第八十九話
話が一段落し、おたかが膳を運んで来る。天狗の土産話を聞く内に日が傾き、夕餉の刻になっていた。秋鯖の味噌煮、里芋の煮っ転がし、茄子の煮浸し、きのこの味噌汁。質素だが味わい深い膳に、天狗は目を細めた。
「おう、これは美味そうだ。山では乾飯と山菜ばかりだったからな、こういう膳は久方振りだ」
天狗は遠慮という言葉を知らぬかのように箸を進め、あっという間に一膳を平らげた。おたかが追加の飯櫃を運ぶと、それも豪快に盛り、あっという間に空にする。
「お師匠。流石に食べ過ぎではありませんか」
「何を言う。この身は人の三倍食わねば力が出んのだ」
「本当ですか」
「嘘だ。だが美味い飯の前では、目いっぱい食わねば逆に失礼というものだろう。なぁ、おたか殿」
「はい。お口に合いましたら幸いでございます。お師匠様は坊ちゃんの御恩人ですから、いくらでもお作りいたしますよ」
源一郎は苦笑した。今度は燗酒を所望し、おたかが徳利を持ってくると、猪口に注いで一息に干す。
「ふぅ。──さて、源一郎よ。飯を食い終わったが、少し耳を貸せ。愚痴というほどでもないが──お前の火盗改という役目柄、知っておくべきことを話す」
「何です。改まって。しかし、珍しいですね。お師匠が愚痴と仰るとは」
「山の者にも溜まるものは溜まるのだ」
天狗は猪口を置き、声の調子を変えた。豪放な表情が消え、山の守護者としての険しい顔になる。
「今度の霞の巡回でな。相模から武蔵の村々や宿場町を回ったのだが──少し妙なことがあった」
「妙なこと」
「どうやら俺の檀那場に、見知らぬ山伏が入り込んでおるようでな」
源一郎は片眉を上げた。霞とは修験者にとっての縄張りであり、他の修験者が無断で立ち入ることは掟に反する。縄張りの乗っ取りや侵犯──そうなれば訴訟にもなり得る問題だった。
「村や宿場町をいくつか回ったところ、先に別の山伏が来て配札をしていったと言うではないか。俺の顔を知っておる檀那衆は、俺が来られぬ代わりの山伏かと勘違いしておったようだが──歓待された上で、祈祷や護符に対する布施を持ち出したらしい」
「それは──穏やかではありませんね。どこの派の何者でしょうか」
源一郎がそう問うたのは、修験道の枠組みを知ればこその問いだった。
修験道には大きく二つの派がある。天台宗系の本山派と、真言宗系の当山派。本山派は京の聖護院を本山とし、熊野三山と深く結びつく。当山派は醍醐寺三宝院を本山とし、大峯山を本拠とする。徳川家康の定めた慶長の修験道法度以来、全国の修験者はいずれかの派に属さねばならぬと定められていた。
そして、源一郎の師である天狗は──当山派に縁のある修験者である。天狗の祀られる高尾山薬王院は真言宗智山派の寺であり、修験の系統としては当山派。布施の持ち逃げ──それは言わば、高尾山薬王院の縄張りを踏み荒らしているのと同義であった。
「──しかしな、それが分からんのだ。そやつの足取りを辿ろうとしたが、だいぶ前に村を出た後でな。聞けば、名を天行と名乗り──高尾山、御岳山、大山を巡ったと話していたという。しかし、俺の知る中でそのような行者はいない。置いていった護符も確認したが形だけ真似た偽物。つまりは──騙りだ」
天狗は腕を組み、渋い顔で唸った。
「檀那場を荒らされたことも腹立たしいが──それ以上に気に食わんのは、正体が掴めんことだ。俺もそれなりに顔は広いつもりだが、天行などという行者の名は聞いたこともない。本山派にも当山派にもな。だとすれば──どちらにも属さぬ、野良の修験者崩れか。あるいは最初から修験者ですらない、全くの偽者か」
「心当たりはないのですか」
「確証はない。だが……一つ、思い当たることはある」
天狗は猪口に酒を注ぎ、一口含んだ。それから、ぽつりと呟くように言った。
「──最近、富士講の勢いがとみに凄まじくてな」
富士講。源一郎も江戸の町のそこかしこでその名を耳にするようになっていた。日常においても、そして過去の捕り物においても──。
「今度の巡回で、それを嫌というほど実感した。相模でも武蔵でも、どこの村や宿場に行っても富士講の話が出る。あの家も入った、この家も入った。あの神社には富士塚があるから今度一緒に参ろうと誘われた。講の先達が来て拝みを上げてくれたから、高尾の護符はもう間に合っておると──」
