちは専従捜査官ぞな(九)」
(九)
「凪ちゃんが、ここにおるんですか」
と、優子が桔平に訊いた。
「いません」
「でも、あなたの話し方は……凪ちゃんに言うちょるみたいで……」
優子が、必死に食い下がった。
「いえ、気のせいです。俺は、あの木ぃに向こぉて言うてます」
その時、美柑の手が、桔平の袖を掴んだ。
「あっ」
桔平が、言葉にならない声を漏らした。
「桔平兄ぃ。ありがとう」
美柑はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、千鶴子の後ろで足を止めた。
意味が分からない千鶴子の肩に、美柑はそっと手を置いた。
「若女将。なんでも自分のせいにしちゃ、駄目ぞな」
その声を聞いた瞬間、千鶴子の目に涙があふれた。
「凪沙ちゃん……あなたの心をくみ取れなくて、ごめんね」
千鶴子の言葉に、少し間が空いた。
「何を言いよるん。うちは、若女将や彦爺が大好きやったんよ」
美柑はそう言うと、今度は優子の方へ歩いていき、そっと抱きしめた。
「凪ちゃん……凪ちゃん、ごめんね」
「何を言うん。優ちゃんのこと、うちは……いつまでも大好きぞな」
その言葉に、優子は泣きじゃくった。
優子はずっと、二つのことを悔やんでいた。
ひとつは、凪沙に椋梨慎吾を会わせてしまったこと。
もうひとつは、宇多津亮の影が凪沙に近づいていた頃、自分が子育てに追われ、凪沙の寂しさに気づいてやれなかったことだ。
あの時、自分がもっとそばにいれば。
あの時、凪沙の「大丈夫」を、真に受けなければ。
そんな後悔を、優子は二十五年もの間、胸の奥に抱え込んでいた。
だから、もう一度だけでいいから、凪沙に会いたかった。
もう一度だけ、彼女の声を聞きたかったのだ。
「ありがとう」
そう言って美柑は意識を失った。
「美柑!」
桔平が慌てて抱き止める。
そして、震える手でスマホを取り出し、なぜか一一〇番を押した。
「事件ですか、事故ですか」
「……オカルトです」
美柑は、ホテルのベッドで目を覚ました。
「気ぃついた? 美柑ちゃんが急に倒れたけぇ、みんなびっくりしちょったんよ」
晋子がそう言うと、美柑は突然起き上がった。
「桔平兄ぃは?」
「ああ、そこね。訊きたい?」
晋子は、少しだけ困ったように笑った。
「所轄に引っ張られて行ったんよ」
倒れた美柑は、千鶴子と優子にホテルまで送ってもらうことになり、晋子はそのあと、桔平と一緒に所轄へ同行したそうだ。
「なあ、あんた。オカルトっちゃ何なんかね。山口をなめちょるんか」
取調室で、所轄の刑事は怒りを抑えながら桔平に訊いた。
「いえ、僕は、悪いことはしてません」
「そこを訊いちょるんじゃない」
「僕はただ、事件ですか事故ですかと訊かれたので、正直に……」
「オカルトは通報区分にないっちゃ」
「ですよねえ」
「あれか。京都府のほうが山口県より人口が多いけぇいうて、山口の警察は暇じゃろう思うちょるんか?」
「いや、そういうわけやないねん」
「ほいじゃあ、あれかね。ちぃと歴史が古いけぇいうて、観光客の数で山口にマウント取っちょるつもりなんかね」
「それは……四捨五入して三倍やし。ごめんね」
「ふっ。よう言うたのう。今のは聞き捨てならんっちゃ」
所轄の刑事は、ゆっくり身を乗り出した。
「山口県侮辱罪で、現行犯逮捕じゃ」
「え?」
そんなやり取りを、晋子は横で聞いていたが、人口や観光客数の話には笑ってしまった。
しかし京都府警本部の山際万作から連絡が入ったことと、山口県警本部の刑事である晋子も一緒にいたということもあり、桔平はすぐに解放された。
ただし、桔平にとっては悲しいことに、山口の所轄には、ひとつだけ余計なものが残ってしまった。
――京都のオカルト刑事。
その不名誉な異名だけが、しっかりと山口県警の警察官すべての記憶に残ってしまったのだ。
「ほんま、おもしろい人じゃねえ。桔平さんって」
「そりゃそうぞな」
「でもね、うちとしては、事情を聞くために来てもろうただけなんよ。逮捕も何もありゃせんのに、京都では桔平さんが捕まったっちゅうて、大騒ぎじゃったみたいなんよ」
「そうなん?」
「殺人やら何やらで騒いじょったらしいんやけど、結局は痴漢騒ぎで収まったみたいなんよ。そいで、こっちの本部に電話が入ってね。京都府警の山際課長が『伏見の水』を送るっちゅうことで、どうにか和解したらしいっちゃ」
「賄賂ぞなもし」
美柑が、真顔で言った。
「違うっちゃ。お中元なんじゃって」
「警察同士のお中元て、怖すぎるぞな」
「山際課長さん、なかなか肝が据わっちょるねえ」
二人は、とうとう声を出して笑った。
その後、「お前のせいやぞ」と、むくれている桔平も誘って、ホテル近くの居酒屋へ向かった。
そこでまたひとしきり盛り上がったあとも、美柑と晋子の話は尽きなかった。結局、二人は美柑の部屋で、夜中まで語り合った。
「お前のせいやぞ」
翌朝。
新山口駅で晋子と別れた美柑と桔平は、十時四分発の山陽本線に乗り、柳井港駅へ向かっていた。
その車内で、桔平は昨日とまったく同じことを言った。
