海怪 ―捌―
翌日。
朝からずっと、甚吉は寝不足と空腹で鬱々としたまま、柳橋の欄干にもたれかかっていた。昼頃になると屋台の天麩羅の匂いが香ばしく漂ってくる。
天麩羅を買って食い、油で汚れた手を欄干になすりつけて去っていく人々をぼんやりと眺めるのみである。皆、そんな甚吉を横目に顔をしかめて過ぎ去るばかりで、誰も声などかけては来なかった。
自分は誰からもちっとも必要とされていない駄目な子供なんだと、甚吉はこのまま大川を流れていきたいような心持ちなった。
じわりと涙を浮かべていると、そんな甚吉に寅蔵座の長八の声が飛んだ。
「おい、甚ッ」
尻っ端折りで軽やかに駆けつけたかと思うと、長八は甚吉の頭を叩いた。
「おめぇってヤツはよぅ。まったく」
長八の目は呆れていたけれど、情を残してくれているのがわかった。その親しんだ顔を前に、弱りきった甚吉は涙が零れそうになる。
それをぐっと堪えながら言った。
「おれ、盗ってやせん」
「そういうことは頭に言え。んなことより帰るぞ」
ぐす、と甚吉が鼻を鳴らすと、また長八に小突かれた。痛くはない。
「あの海怪、あれからなんも食わねぇ。おめぇがそばにいねぇと飯を食わねぇって、真砂太夫がおめぇの居場所を教えてくれたけどな。ありゃどういうわけだ?」
そう――マル公が知恵を貸してくれたのだ。
これはもう一度甚吉が寅蔵座に戻るための策だ。
マル公は気を許した甚吉がいなければ物を食わないと真砂太夫に話し、甚吉の居場所を教え、マル公が飯を食わずに弱ったら使いを出してくれと頼んだのである。
寅蔵座と関りのない真砂太夫に頼んだのは、それでも甚吉の話をちゃんと信用してくれるからだ。
マル公は飯を食わずにしばらく堪えてやると言った。だから甚吉も食わずに待った。
甚吉は長八に向けてうなずいてみせる。
「長八兄さん、おれ、少しだけ寄り道してから戻りやす。すぐだから先に帰ってておくんなさい」
「急げよ。アレは稼ぎ頭だからな。なんかあったら大変だ」
「へい」
長八が走り去る背中を見送りながら、甚吉は橋のそばの屋台でぼそりとつぶやく。
「――天麩羅二串くんな」
「あいよッ」
●
一串はその場でハフハフと熱いまま頬張った。海老の身は歯ごたえがあり、空っぽの胃の腑に染み入る美味さであった。
マル公の分は手持ちの手ぬぐいにくるみ先を急ぐ。
げっぷり。息が油臭かった。
「ただいま戻りやした」
勢いよく頭を下げた甚吉に、寅蔵は軽く目を向けただけであった。そんなことよりも元気がなく、丸太のように生け簀を漂っているマル公を眺めてハラハラしている。
「本当になんとかできるんだろうな」
「へい」
甚吉は盥の中からイワシをつかみ、水面を叩くようにしてマル公を呼ぶ。
「ほら、餌だ。たんと食え」
その途端、マル公はヲヲッとひと際大きく鳴き、水音を立てて甚吉のもとへ泳いできた。そうして、嬉しそうにその手からイワシをひったくってほぼ丸飲みするようにむさぼった。
寅蔵たちはそんな様子をぽかんと眺めている。甚吉は皆の呆気にとられた顔に、どこか誇らしいような気分になった。
「食った。さっきまで見向きもしなかったくせに」
「甚吉にだけよっぽど懐いてるんだなぁ」
「コイツの世話はずっと甚吉がやってたきんだもんな。俺たちにわからねぇ絆もあるんだろうよ」
なんて、口々に言う。マル公はそんな台詞を鼻で笑っていそうだれど。
寅蔵は苦々しい面持ちで甚吉に告げるしかなかった。
「仕方ねぇな。先方も気が済んだのか、お前を許してやれって言ってきたことだ、もう一回うちに戻ってもいいぞ」
「へい、ありがとうございやすッ」
顔を輝かせて頭を下げると、一座の皆のあたたかな笑みが向いた。
濡れ衣は災難ではあったけれど、最後にはこの場所へ戻ることができたのだ。何も恨むことなくこれからも生きていける。
それだけで十分だった。じんわりと胸が熱くなる。
――熱いのは手ぬぐいで包んだ天麩羅が懐に入っているせいでもあった。
そして、甚吉はおずおずと言う。
「あの、コイツ、ちょっと今は気が立ってるみてぇなんで少しだけおれと二人にしてもらいてぇんですが」
マル公の扱いは甚吉が一番よくわかっていると知れた後なのだ。誰も異存はない。
「ああ、しっかり食わせろよ」
寅蔵にも念を押された。甚吉は頭を下げて出て行く皆を見送る。
そうしたら、生け簀のマル公が甚吉のいるすぐそばにぺし、とヒレをついた。
「カーッ、ひもじいったらねぇなぁ。オイラにここまでさせやがってコン畜生」
自分が言い出したことだけれど、思った以上に腹が減るのはつらかったのだろう。甚吉は申し訳ない気持ちになって懐の天麩羅を取り出した。
手ぬぐいをはらりと解く。
「ごめんな、マル先生。これ、お礼の天麩羅だ」
手ぬぐいが程よく油を吸い、いい具合になった海老の天麩羅。甚吉は串を引き抜いてマル公に差し出す。美味そうな匂いがぷんとした。
マル公の目は――星空のごとく輝いていた。
「こ、これが天麩羅。やっと、やっとだ――ッ」
かぷり。
イワシを食ったのと同じようにほぼ丸飲みである。マル公は喜びのためか震えていた。
あんなに食いたがっていた天麩羅だ。さぞや感激しているのだろうと甚吉も嬉しくなった。
けれど、マル公の第一声は――。
「あっちぃわ――ッ」
とのことである。
生魚しか食ってこなかったマル公が口の中に熱のあるものを入れたのは初めてのことであった。
天麩羅は冷めたらもったりとして食えたものではない。熱いうちに食うべきだと思ったのだが、裏目に出てしまったようだ。
バシャバシャと水の中を踊り狂っている。
「あああ――」
悪気はもちろんなかった。甚吉はそんなマル公を生け簀のそばで見守ることしかできない。
海の生き物が天麩羅なんか食べたがるのがそもそもの間違いなのではないかと少しだけ思ったけれど、恩ある相手にとてもそんなことは言えない。