天狗は苦い顔をした。
「檀那衆の一部が富士講に鞍替えしておるのだ」
源一郎は少し驚いた。天狗の口からそのような言葉が出るとは思わなかった。
「富士講の勢いはそれほどですか……」
「それほどだとも。──そもそも講というのは、源一郎、お前さんも知っておるだろうが、信仰を同じくする者たちが銭を出し合い、助け合うための寄り合いだ。祭礼の費用を積み立てる者もあれば、代参の費用を捻出する者もある。富士講に限った話ではない」
天狗は指を折った。
「月待ち講は十五夜、十六夜、二十三夜などに集まり、月の出を待ちながら念仏を唱え飲み食いする。庚申講は庚申の夜に眠らず過ごし、体の中の三尸の虫が天帝に悪事を報告しに行くのを防ぐ。伊勢講は銭を積み立てて代表者をお伊勢参りに送り出す。大山講、御岳講──どれも同じ仕組みだ。庶民が銭を持ち寄り、代わる代わる参詣し、信仰と付き合いと楽しみを兼ねる。講とは、身近なそういうものだ」
源一郎は頷いた。講は信仰の共同体であると同時に、庶民にとっての相互扶助の仕組みでもある。個人では到底賄えぬ参詣の費用も、講の仲間で積み立てれば実現する。町内の付き合い、情報の交換、互いの面倒見──信仰を軸にした暮らしの結びつき。
現に、過去の捕り物──赤坂日枝神社に入った盗賊の正体は貧困に喘ぐ無宿人達であり、生活の支え合い、相互扶助を目的とした講の構成員。加えて、講同士での繋がりから物資を融通し合い、助け合うこともあるようであった。
「その講の中でも、今一番勢いがあるのが富士講だ。富士講自体は民間宗教であり、信者は修験者の体裁を取るが修験道法度にも捉われない。だというのに、江戸八百八講、講中八万人と言われるほどになっておる」
天狗は庭に目を向けたまま語った。
「富士講の爆発的な広がりは──五十年ほど前の食行身禄という男に端を発しておる。源一郎よ、この名は知っておるか」
源一郎は思い浮かべる。以前の捕り物での事があってから、富士講については、それとなく情報を集めていた。
「たしか……富士講の開祖角行から数えて五代目か六代目の弟子に当たる行者だったかと。享保の頃、富士山中で入定したという」
「そうだ。身禄は富士の七合五勺──烏帽子岩と呼ばれる場所で、断食の末に入定、すなわち──自死した」
天狗の声には複雑な響きがあった。嘲りではない。かといって敬意とも異なる。山の者として命を賭して信仰を全うした者への、ある種の畏れや妬み、呆れの混じる何とも言えない感情だったのかもしれない。
「身禄は言ったという──。この世は穢れと苦しみに満ちている。だが、弥勒下生──弥勒菩薩の世が来れば、全ての人が救われると。そして、自らの名である『身禄』を『弥勒』と掛け、自らの命を捧げることで弥勒の世の到来を呼び、早めようとした。正しく悪人が罰せられる世直しを願ったのだ」
天狗は猪口を傾けた。
「身禄の教えは、山での苦行を重んじる修験道とは根が異なる。修験者は山に入り、命を削る修行をしてこそ験力を得る。だが、彼の者は──呪術や加持祈祷を否定し、里にいても日々の暮らしの中で真面目に勤労に励むことが、そのまま修行になると唱えた。庶民に富を分かち合えと説き、男女の隔てなく平等を唱え、勤労に精を出すことが修行だと」
源一郎は眉根を寄せた。師曰く、身禄は士農工商の身分や枠組みを否定してはいない。しかし、それでいて四民同等、男女平等、職業に貴賎なし、幕政批判とも取られかねないそれを唱えるのは……どうにも、この時代には警戒される思想のように思えた。
「この教えや、『身禄』が入定し『弥勒』という救いの象徴となったことで、江戸の町人たちに──特に、日々の暮らしに不安と不満を抱える庶民の祈りを集めることになったのだろう」
「身禄の入定から、もう五十年以上経ちますが……」
「五十年どころか、今が一番盛んな頃合いだ。身禄の遺した弟子たちが講を広め、今や江戸八百八講、講中八万人と言われるほど。江戸の町にも、あちこちに富士塚が築かれ、本物の富士に登れぬ者でも塚に登って拝めば御利益があるとした。庶民にとっては、よほど身近で分かりやすい信仰なのだろうな」