「なんでうちのせいぞな」
「美柑が持ち込んだビデオを見てから、俺の人生が狂いだしたとしか思えんねん」
「ああ、あのときの」
と、美柑は返事をしたが、実際のところは覚えていなかった。
「そや、あれから……そうや、姉ちゃんや。あいつの血ぃが入ってからや。見たくないもんが見えるようになったんは……」
桔平兄ぃは、幽霊嫌いなんやななと思いながら、
「でも、そのおかげで元気なんやけん。良かったぞな」と言った。
「あほか。生きてる人間より死んでる人間の方が多いんや」
「うん」
「ああっ、あかん。もぉ表、歩かれへんわ」
桔平が頭を抱えて落ち込んでいた。
美柑にすれば、そんな無茶苦茶な彼の言葉を聞いている時間さえ、楽しかった。
怒られても、呆れられても、隣で桔平の声を聞いていられるだけで、胸の奥が少しだけあたたかくなるのだ。
「柳井港駅に着いたら、『ふく寿司』でも食べて、機嫌直してほしいぞな」
美柑は、新山口駅で買っておいた「ふく寿司」の紙袋を開け、桔平に見せた。
「美柑」
「はいぞな」
「お前……ええ奴やな」
《ふふっ。ちょろいぞな》
美柑はにこりと笑って見せたが、その胸の内では、小悪魔のような笑みを浮かべていた。
柳井港駅には、十一時五十分に着いた。駅からフェリーターミナルまでは、歩いて五分ほどだった。
十二時二十五分発の三津浜行きフェリーまで少し時間があったので、桔平は待合所のベンチに座るなり、「ふく寿司」をむさぼるように食べ始めた。
美柑たちは切符を買い、白い船体の「しらきさん」に乗り込んだ。
柳井港を十二時二十五分に出るその便は、途中で伊保田港に寄り、三津浜港には十四時五十五分に着く予定だった。
船内には窓際のシートや、家族連れがくつろげる客室があり、最上階のデッキからは柳井の海が見渡せた。
島々の間を流れるように進む船の上で、美柑は潮風にあたっていた。
本当は、凪沙が最後に乗ったフェリーの航路をたどって、松山へ帰りたかった。
けれど、その航路は昨年六月に廃止されている。
それでも、少しでも凪沙の気持ちに近づきたと思い、フェリーで松山へ帰ることを選んだのだ。
「何や、こないなとこにおったんか。探したで」
桔平が、後ろからやってきた。
「桔平兄ぃ」
潮風にあたりながら、凪沙のことを考えて少ししんみりしたのか、美柑が桔平に話しかける。
「うちら、本当に解決したと言えるんかな?」
「……」
桔平はしばらく間を置いた。
「二十五年前のことで、雲を掴むような話や」
と言い、遠くを見ながら、
「美柑は、よぉやったと思うで」
と、美柑を労った。
その言葉は、美柑の胸を締め付ける。凪沙の過去を追っていくうちに、自分は「泣き虫」だったと気づいた。この一ヶ月あまりで、一生分泣いたかもしれない。
不意に、桔平の手が、美柑の手を掴んだ。
《ちょ……ちょっと。うちはまだ心の準備ができてないぞな》
いきなりのことで美柑はドギマギした。
「なあ、美柑」
桔平が静かに美柑を見つめる。
「は……はい」
美柑は、この後の展開を想像して胸がときめく。
桔平は、少しじらすかのように間を置いた。
「あんな……」
「はい」
「どこかお祓いのできる神社、知らんか?」
「え?」
「俺の後ろ……見てみ」
美柑は言われるままに、桔平の後ろを見た。
そこには、桔平の守護霊らしきものに首根っこを掴まれ、じたばた騒いでいる妖精のような大きさの凪沙の魂がいた。
どうやら、桔平の肩の居心地がよかったのか、相性がよかったのか、長門屋から付いてきてしまったらしい。そして、桔平の守護霊に捕まってしまった。
その者は、大きく口を開けて、魂を食おうとした。
「きゃーッ、ごめんなさい、ごめんなさい。ちゃんと成仏しますけん、食べんといてほしいぞなぁ」
凪沙の魂は、涙目で騒いでいた。
「こいつら、昨日の晩からこうやねん」
必死で暴れていた凪沙は、美柑を見るなり、ぴたりと動きを止めた。
「ちょっとあんた。見てないで助けなさいよ!」
と、今度は、美柑に向かって文句を言ってきた。
《凪沙さんって、そがいなキャラじゃったっけ?》
そう思ってから、美柑はふと気づいた。
「こら、狐!そがいにうちを虐めても、彼から絶対に離れんけん」
と騒ぎながら、一瞬だけ、桔平を見て、ポッと頬を赤らめる。そして再び、守護霊に首根っこを掴まれながらも激しく抵抗した。
で、再び食べられそうになり、
「きゃーッ、ごめんなさい、ごめんなさい。いまのは嘘ですけん、食べんといてほしいぞなぁ」
と騒いだ。
「な、この繰り返しや。松山に着いたら、こいつら二人ともお祓いの対象や」
桔平はそう言って頭を抱えた。
ただ、美柑は凪沙と守護霊のドタバタを見て、救われた気持ちになれた。
《もしかすると、こっちが本当の凪沙なのかもしれないぞなもし》
惚れっぽくて、騒がしくて、寂しがりで、でも誰かを好きになる力だけは、人一倍強かった女の子。
凪沙は……最初から悲劇の女だったわけではないのだ。
きっと昔は、こうしてよく笑い、よく喋り、すぐ誰かを好きになって、すぐ傷ついて、それでもまた誰かを信じようとする女の子だった。
「完」




