56話 契約と悪夢
「ここにいてね、実衣」
「待って。お姉ちゃん………!」
実衣はただ一人の姉に掃除用具入れに押し入れられた。半泣きになっているところに、姉の手のひらが押しつけられる。
「実衣。いい子だから、静かに」
「いやだよぉ………」
たった十日前、“ダンジョン”攻略に失敗したと報道があった。そんなものは、実衣は知らない。
ただ失敗しただけだと、思っていた。
つい先程までは。
「あははっ! 残りの子供どーこだっ!?」
身体中に目がある大きなヤモリが、次々に学校の子供を殺していった。逃げ惑い、殺されて。数少ない子供は思い思いの場所に隠れていた。
実衣はぎゅっと目を瞑った。
昔から泣き虫の自分が嫌いだ。
いつも姉に守られてばかりの自分が嫌いだ。
すぐそこで姉の悲鳴と、化け物の笑い声が聞こえた。
こんなときに、何もできない弱虫な自分が大嫌いだ。
「助けてぇ。誰かぁ………。助けてよぉ……」
『もう中学生なんだから。あまり泣いちゃダメだよ』
『あたしだって、泣きたくて泣いてるんじゃないもん』
言う事聞くから。お姉ちゃんのお菓子食べないから。言い訳しないから。
料理も洗濯も掃除もできるようになったよ。
もう、子供じゃないよ。
こんなに立派になったんだもん。パパもママも、その内帰ってくるよ。
だから。ねぇ、お姉ちゃん。あたしを一人にしないで。
「うわぁあああああああ!!!!!!」
実衣は大声で泣いた。
掃除用具入れから飛び出して、開いた窓から外に飛び出した。
死体の山をかき分けて、血の海を泳ぐ。
もう、自分だけだ。世界でたった自分だけが、あの化け物の前に立っている。
「駄目じゃないか」
後ろで声がした。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、ありもしない姉の助けを待った。
「君、どうして叫んで飛び出したんだい?」
実衣は必死で周囲を見回す。
何か、ないだろうか。何か、この状況を打開できるもの。
「馬鹿だよね、人間って。弱いくせに、助け合って。それが無駄なことって、いつになったら気づくのかね」
「っ」
姉は命をかけて、実衣を助けてくれた。それなのに、実衣は勝手に飛び出して命を投げ捨てようとしている。
「実衣の命じゃないの………」
「は?」
「命は、見えない糸で繋がってるの……。ママが、言ってた」
姉の母と、実衣の母は違う。
姉が小さい頃に、父が再婚した。そして生まれた年の離れた妹が実衣だ。
けれど、両親は突然消えた。
しばらくして、児童養護施設に入れられた。
施設の人は「借金が返せなくて蒸発した」と言った。どうやら、借金取りを誤魔化すために偽名を使っていたらしい。
実衣に関しては、戸籍すらなかった。
けれど、実衣も姉も二人が繋いだ命なんだ。
「糸は絶対に切れないの。どんなに細くても、何よりも硬いの」
「そんなわけないだろ。君が死んだら、糸は切れるよ」
実衣は足元に落ちていた包丁を拾った。近くには、子猫を抱いた少女が横たわっていた。
子猫は無垢な瞳で、真っ直ぐに実衣を見つめている。
「悪魔」
子猫の耳が動いた。
「あたしは、醜い悪魔」
「へえ? 弱虫な子供に見えるけど?」
実衣は首を横に振った。
この包丁は、おそらく少女が持って来たのだろう。施設の学校には給食を作るための設備がある。
包丁はそこで手に入れたに違いない。包丁で、立ち向かおうとしたのだ。逃げ惑う、実衣とは違って。
「今更、闘ってもお姉ちゃんは戻って来ないのに。あたしはこんなにも死にたくないって思うの」
姉の悲鳴が聞こえて、ようやく芽生えた「死にたくない」という感情。
もう一度、パパとママに会いたい。
ああ。きっと姉は怒るだろう。あたしはきっと、地獄に堕ちるんだろう。
傲慢で、ちっとも子供らしくない。今更、強さや残忍さを手に入れたって、もう何も、実衣には残っていないのに。
守るものなんて、何もないのに。
「ただの人間がボクを殺せるわけないだろう?」
実衣は走り出す。
化け物とは逆の方向。もう一度、建物の中へ。
「おいで!」
子猫が実衣の隣を並走する。真剣な顔で、しかしどこかおどけたようについて来る。
