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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 稲荷

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30/70

稲荷 ―漆―

 仕方がないから帰る。

 しかし、甚吉はふと、マル公が稲荷寿司を食べたがっていたのを思い出した。


 稲荷寿司の屋台ならば近くにあったはずだ。ちょっとだけ立ち寄ってから帰ろうかと思った。帰り道から少しだけ逸れて、ふらりと道の隅っこを歩く。

 狐の絵が描かれた幟が見えた。あそこだ、と甚吉は稲荷寿司の屋台目がけて歩く。


 その時、文字入り提灯の下がった屋台の前で誰かに呼び止められた。


「――おい、稲荷寿司が食いたいのか?」

「え?」


 振り向けば、先ほどの奉公人が仏頂面で近づいてきた。帰る方向が同じだったのだろうか。甚吉はあまりいい気がしなかったけれど、その理由がわからないまま返事をした。


「へい、ひとつ買って帰ろうかと」


 すると、奉公人はフン、と鼻で笑った。


「それなら買ってやる。その代わり、あの猫を探すのを手伝え」


 身分も何もない甚吉だけれど、こう上から物を言われて嬉しいはずもない。要らないと答えたい。

 けれど、この男の目が恐ろしかった。とても冷たい目をしていたのだ。


「――猫は気まぐれだから捕まえられるかわかりやせん」


 ぼそ、とそう言った。そうしたら、明らかに気分を害した様子だった。チッと舌打ちが聞こえる。


「探すのか、探さないのか」


 強い口調に甚吉は言い返せなかった。この男の何がこんなにも怖いのか、甚吉自身にもよくわからない。顔なら寅蔵親方の方がずっと怖い。

 稲荷寿司屋の親父は、屋台の台の上に積んだ稲荷寿司の奥から二人をじっと見ていた。買うなら早くしてくれといったところだ。


 すると、少し離れた屋根の上にあの猫狐がいた。背中を向けている男はそれに気づかない。そこで猫狐は甚吉にしか聞こえない声を張り上げた。


「おい、小僧、そこな男は伊勢屋いせやの三番番頭萬助まんすけなる者ぞ。主の前では幇間ほうかんのごとく、主の見ておらぬところでは下々の者をいびる小物よ。しかしな、野心だけは人一倍。一番番頭を追い落とす策を練っておるのだ」


 あまりそちらに目を向けない方がいい。甚吉はあー、とかうー、とか呻きながら返答に困っているふうを装った。

 猫狐はさらに言う。


「先ほども稲荷社で熱心に祈っておっただろう。それで知ったのだが、このワタシを使って一番番頭を失脚させようとしておるッ。一番番頭は猫が大の苦手なのだ。ワタシに毒を食わせてその亡骸を主に見せ、一番番頭の仕業と訴えようとしておるのだッ」


 マル公が大店にいい顔をしないわけが、今になってよくわかった。

 この男はよくそんなことを神仏に祈ったものだ。成功するように手を貸してくれると思うのか。呆れてものが言えない。


 それから、この猫はただの猫ではない。毒の入った餌など食べない。

 その上、悪だくみまで知られているとは思っていないようだが、嫌われている自覚はあるのだろう。とにかく捕まえられないことには他の手も使えないと、猫が慣れている甚吉に目をつけたのか。

 そこまでわかったなら、甚吉は素早く断って逃げるのみだ。


「あの、すいやせん。おれ、そろそろ帰らねぇと叱られるんで」


 ぺこりと頭を下げ、稲荷寿司の屋台から遠ざかる。親父の目が、なんだよ買わねぇのかよとしつこく絡むけれど、仕方がない。稲荷寿司はまた今度だ。

 今は早く帰ってマル公に話を聞いてほしかった。



    ●



 帰りは振り返らずに全力で走った。息が上がり、マル公の生け簀の前に辿り着いた時には何も喋れない状態で、ただ生け簀の前の板敷にごろりと仰向けになって転がった。


「おいおいおいおい、何やってんだ。ンなに慌てて、犬のクソでも踏みやがったのかぁ?」


 いつもの調子のマル公の声が聞こえた時、甚吉はやっと戻ってこれたのだと実感した。パシャパシャと水音を立てながら泳いでくると、甚吉の額にてん、とヒレをついた。ヒレが生ぬるい。


「オイコラ、甚、おめぇまた厄介事に首突っ込みやがったな」


 まだ何も言っていないのに呆れられた。しかし、厄介事に首を突っ込んだ覚えはない。厄介事が甚吉の周りに降って湧くだけのことだ。


「マ、マル先生――伊勢屋の――番頭が――ッ」


 マル公のヒレの下から甚吉が声を絞り出すと、マル公は、んあ? とつぶやいてヒレを退けた。


「伊勢屋たぁどの伊勢屋だ?」

「し、知らねぇ」

「まあいい、続けな」


 ふぅ、と息をつき、マル公は甚吉の話の続きを待つ。


「伊勢屋はあの稲荷の使いの猫を気に入ったお嬢さんのところだ。その伊勢屋の番頭が、自分より格上の番頭を陥れるためにあの猫に毒を盛ろうとしてるみてぇで――って、あの猫が言ってた」

「カーッ、これだから大店は面倒くせぇなッ」


 と、マル公はまるで自分が奉公でもしていたかのようなことを言うけれど、そんなわけはない。奉公勤めのつらさなど知らない獣のはずである。


「しっかし、あのコンコンチキが毒なんざ食うわきゃねぇしな。そんな企みは頓挫するだろうよ」


 それはそうなのだけれど――


「そうなんだけど、その番頭、おれに猫が懐いてると思って、おれに猫を捕まえろって言ったんだ。おれは猫から事情を聞けたから一目散に逃げてきたんだけど」


 甚吉がそこまで言うと、マル公はいつになく難しい顔をした。難しい顔と言っても、もとの作りがまん丸いのだから、そこまでの緊張感は生まれないのだが。

 そのまん丸い顔が近づく。


「オイ、つけられちゃいねぇだろうな?」

「え?」

「おめぇはいつもツメがあめぇからな」

「そ、そんなこと――」


 全力で走った。あの陰気な番頭が甚吉の全力についてこれたとは思わない。多分、まけたと思う。


「だ、大丈夫だって」


 しかし、マル公の目は疑わしげであった。

 もう少し信用してくれてもいいのではないかと思うけれど。マル公は心配性だ。


「どうにも嫌ーな予感がしやがるな」


 などと縁起でもないひと言をくれた。


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