海怪 ―漆―
甚吉は急ぐあまり下駄の鼻緒が切れて転びそうになった。直すのも面倒だと、下駄を脱いで抱えながら走る。
それなりに時を使ってしまったけれど、まだ間に合うだろうか。
急ぐ甚吉を両国の道行く人々は迷惑そうに通す。物見遊山の賑わう場に悲愴な甚吉だけがどうにもそぐわない。
必死で駆け抜けた。しかし、あの三人が茶屋で休んでいると言っても、この界隈に茶屋が一軒だけであるはずがない。どの茶屋なのだか見当もつかなかった。
それでも諦めるわけにもいかず、甚吉は一軒目の茶屋の前で立ち止まった。床几の並んだ席にあの三人はいない。夫婦、子連れ――どれも違う。
「なんだよ、あんた。お客じゃないね」
あどけない顔立ちの看板娘に顔をしかめられた。それでも甚吉は肩で息をし、手で軽く詫びながら走り去る。
ここではなかった。では、別の店か。それとも、もう早々に帰ってしまったのか。
甚吉は他の茶屋に向けて通りを急いだ。そうして三軒目を越えた時、絶望に打ちひしがれそうだった。けれど、マル公との約束がある。根性を見せろと叱られることだけは目に見えている。
愛らしいと見せかけてひどく口の悪いマル公だけれど、それでも甚吉を助けようとしてくれるのだ。天麩羅に目が眩んでいるだけだとしても、それだけではない。
だから、まだ諦めてはいけない。
甚吉はそのまま通りを駆けた。そうして人を搔き分け先へ先へと急ぐと、甚吉の思いが通じたのか、太一郎らしき男の背中があった。その隣にきよが着ていた格子縞が見える。甚吉はとっさに声を張り上げた。
「お待ちんなっておくんなせえ」
その声に太一郎が振り向いた。続いてきよが。よく見ると、太一郎の横には冨美もいる。冨美は甚吉を見てぎくりとした。やはり、マル公の言ったことは真実なのだろうとこの時に感じた。
「おのれ――せっかく見逃してやったというのに何をしに来た」
それは鋭い目で太一郎は甚吉を睨みつける。真実を何も知らない太一郎にとって、甚吉は盗人のままなのだ。それも仕方がない、と甚吉はぐ、と耐えた。きよは逆に落ち着いている。
甚吉は息を整えながら体を半分に折って頭を下げた。
「お呼び止めしてあいすいやせん」
丁寧に、精一杯下手に出ながら甚吉は言葉を選んだ。そうして、考える。
マル公はあんなに賢いのに、甚吉にこう言えと言葉を授けてはくれなかった。ただ、行ってこいと。
それはマル公が甚吉を試しているのであり、ある意味信じてくれているのだとも思う。
甚吉の心を、マル公なりに認めてくれているのではないかと。そんなことを言ったら、おめでてぇおつむりよな、とか悪態をつかれるばかりかもしれないけれど、甚吉はそう思いたかった。
そんな自分が今、どうしたらいいのか。それよりも、どうしたいのかを考えた。
そうして甚吉は膝をつき、怯えて太一郎の後ろに半身を隠した冨美に向かってささやいた。
「お嬢さん、やり方を間違っちゃいけやせん。お嬢さんの心まで傷がつきやす。おれは、せっかくうちの小屋に来ておくんなすったお客のお嬢さんにも笑って帰ってほしかったと思いやす」
嫌な思いをさせられたからといって、甚吉は冨美にひと泡吹かせてやりたいわけではない。ただ、そう、人を傷つければ自分に跳ね返る。それを冨美にもわかってほしいとは思うのだ。
そうした甚吉の考えを知るはずもなく、太一郎がこめかみに青筋を浮かせて冨美を背に庇った。
「何をわけのわからないことをッ。やはり番屋へ突き出してやろう」
けれど、それを止めたのはきよであった。太一郎の腕にたおやかな手を添え、そっとかぶりを振る。
「太一郎さん、この子は濡れ衣を着せられたんじゃありませんかねぇ。こんなにも優しい目をしている子ですよ。よぉく見てやってくださいな」
その言葉に冨美がギクリと固まった。それに気づいたのは多分甚吉だけだ。
きよが甚吉を庇ってくれた。気が荒い娘だというけれど、そんなことはない、優しい娘だ。
太一郎もきよの心の優しさに感極まった様子だった。うるりと眼を濡らしている。
「ああ、そうだね。私の目が曇っていたようだ」
そう言ったかと思うと、甚吉に軽く笑みを見せた。その変わりように甚吉の方が言葉を失う。
「お前はやっていないのだな。それならば、見世にもそう口添えしておいてやろう」
本気でそんなことを信じちゃいないのだ。甚吉がやっていないと思っていないくせに、きよの手前、そういうことにしておいてやろうと言う。
実際、櫛は手元に戻り、損害がなかったからこその寛容さであるのだが。
しかし、ここで機嫌を損ねても仕方がない。甚吉は盛大に感謝することにした。
「ありがとうごぜぇやす、若旦那さん」
そうして最後にちらりと冨美を見遣ると、冨美はなんとも言えず複雑な面持ちでうつむいた。甚吉の言葉が胸のどこかに残っていてくれると嬉しいけれど。
追い出された身である甚吉は、そこからすぐに見世物小屋に戻るわけにも行かず、ぷらぷらと歩いた。腹がぐうと鳴った。
――腹がまたぐうと鳴る。
けれど、甚吉は何も食わない。飯を買う銭がないわけではない。それくらいの持ち合わせはある。
食べないのは、マル公への義理立てである。
その日は両国橋ではなく柳橋を渡り、その手前に腰かけてじっとしていた。動くと腹が減る。弱い甚吉が荒くれに目をつけられてしまわないよう、提灯の明かりの届かない隅っこで息をひそめて夜を明かす。今までだってそんなにいい寝床にいたわけではないけれど、雑魚寝ほど安心できるものはないと今夜ばかりは思う。
本当にマル公の言う通りにことが運ぶのか、甚吉は不安で仕方がなかったけれど、他に信じられるものは何もない身の上である。甚吉はマル公を信じて夜を明かした。