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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
四章 京橋狐猫口寄騙

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第八十六話


 秋風が、本所の町を吹き抜けてゆく。


 長月。江戸の町から蝉の声が消え、代わりに虫の音が夜を支配するようになっていた。


 空が高くなった──。夏の間は大きく存在感を放っていた入道雲が、いつの間にか消え、澄み切った青空がどこまでも広がっている。陽射しは柔らかくなり、あの容赦のない暑さが嘘のように、風の中に涼やかな匂いが混じるようになった。


 本所の町では、軒先に干してあった簾が外され、格子戸が冬支度に向けて付け替えられ始めている。川端の船着場には房総半島から鯖を積んだ荷舟が着き、棒手振りたちが威勢のいい声を上げながら魚を担ぎ江戸市へと消えてゆく。


 ──渡辺家の庭にも、秋は確かに訪れていた。


 塀際に植えた萩の枝がたわみ、細かな紫の花をこぼしている。庭石の隙間から生えた彼岸花が、燃えるような赤で彩る。朝夕には露が降りるようになり、井戸の水も一層冷たさを増していた。


 その庭の北東の隅──鬼門の方角に、小さな祠が建っていた。


 檜造りの質素だがしっかりとした造りの社。朱塗りの柱に、銅板を葺いた屋根。前面には格子の扉がある。祠の手前には人が潜れるほどの赤い鳥居が一基、その脇には狛狐が一対。いずれも職人に頼んで作らせたもので、木の香りがまだほのかに残っていた。


 祠のさらに傍には、こんもりと土を盛った小さな塚──狐塚が拵えてある。稲荷信仰においては、狐塚は眷属たる狐の宿る場所とされる。祠が吒枳尼眞天の御座所ならば、狐塚はその眷属の棲家となる。


 豊川稲荷の分霊──吒枳尼眞天の御霊を勧請するための祠。


 今日が、その勧請の儀であった。


 §


 朝から、屋敷は慌ただしかった。


 おたかが台所で供物と直会の支度に追われているのだ。供物は油揚げ、稲荷寿司、赤飯、白餅、神酒、干菓子、季節の果物。それに直会の膳は別に用意しなければならない。煮物、焼き魚、吸い物、香の物──質素だが丁寧に整えた膳を、おたかとお鈴が手分けして拵えていた。


「坊ちゃん、直会でお出しするお酒はこれでよろしいのですか」


 おたかが白磁の徳利を掲げて見せた。


「ああ、それでいい。供物用と、直会用と、別にしてくれ」

「かしこまりました。御坊には燗をつけた方がよろしいでしょうか」

「そうだな。秋の風が入る。燗の方がいいだろう」


 勧請の儀には、赤坂の豊川稲荷から僧侶を招いている。豊川稲荷は曹洞宗の寺院であり、吒枳尼眞天を祀る以上、魂入れの儀は僧侶の手で執り行われることになる。僧侶が読経し、邪気を払い、場を清め、御神体を祠に収め、魂入れを行って初めて、祠は神域の末端となる。


 そして実のところ、儀式には続きがあって──本当の意味で祠を聖域とし、守護する領域と定めるのは神使である白狐の役目となっている。


 それが──勧請の儀だ。


 ──赤坂から本所まで、僧侶には遠路はるばる来て貰うことになる。儀式が済んだからといってすぐに帰って貰うわけにもいかない。それは武家の体面にも関わる。離れに一泊して貰い、翌朝に丁寧に送り出す──それまでは気を抜けない。


 離れの掃除も済ませてある。布団は干し直し、枕元には行灯と茶器を整えた。源一郎は指折り、すべきことを数えたのだった。


 §


 巳の刻を過ぎた頃、赤坂から僧侶が到着した。


 五十ほどの穏やかな顔をした僧だった。墨染めの衣に袈裟を掛け、経箱と法具を携えている。勧請の手続きの折に参詣所で応対してくれた僧の一人で、源一郎とは数度の面識がある。


「本日はお招きいただき、有難く存じます」

「こちらこそ、遠路お越しいただき恐れ入ります。粗末な屋敷ですが、ごゆるりとお過ごしください」


 源一郎は僧侶を座敷に通し、おたかが茶と干菓子を運んだ。旅の疲れを癒して貰ってから祠を見てもらう。僧侶は庭に出て祠を検分し、方角、造り、供物の配置、鳥居の丹塗り、狛狐の出来栄え、狐塚の土盛り──一つ一つに目を通しながら頷いた。


