第八十七話
「あぁ、それと──」
白狐が源一郎の方に向き直った。
「お鈴さんの狐の教育係のことだがね」
「はい」
「当初は躾上手の狐を一匹遣わすつもりだったのだけど──どうにも、あの子が来れなくなってしまってねえ。別のお役目を仰せつかったとかで」
白狐は少し困ったように尾を振った。
「そこで、代わりに灰狐を遣わすことにしたよ。お前さんとも顔馴染みだし、お鈴さんとも面識があるから都合がいいだろう」
「灰狐殿が──それは、心強い」
「ああ。アレはね、躾の専門ではないのだけど面倒見がいい。それに、要領も悪くない。上手くやってくれるだろうさ」
白狐が祠の脇──狐塚の方に目をやった。
「灰狐。いい加減出ておいで」
灰色の気配が、狐塚の土の中からにじみ出るように現れた。黒みがかった灰の毛並み。先端が二股に分かれた尾。金色の目。中型の犬ほどの大きさの灰狐が、ちょこんと座って源一郎を見上げた。
「──鬼切殿、お久しぶりでございます」
灰狐がぺこりと頭を下げた。
「久しいな、灰狐殿」
「いやはや、まさか私が教育係を仰せつかるとは思いませんでした。本来なら、もっと適任の者がいたのですが──お方様の命とあらば致し方ありません」
灰狐は真面目くさった顔で言ったが、尾の先がわずかに揺れている。まんざらでもないらしい。
「躾の専門ではございませんが、まあ、やれるだけのことはやりましょう。お鈴さんの中にいるモノ──あれがどういう狐なのか、まだはっきりとは分かりませんが」
「分からない?」
「ええ。中にいるうちは、正体が見えづらいのですよ。さっさと外に出てきてくれれば話は早いのですが……まだ、その段階ではなさそうです」
灰狐が鼻をひくつかせた。
「まずは、お鈴さん自身を落ち着かせることからですかね。宿主が安定すれば、中のモノも安定する。逆もまた然り。焦らず参りましょう」
「頼む。ところで灰狐殿。何故、狐塚から──」
「何故って。この狐塚を私にいただけるのですよね?先に確認させていただいておりました」
灰狐が狐塚に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
「まさか塚を用意して貰えるとは……祠は吒枳尼真天様の御分霊がおわす場所ですから、私が入るには肩身が狭いのですよ……下っ端には塚の方がちょうどいい。ただ出来れば──塚の中身は石組みにして、そこに小さい石祠を置いて欲しかったですね」
灰狐の金色の目が冗談めかして笑った。白狐が横から口を挟む。
「灰狐、あまり欲をかくんじゃないよ。渡辺殿の懐にも限りがあるんだから」
「いえいえ、お方様ほどには食いませんよ。──と申しますか、先ほどから供物を独り占めしていらっしゃるのはどなたでしたか」
「これは結界を張った報酬だよ。当然の対価さ」
白狐は新たな稲荷寿司を頬張りながら、堂々と言い放った。灰狐が小さくため息をつく。
「……お方様のお腹は、三本尾の神通力より底が知れませんね」
§
白狐が供物を平らげ、ペロリと赤い舌を回す。それから満足げに三本の尾を揺らした。
「さて、どうせだからお鈴さんにも会っていこうかね」
「──お鈴」
源一郎が声をかけると、縁側の奥からお鈴がゆっくりと姿を現した。
足取りが固い。顔は青白く、唇は緊張で引き結ばれている。はたして──お鈴の目には狐の姿が見えていた。以前はぼんやりとしか見えなかった妖の姿が、今ははっきりと映っている。異界の存在を視界に映す第六感──狐の目が開いてきている証として。
そして──目の前にいるのが、豊川稲荷の神使であることも分かっていた。三本の尾を持つ白い狐。金色の瞳。底知れぬ霊威。お鈴は本物の神使を前にして、足が竦むのを感じていた。
「お鈴。こちらへ」
何の気もなしに源一郎が手招きする。目の前の神使に何も感じていないかのように。お鈴は一歩一歩、確かめるように庭に降りてきた。白狐の前に跪き──深く頭を下げた。
「お初に……お目に掛かります。お鈴と申します」
声が震えていた。白狐はお鈴を見上げ、鼻をひくつかせる。