「いいよ! どうせ君が最後だし、痛ぶって殺してやる!」
『実衣は、私より運動神経がいいよね。将来はスポーツ選手かな?』
『お姉ちゃんは、あたしより頭が良いよね。将来は、そーりだいじん?』
ケラケラと二人で笑って、あり得ない空想物語を作るのが好きだった。
じわりと涙が込み上げる。
もう、何も残ってない。もう、何もいらない。
だけど、糸を切ってはいけない。決して、決して。
教室にあったチョークの入れ物を投げつける。
化け物は動きを止めた。
その隙に脇腹の目を一つ潰した。
化け物は全身に目がある。だから、死角がない。
化け物は全身に目がある。だから、隙がない。
化け物は全身に目がある。だから、いっぱい物を投げると全ての目が閉じる。
化け物は全身に目がある。だから、適当に切っても傷を作れる。
化け物は全身に目がある。だから、全身が急所だ。
子猫も小さな爪で、残忍に化け物の目を抉り取った。
子供は悪魔。平気で足元の虫を踏み殺す。平気で、友達を裏切る。平気で、親に嘘をつく。
「あたし達は、悪魔だね」
「みぃ」
子猫は鳴いた。
実衣は再び走り出す。
「クソガキぃ……! 殺す。メッタメタに引き裂いて、痛い痛いって泣かして殺す!!」
怒りで振り向いた化け物に尖った鉛筆を投げる。
昔からダーツは得意だ。施設の子供と、余ったお菓子を賭けてミニゲームをして遊んだ。
鉛筆は真っ直ぐ、化け物の目玉の一つを潰す。
「がぁあっ!!」
よろけた化け物にまずは子猫が飛びかかった。
頭に噛みついて、目を片っ端から潰す。
化け物の意識が子猫に向いた途端に、実衣は包丁で化け物をとにかく刺した。
「やめろ! 痛い! やめろ!」
段々と声が小さくなる。
「“ダンジョン”でも、こんなやられ方しなかった! 屈辱だ! スキルも持たないただのクソガキにこんなヘマして!」
哀れな声が響く。
「クソ、クソ、オレはもっと人を殺すはずだったんだ。もっと、痛ぶって痛ぶって、楽しむはずだったんだ」
もう動く力がないと判断して、実衣は残った目を潰し始めた。子猫もそれにならって、目を抉り始める。
「ふざけるな。憶えておけよ。二周目は絶対に殺す」
それだけ言うと、化け物は動かなくなった。
「あたしたちは、悪魔だね」
「みぃ」
子猫はそっと手を差し出した。
「けーやく、するぅ?」
ゾッとして、実衣は包丁を手から落とした。
「あたちぃ、ほんもののぉ、あくまぁ」
何が起きているんだ?
「契約したら、何ができるの?」
「それはぁ、けーやくの、ないよーしだぃ」
もう、何も残ってない。実衣は全てを失った。
家族も、居場所も、一欠片の善意さえも。
「それじゃ………あたしを、一人にしないで?」
「みぃ?」
子猫の悪魔は首を傾げた。
「ずっとずっと、あたしの友達」
「とーもだちぃ?」
「人も悪魔も変わらない。見えない糸で繋がるの」
実衣も作りたい。目には見えない、細くて硬い糸。
この小さな悪魔と繋がりたい。そして、ずっといたい。
一人は嫌だ。この悪魔は証人なんだ。実衣が強くなった証人なんだ。
「けーやくのだいしょー………」
「そんなの、目の前にあるじゃない」
「そっかぁ! みぃ、あたまいーねぇー」
子猫は化け物の死体を叩いた。
化け物の死体は一枚の紙へと変化する。
「赤いね」
「ちのぉ、いろだよぉー」
ゴクリと唾を飲み込んで無言で紙を手に取る。
「これ、どうするの?」
「ここぉにぃ、なまぇ」
実衣は立ち上がって教室の中へ入った。
引き出しから鉛筆を取り出す。そして、月島実衣と書いた。
「ほら、悪魔さんも」
「あたちぃ、なまぇないのぉ」
子猫は真っ直ぐに実衣を見つめた。名前をつけろと言っているのだ。
「いいの? あたしで」
「みぃ」
目を閉じて息を吸い込む。
鉄と憎しみと悲しみの匂いがする。これはきっと、悪夢なんだ。
「ナイトメア」
「みぃ?」
「これはきっと、覚めない悪夢なんだよ」
契約書に『ナイトメア』と書き込んだ。
子猫は赤黒い光に包まれて、姿を変える。
「いーんだねぇー?」
「ずっと、一緒だからね」
ナイトメアは目を細めた。
これは、覚めない悪夢の物語。