天狗は深い溜め息をついた。
「──とまあ、色々と思うところがないでもないが、信仰に貴賎はない。俺はそう思っておる」
その言葉には山の者としての矜持と、同時に長い年月を生きてきた者の達観が滲んでいた。
「富士を御神体として拝み、報恩感謝する。庶民が銭を出し合い、代表を富士に送り、皆で御利益を分かち合う。素朴な信仰の形だ。修験の道とは異なるが、それはそれで一つの道だろう。身禄の教えが受け入れられたのも、庶民が世にそれを求めておったからだけのこと」
天狗は静かに猪口を置いた。
「だが──」
その声に刃が混じる。
「問題は、その教えを都合良く解釈し、講を悪用する輩だ」
源一郎は黙って聞いている。
「富士講が爆発的に広がった分、様々な者が紛れ込むようになった。大部分は純朴な信仰者だろう。だが、中には質の悪い者もおる」
天狗は指を折った。
「一つ。講を金儲けの道具にしておる者。祈祷料と称して法外な銭を取り、弥勒の世だの先祖の因縁だのと脅して商家から搾り取る。信仰の名を笠に着て、断れば障りがあると──そういう圧を掛ける手口だ」
「それは──恐喝、祈祷詐欺になりますな」
「うむ──二つ。講を犯罪の隠れ蓑にしておる者。講員は多種多様。無宿人から博徒、豪商から下級武士まで幅広い。講の中に盗人や下手人が入り込んでいても誰も気づきはせぬ。知らぬ間に片棒を担がされることも有り得る」
「……」
「三つ。強引な勧誘。入信せねば罰が当たる、先祖が浮かばれぬと脅す者。断れば嫌がらせをする者。講の結束を盾に、町内の付き合いで村八分にする者。──こうなると、もはや真っ当な信仰とは呼べん」
天狗は腕を組んだ。
「富士講が悪いのではない。講そのものは一つの生活の形だ。だが、その名の下に悪事を働く者がおる。信仰の衣を纏った悪党ほど質の悪い者はいない。何しろ──被害に遭った者が声を上げにくい。信仰を疑えば罰当たりだと思われるし、講の仲間から白い目で見られることを恐れる」
天狗は目を閉じた。
「修験の道は、本来、人を救うためにある」
その声は怒りではなく、深い嘆きを帯びていた。
「山で身を鍛え、里に降りて人の苦を和らげることで修行の成果を還元する。病を癒し、災厄を払い、迷える者に道を示す。それが修験者の務めだ。信仰とは人の心を支えるためにあるもの。──それを食い物にする輩が修験者の格好をして平気で歩き回っておる。嘆かわしいことだよ」
天狗は腕を解き、庭の外を見た。外は既に暗くなっていた。
「俺の檀那場に入り込んだ山伏が、そうした連中の一味かどうかは、まだ分からん。ただの行き違いかもしれんし、別の修験者が間違えて入っただけかもしれん。だが──最近の世の空気を感じておると、どうにも嫌な予感がするのだ」
「江戸にも、そうした者が来ているのでしょうか」
「来ておるだろうな。江戸は人が多い。金も集まる。富士塚の周りには拝み屋が集まるし、講で繋がれば商家への出入りもしやすい。悪事を企む者にとって、これほど好都合な稼ぎ所はない」
徳利から猪口に酒を注ごうとしたが、一滴だけこぼれ落ちるのみ。
「べつに、お前にどうにかしろと言っておるわけではないぞ。ただ──こういう輩が増えているということは、知っておいてほしかっただけだ。信仰の衣を纏った者が、皆が皆まっとうな者ではないということをな」
「承知しました」
源一郎は頷いた。天狗の言葉は、あくまで山の行者としての嘆きであり──同時に、里を歩く中で感じた肌感覚としての警告だった。
とはいえ、火盗改の与力として思案すれば、偽祈祷による詐欺は火付盗賊改方の本来の領分ではない。火盗改が取り締まるのは放火、盗賊、賭博──凶悪犯罪が主であり、偽祈祷のような欺きは町奉行所の管轄に属する。ましてや寺社や信仰が絡む事案となれば、寺社奉行の領分にも関わってくる。
──だが、詐欺に止まらず、盗みや強請り、殺人、薬を用いた世を乱す手口が絡むとなれば話は別だ。
源一郎は胸の内でそう考えたが、今はまだ具体的な事件として認識しているわけではない。天狗の言葉をただ心に留め置くに止めたのだった。