「なかなか良い祠ですな。檜の香りもまだ新しい。鬼門の方角に据えるのは、災厄除けとしても理に適っております。鳥居も狐塚まで用意しているとは……入念ですな」

「職人に頼んで丁寧に造らせました」

「結構、結構。では、支度が整いましたら始めましょうか」


 ──それからすぐに儀式が始まった。


 僧侶が祠の正面に立ち、法具を構える。その背後に、源一郎、おたか、お鈴らが控えた。三人とも軽く頭を垂れ、僧侶の背に向かって佇んでいる。


 僧侶が声を発した。


 般若心経──。


 低く、朗々とした読誦の声が秋の庭に響く。


 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄──。


 数珠を擦るジャラジャラという音が一定の律を刻み、線香の煙が風に流されて萩の花の間を縫ってゆく。般若心経の声明は祠の周囲の空気を清め、邪気を払い、場を整えていく。秋風が線香の煙を散らし、庭全体がほのかな白檀の香りに包まれた。


 般若心経が終わると、僧侶は大悲咒──大悲心陀羅尼を続けた。


 南無喝囉怛那、哆囉夜耶──。


 般若心経が知恵の経文であるならば、大悲咒は慈悲の呪。観音菩薩の大いなる慈悲の力をもって、あらゆる災厄を払い、浄め、衆生を守護せんとする陀羅尼だ。その旋律は般若心経よりも速く、力強く、どこか切迫した響きを持っているように感じられた。


 源一郎は頭を垂れたまま、読誦の声に耳を傾けていた。僧侶の声は確かな修行に裏打ちされた力を持っている。源一郎の目には、読誦のたびに祠の周囲の気が澄んでいくのが見えた。人の祈りの力──それは妖の力とは異なるが、器を清め、場を整える確かな力だ。


 お鈴も頭を垂れているが、その肩がわずかに震えていた。読誦の力が場を清めるにつれ、お鈴の中にある何かが反応しているのかもしれない。源一郎はそっとお鈴の背に手を添えた。お鈴の肩の震えが、少しだけ収まった。


 大悲咒が終わり、僧侶が最後の印を結んだ。小さな厨子から御神体──小さな鏡と神符を取り出し、祠の扉を開けて中に納める。鏡が祠の奥に収まった瞬間、かすかに空気が動いた。


 僧侶が指を三度鳴らし、それを二度繰り返す。


 パチパチパチ、パチパチパチと鋭い破裂音が庭の空間に広がっていった。


「──これにて、勧請の儀、つつがなく相済みました」


 僧侶が合掌した。源一郎も深く頭を下げる。


「ありがとうございました」

「日々の供養を怠りなきよう。水と塩は毎日替え、月の初めには御神酒をお上げなさることです」

「承知しました」


 僧侶による勧請の儀式は、これで終わりだ。


 §


 儀式を終え、直会の膳を出し、僧侶をもてなした。里芋と椎茸の煮物、秋鯖の塩焼き、信州から取り寄せた松茸の吸い物。与力の収入を考えれば奮発した膳だが、遠路来てくれた僧侶への礼として出し惜しみはしない。


「いやあ、これは見事な膳ですな。松茸の吸い物とは、有り難いことです」

「心ばかりのものですが」

「与力殿のお心遣い、有難く頂戴いたします」


 僧侶は美味そうに箸を進め、燗酒を二、三杯味わった。源一郎も相伴し、当たり障りのない世間話をしながら時を過ごした。豊川稲荷の近況、赤坂の町の賑わい、秋の彼岸の参詣客の話──僧侶は穏やかな人柄で、源一郎との会話も心地よく弾んだ。


 ──日が傾き始めた頃、僧侶の膳を下げ、おたかが風呂の支度をした。


「今宵は離れにお泊まりいただく支度を整えてございます。遠路のお疲れもございましょう。ごゆるりとお休みください」

「これはご丁寧に。有り難く、お言葉に甘えさせていただきます」


 僧侶は恐縮しつつも嬉しそうだった。その夜はそのまま離れに泊まって貰う。離れには布団を干し直した寝具、枕元に行灯と茶器、夜食用の握り飯と漬物まで用意してある──。おたかの仕事は完璧だった。

 

 翌朝──源一郎は僧侶と朝餉を共にし、玄関口まで見送る。これでようやく、一息つけそうだった。


 ──僧侶が去り、屋敷にいつもの静けさが戻る。


 秋の午前の陽射しが庭に降り注ぎ、祠の鳥居の丹塗りが鮮やかに映えている。狐塚の土盛りには朝露がまだ残り、供物の油揚げが祠の前に新たに供えられていた。源一郎が朝一番に替えたものだ。


 ──昼を過ぎた頃。


 源一郎は祠の前で腕を組み、庭を眺めていた。勧請の儀式は『半分』済んだ。器は整えられた。あとは白狐が来て、本当の意味での守護を敷くのを待つばかり。いつ来るとも告げられてはいなかったが──あまり日を置くことはないだろうという予感があった。