白狐の金色の瞳が、お鈴の奥──その血の中に宿る何かを見ている。お鈴は頭を下げたまま動けなかった。見られている。自分の中にあるものを。魂の奥底まで。この神使に見透かされている──お鈴はそう感じた。
「顔を上げておくれ」
しかし、白狐の声は存外に穏やかだった。お鈴がおそるおそる顔を上げると、白狐がじっとお鈴を見つめていた。
暫くの沈黙が流れた。白狐はお鈴の奥にいるものを見定めるように、金色の瞳を細め──やがて、ふっと息をついた。
「なるほど。確かに、若い狐だ。小童も小童。だが──」
白狐の声が柔らかくなった。
「悪い子じゃないね。怯えているだけだ。主人が怯えているから、狐も怯えているのさ」
お鈴の肩が小さく震えた。
「お鈴さん。怖がらなくていいよ。お前さんの中に宿るモノは、お前さんを害するものじゃない。ただ、まだ自分が何者かも分かっていないってだけさ。──安心しておくれ。だから、アレを遣わしたのだから」
白狐が灰狐を振り返った。灰狐が座り直し、お鈴を見上げる。
「──お鈴さん。萬屋以来ですね」
灰狐の声は穏やかで、どこかとぼけた調子がある。
「覚えておいでですか?──これから暫く、お鈴さんの中にいるモノの教育係を務めさせていただきます。本来は別の者が来る筈だったのですが、ちょいと都合がつかなくなりまして──不肖ながら、この私がお引き受けした次第です」
お鈴は灰狐を見つめた。黒みがかった灰の毛並み。金色の目。白狐ほどの威厳はなく、むしろ愛嬌がある。山王祭の折、萬屋での見張りをしていた夜──豊川稲荷から使わされて来た狐に遭遇したことを、お鈴は覚えていた。
「……灰狐様も、よろしくお願いいたします」
お鈴が答えると、灰狐が嬉しげに尾を振った。白狐が残りの御神酒をぺろりと舐め、満足げに口元を拭う。
「さて──私はそろそろ帰るとしようかね。結界も張ったし、灰狐も預けた。やるべきことは済んだのだし」
「もうお帰りになるので?」
「私はあまり鎮守を離れることができませんからね」
「そうですか……白狐殿、此度はありがとうございます。帰りには、どうかお気をつけて」
「ふふ。供物は相変わらず美味しかったよ。次に来る時にも期待しているからね」
白狐の体がふわりと浮いた。淡い金色の光を纏い、三本の尾が風に広がる。
──りん。
鈴の音が鳴った。白狐が空に駆け上がる。秋の空を白い光が走り、鈴の音を残して──遠く、赤坂の方角へ消えていったのだった。
§
白狐が去った後も、灰狐は狐塚の傍にちょこんと座ったまま秋の庭を眺めていた。
「灰狐殿。改めて──よろしく頼む」
「はい。微力ながら、務めさせていただきます」
灰狐は尾を一つ振り、狐塚に向き直った。
「さてさて、では私も新しい住処に入りましょうかね。お方様の世話係から解放されて、久方振りの骨休めです──あ、今のはご内密にお願いします」
そう、わざとらしく軽口を叩くと灰狐の体は薄くなり──狐塚に戻っていったのだろう、煙のように消えていった。
「お鈴、大丈夫か?」
「源一郎様……」
「うん」
お鈴は力が抜けたように庭に座り込み、祠と狐塚をじっと見つめていた。源一郎が隣に腰を下ろした。
「白狐様が私の中のモノを御覧になった時……何かが動いたのが分かりました。ここに──」
お鈴が胸に手を当てた。
「怖かったか」
「……怖かったです。でも──」
お鈴は首を振った。
「白狐様が悪い子じゃないと仰ってくださいました。その言葉で──安堵いたしました」
お鈴の目がわずかに潤んでいた。
「私の中にあるものが──悪いものではないと。ずっと不安だったのに。菖蒲様も、白狐様も、灰狐殿も。皆──悪い子じゃないと言ってくださった」
源一郎は黙ってお鈴の背に手を置いた。菖蒲が縁側からぽつりと言う。
「……きっと良い子。出てくるの、楽しみ」
お鈴が菖蒲を見て、小さく微笑んだ。薄い微笑みだったが──近頃、塞ぎ込みがちだったお鈴の、久しぶりに見る笑顔だった。
──秋風が萩の花を揺らしている。彼岸花の鮮烈な赤が、陽に照らされて燃えるように輝く。
渡辺家の庭の片隅に造られた小さな祠と赤い鳥居、そして狐塚。豊川稲荷の勧請は無事に終わり──新たな同居人を迎えた、秋の日の──穏やかな午後だった。




