第一章「うちの名は浦波美柑じゃ(四)」
(四)
瀬戸内海は島が多く、海峡・瀬戸・灘が入り組んでいる。そのため、場所によって潮が速い。
「このへんの海はの、凪いどるように見えても、下じゃ潮が走りよるんよ。三津浜沖でも、潮を読み違えたら、なんちゃ獲れんのよ」
裕太は沖の方へ顎をしゃくって言った。
愛媛県側で言えば、瀬戸内海側には伊予灘や燧灘があり、佐田岬半島を境に、瀬戸内海側と宇和海側に大きく分かれると言う。
今日も(五月三十一日)の夜明け前から、凪沙丸は薄い靄の残る三津浜沖へ出ていたという。
柑奈が、また別の日に詳しく話を聞かせてほしいと申し入れると、裕太は気前よくうなずいた。
「ああ、いつでも来たらええが。かまんよ」
「ありがとうございます」
美柑が頭を下げた。
「おお、坊も頑張りよ」
裕太が不意に言った言葉、「坊」に美柑は即座に反応した。
が、普段のように「うちは女じゃ!」と返すと、ガキに見られるのが嫌なので、
「ありがとうございます」
まずは、おしとやかに頭を下げて、
「ただ、うちは女やけん、間違えんとってください!」
眼鏡の奥を光らせて文句を言った。
船着き場から松山西署に戻る道中、三津浜商店街通りを通ったとき、不意に美柑が左に曲がり、てくてくと歩みを早めた。
「待って美柑、どうしたの」
柑奈が声をかけるが、美柑は振り返らなかった。
そのまま商店街通りから少し外れて古民家カフェへの前で止まった。
古い町家を改装したらしい建物だった。白い壁の下に、淡い青緑色の外壁が続き、低い瓦屋根が初夏の日差しをやわらかく受けている。
入口には、年季の入った木の扉。軒先に置かれた看板には、手書きの文字が並んでいた。 港町の古い家並みに紛れているのに、そこだけ少し、時間の流れがゆっくりして見える。
「トマトパフェ、二つくださいや」
と、席に着くやいなや、美柑は注文した。
「ほんと、あんたは食べてばっかりね」
柑奈が苦言を呈した。
「この暑さの中を歩いたんじゃ。糖分補給は乙女の義務なんよ」
と、意に介さない。
少し待っているとお目当ての品が、二人の席に届いた。
目の前に置かれたトマトパフェは、細長いグラス入りではなく、古民家の空気に似合う少し和風の器に盛られていた。上にはごろりとしたトマトがのり、赤がみずみずしく光っている。
柑奈も不思議そうにパフェを見ていた。 三十二歳といえど、甘いものを前にした顔は妹とそう変わらない。
美柑は、目の前のトマトパフェの写真を撮る振りをして、嬉しそうにしている柑奈の姿を動画で撮っていた。
とても微笑ましい場面だ。
しかし美柑の考えは違った。
《くっくっくっ、勝った!今度何かあったら、この動画見せて黙らせちゃる》
という、不埒な考えを持って、ほくそ笑んだ。
勝平からの着信が入り、柑奈が席を立つ。
「……うん……そうなの?……うん、了解」
店の外で柑奈が勝平と連絡を取っているのを横目に、美柑は瀬戸裕太から聞いた話を整理していた。
ただ、トマトパフェに夢中になっているわけではない。
一度、素直に帰った宇多津亮は、その後もしつこく「金を払え」と、言ってきたらしい。
「けど、ある日ぱたりと来んようになったんよ」
と裕太は言った。
それもそのはずで、亮は保険会社にも、しつこく保険金を請求していたらしい。
担当者が不審に思い、警察に相談したことで、亮は香川県警から任意で事情を聞かれていた。そこで、亮も凪沙が転落したフェリーに乗船していたことを喋ってしまい、話がややこしくなって何度も呼び出されたようだ。その記録が、書類に残っていた。
任意の聴取で亮は、
「わしがあの船に乗っとったら、何が悪いんじゃ」
と、息巻いたようだ。
そうなると警察官も人間である。亮の動きを徹底的に調べあげた。
「あんた、松山まで被害者の後を追いかけ回しよったそうやな」
と、言われる始末だった。
要するに「語るに落ちる」現象である。
亮は、当時の妻だった凪沙に多額の生命保険をかけていた。
その一年半後に凪沙がフェリーから転落死をしている。
しかも亮は、その同じ船に乗っていたのだ。