 お鈴は奥の部屋にいる。おたかは台所で昼餉の片付け。菖蒲は──いつものように、どこかにいるのだろう。気配はあるが姿は見せていない。


 秋風が萩の枝を揺らし、紫の花びらが散った。


 ──りん。


 かすかな、鈴の音が聞こえた。


 遠い。空の高いところから降りてくるような音。源一郎が顔を上げ、空を見る。


 ──りん、りん。


 鈴の音が近づいてくる。澄んだ音色。秋の空気を震わせ、屋敷の上を通り過ぎるように響く。


 源一郎の目に、それが映った。


 白い光の筋が、秋空を駆けている。尾を三本たなびかせ、鈴の音を響かせながら、空を翔ける白狐の姿。その周囲に金色の粒が散り、まるで流星のように光の尾を引いていた。


 白狐が弧を描いて降りてくる。屋敷の上空を一巡りし、鳥居に向かって──ふわり、と。


 そして、音もなく祠の前に降り立つ。白い毛並み。三本の尾。金色の瞳──子どもほどの大きさの白狐が澄ました顔で座っていた。


§


「白狐殿。お待ちしておりました」


 源一郎が頭を下げた。白狐も礼を返すと、今度は鼻をヒクヒクさせながら、祠をじっと見上げた。それから首をゆっくりと巡らせ、鳥居、狐狐、狐塚、庭全体を見渡す。僧侶が清めた場の気配を確かめているのだろう。


「なかなか良い具合に整っていますね」


 白狐が満足げに尾を揺らした。


「あの者もなかなかやるものだね。場が綺麗に清められている。器は申し分ない。ここまで整えてもらえれば、こちらの仕事もやりやすい」

「ありがとうございます。お忙しいところ、本所までわざわざ足を運んでいただき」

「なあに、約束だからね」


 白狐は油揚げに鼻を寄せ、一口齧った。赤い舌がちらりと覗き、尾がふわりと揺れる。


「ふむ。例の豆腐屋の油揚げだ。相変わらず、気が利くじゃないか、渡辺殿」

「白狐殿のお口に合うかと」

「合うも何も、格別だよ。──さて」


 白狐が油揚げを置き、居住まいを正した。先ほどまでの気安さが消え、静かな威厳が滲む。


「祠の具合を確かめさせておくれ。それから──早速結界を張ってしまおうか」

「結界、ですか」

「ああ。僧侶が器を清めてくれた。読経の力は馬鹿にできないものでね。人の祈りには人の祈りの力がある。器は人が整え、加護は私が与える──持ちつ持たれつさ。この場で、私の霊気で結界を張れば、この敷地は豊川稲荷の守護の下に入る」


 白狐が祠の前で目を閉じた。


 三本の尾が大きく広がる。白い毛並みが淡く光り始めた。


 何かを唱えている。人の言葉ではない。古い古い声。源一郎の目には、白狐の体から金色の粒子が溢れ、祠を包むように広がっていくのが見えた。


 光の粒子は祠を覆い、鳥居に絡みつき、狐塚を抱え込み──やがて、屋敷の敷地全体に薄い膜のように広がった。結界だ。白狐の霊気によって張られた、目には見えない守護の膜。


 残りの金色の粒が祠に吸い込まれ、やがて──祠の奥から、ほのかな温もりが立ち上る。それは火の熱さではなく、陽だまりのような温もり。祠に力が宿った証だった。


「──よし。これで済んだ」


 白狐が目を開けた。少し疲れた様子で、だが満足げに尾を揺らしている。


「これで、この祠は吒枳尼真天様の守護の下に入った。渡辺殿、日々の供物は欠かさぬようにね」

「承知いたした」

「祠周辺と敷地の守護は、私たちの領分。そして、屋敷の中は──」


 白狐がちらりと縁側を見た。


 いつの間にか、菖蒲が縁側に座っていた。足をぶらぶらさせて、白狐を見つめている。着物に黒い髪を垂らした、幼い子供の姿。


 白狐が菖蒲に向き直った。


「お初にお目に掛かるよ、座敷神殿。私たちを受け入れてくれて感謝するよ」


 菖蒲は小さく頷いた。白狐の金色の瞳が、菖蒲の本質を探るように細められた。


「あなたは──随分と古い家神のようだね。此処は長いのかい?」

「……内緒」


 菖蒲が少しだけ目を伏せて返すと、白狐はくつくつと笑った。


「いいよ、聞かないさ。お前さんが屋敷の中を守り、私が敷地を守る。住み分けは大事なことだ──よろしく頼むよ」

「……うん。よろしく。これから騒がしくなりそう」


 騒がしいのは嫌いじゃない──。その菖蒲の声に拒否感や抵抗感といった暗いものは感じられないのが、源一郎にとっては救いだった。



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