疑われても仕方がない。
《あの転落死に関係なかったとしても、亮はいつか凪沙を殺しとった。そう思えてならん》
と、美柑は考えていた。
「なに難しい顔で食べてるの。おいしくなくなるよ」
電話を終え、席に着くや柑奈は言った。
「マル害のことでしょ」
「ほうよ。こいつ(亮)は確かに悪党じゃ」
アイスクリームにうっとりした表情でありながら、平然と「悪党」と言う。柑奈には理解が出来ずにいた。
「ただ、それが京都の殺しにつながるとは、どうにも思えんのよ」
「それは桔平に聞けばいいんじゃない」
桔平の名前を聞いた美柑は急に乙女になる。
「ど……どういうことぞなもし」
「勝平が、『明日、京都府警の人たちが五人、こっちに来るんだよねぇ』って言ってたから」
その時、美柑は、日の出やで食べたご飯と、目の前にあるトマトパフェを見比べた。
そして、静かに後悔した。
《食べ過ぎてしもうたぁーっ!(泣)》
楽しみにしていた晩ご飯を抜くという、「究極の選択」を美柑は決断した。そんな妹の姿を見かねて、
「あのね、桔平とは親戚なのよ。いくら好きでも無理があると思わない?」
と柑奈が釘を刺した。
「それに……神楽ちゃんがいるじゃない……無理だよ」
その言葉の途切れに、美柑は違和感を持った。
「あーっ、かな姉。そうじゃったんや」
「なによ」
「かな姉も神楽ちゃんのこと、好きぞなもし」
と茶化した。
《きうい姉のライバル出現じゃ!これは姉妹血みどろの争いになるけん、楽しみじゃ》
という、よこしまな考えを浮かべて笑った。
「なに、変なことを考えて笑ってるのよ」
柑奈が顔を赤らめて否定した。そんな八歳年上の姉を見て、
「まあまあ、そがいに言わんと。京都から乗る新幹線、何時発か分かるん?」
と聞いた。柑奈は勝平にメールで確認をした。
「十三時二分発の新幹線らしいわ」
「ほしたら、のぞみ六十七号の広島行きじゃね」
そう言うと美柑は頭の中で、時刻表を開いた。
大学一年の時に、時刻表のトリック」を書いた小説に出会い、その作家の作品をすべて読み漁っただけでなく、自分もいつか、列車の時刻から事件の嘘を剥いでみたいと思うようになった。
その結果、大学を中退し、警察学校の門を叩いた。
以来、美柑は最新の時刻表まで頭に入れている。
《岡山には十四時五分着じゃ。新幹線ホームは二十一番か二十二番。しおかぜは六番か八番。標準乗換は八分じゃけん、三十分ありゃ十四時三十五分発の、特急しおかぜが余裕ぞな》
美柑の頭の中で、数字が動き回る。
「松山着は十七時二十四分じゃ」
と柑奈に向かって言った。
柑奈は、時刻表だけで目を輝かせる妹の将来を、真剣に思い悩むことになった。
そんな柑奈を尻目に、美柑は京都の事件の詳細を書いた書類のスクショを開いた。
令和八年五月二十八日未明。場所は京都府警本部に近い護王神社付近の駐車場の中で、ワンボックスカーの荷室で、背中を刺されて死んでいる宇多津亮を、同じ駐車場を利用している住人が発見して、事件が発覚した。付近の監視カメラに、怪しい人物の姿は映ってはいなかった。
財布と携帯電話が見つからなかった事から、強盗も視野に入れて捜査をした。車内に残されていた車検証から、被害者は、愛媛県松山市在住の宇多津亮である可能性が高いとして、愛媛県警に照会を入れた。
現在、京都、和歌山、岡山、愛媛などで、組織的な強盗が起きており、警察庁は広域合同捜査本部立ち上げを視野に、府警本部にも慎重に対応することを求めていた。
京都府警としては、愛媛県警に照会を入れたうえで、宇多津亮の過去と凪沙事件の資料を確認するため、捜査員を松山へ向かわせることにした。←今ここ。
美柑は久しぶりに会う桔平の姿を思い出して、ウキウキした気分になっている。なので、桔平に何を聞かれても答えられるように、急いで署に戻って行った。
《待っとってください、桔平兄ぃ。うちは完璧な女刑事になってお迎えするけん!》
「なんで走るのよ」
美柑の後を必死に追い掛ける柑奈の声は、恋と捜査を完全に混同した妹の耳には届かなかった。




