稲荷 ―捌―
その晩、甚吉は照の様子を見に行った。
何せ稲荷神へ願いが届くまで、まだまだかかりそうなのである。そのせいで照が長く患ってしまうのかと思うと、申し訳ない気持ちになったのだ。
小声で断ってから小屋の薦をぺらりとめくると、照は横になっていた。薄暗い中、顔色まではわからないけれど、眠っているのなら起こすまでもない。そっとしておこうとしたが、照はどうやら起きていたらしくか細い声を上げた。
「甚吉」
「あ、お照さん、起こしちまったかい?」
すると、照は体を起こさないままつぶやいた。
「あたしなら少しずつよくなってるから。あんたもあんまり気にしないでいいよ」
「うん――」
そうは言うけれど、祈願の甲斐がない状況なのだ。医者に診てもらうでもなく、神仏が力を貸してくれるでもないのでは、照自身の体力が頼りだ。
照は甚吉が気にするから強がるのかもしれない。柔らかな声音で言った。
「あんたが心配してくれたことが本当は嬉しかったよ。ありがとうね」
何も力になれていない甚吉なのに、照はありがとうと言ってくれた。
「そんなこと――」
ぽつりとつぶやいて自分の胸を押さえる。ギュッと締めつけられるように心の臓が疼いたのだ。
ありがとう、と言ってもらえた。その言葉がほしかったわけではないけれど、甚吉の心配が迷惑ではないのだと、それを知れただけで嬉しかった。
じわりと目に涙が浮かぶ。
やっぱり、照のために何かがしたい。力になりたい。
今の甚吉にできるのは、あの猫狐が本来の姿に戻る手伝いをすることくらいだ。
そうしたら、あの萬助という番頭も悪だくみができなくなるのではないのか。肝心の猫がいないのだから。
甚吉は照のところから引くと、もう一度だけマル公に相談してから寝ようと思った。マル公は安眠妨害だと怒るだろうか。
蒸し暑く息苦しさを感じるような日中とは違い、少し涼しい風も吹く晩、ふと、小屋の前にあるはずのないところに明かりがある。
「うん?」
思わず首を傾げたが、そこには屋号入りの提灯を手にした萬助がいた。提灯に下から照らされた顔は、それはもう幽霊のように恐ろしかった。
「ヒッ」
大きな悲鳴は出なかった。むしろ、声が出ない。怨念の塊のような男が甚吉ににじり寄る。
何故ここがわかったのだろう。
あの時、甚吉は全力で駆け抜けた。追いつかれた感じはなかったというのに。
すると、萬助はフッと笑った。
「紙入れを掏った子供が逃げたから、見失う前に逃げた方角を見たいと言って近くの茶屋の二階に上がらせてもらい、高みからお前が消えた方角を確かめた」
腐っても大店の番頭。嫌な知恵が働く。
「あの後、猫はお嬢様のところへ戻ってこなかった。早くあの猫を捕まえろ。そうしたら、お前にも褒美をやる。もし断ろうものならば――」
萬助の下駄がジリジリと前に進む。
逃げなければという思いと、逃げたらどうなるのかという思いとの板挟みになった。背後の小屋にはマル公がいる。自分が逃げたせいでマル公に悪戯されたらどうしようかと考えると動けない。
「あ、あ、あの、あの――ッ」
時を稼ぐために何か言わなければと思うが、何も浮かんでこない。
今、とりあえず大声を出せば仲間たちが起きてきて助けてくれるだろうか。しかし、萬助の悪だくみは猫狐が教えてくれただけで、これといった証拠もない。萬助はとぼければそれで済む。
この場をどう逃れたらいいのだ。
全身が汗ばむ。すると、萬助の後ろに白い毛並みがぼんやりと浮かんだ。
そこに、いる。
「しつこい男よな」
そんなことを呆れた様子でつぶやくから、甚吉はついそちらに目を向けてしまった。萬助は蛇のように鋭い目をして振り返る。猫狐は素早く隠れたけれど、どうやらまだ近くにはいるようだ。
「さて、どうしたものやら――」
猫狐の声がする。姿は見えない。
「おぬしがさっさとこの紐を切っておれば、このようなまどろっこしい事態にはならなかったというのに」
今、そういう小言を言っている場合なのか。
「さあ、猫を連れてくるんだッ」
と、萬助は甚吉の方へまた踏み込む。萬助に猫の声は聞こえないから、痺れを切らしたような声であった。
甚吉は何かを言わないとと考え、そうしてやっとのことで言った。
「おおおおお、おれより飼い主のお嬢様に懐いていなさるはずッ。猫ならそのうちお嬢様のもとに帰りやすッ」
おかしなところはないはず。
自分でもここでよく言えたと褒めてやりたいくらいだ。
けれど、萬助は納得しなかった。薄暗い目を陰気に向けている。
「お嬢様にはそれほど懐いてはおらん」
萬助は、案外猫の気持ちをよくわかっているようだ。そこが皮肉である。
だから戻ってこない可能性を考えて探している。しかし、お嬢様のために猫を探しているわけではないのが厄介だ。
そこで甚吉は、今度こそちゃんと思いついた。
――よし、それでいこう、と自分の考えを自分で褒めた。
「どうしてそんなに躍起になって猫を探すんで? まるでお前様がお嬢様以上に猫に用があるみてぇですが」
思いきって言ってやった。
甚吉は萬助の悪事を知っている。萬助が悪事を見通され、疚しくなって逃げるのではないかと思ったのだ。
――ところが。
「この愚か者がッ。要らぬことを口走る出ないッ」
と、猫狐が叱責する声が飛んだ。
なんだろうと思ったら、次の瞬間に萬助の顔色が変わった。
「お前のような小物が余計なことを考えるな。協力せぬばかりかぐだぐだと――少しばかり懲らしめてやろう」
それは冷たい声で告げられた。狼狽えたのは萬助ではなく甚吉の方だ。
萬助が手を伸ばしてくる。恐ろしくて動けなかった。
襟をつかまれ、継のあった部分がビッと音を立てて破れた。
殴られる、と甚吉が覚悟を決めた時、振りかぶられた手が甚吉にめり込む前に白い塊が萬助の手に噛みついた。それは、猫狐である。
フーッと毛を逆立て、爪と牙とを萬助の手に突き立てる。
「うわッ」
萬助は驚いて提灯を持つ手を振った。けれど、それでも猫狐は離れなかった。
こうしていると、どこからどう見ても猫である――と、今はそんなことはいい。
慌てた萬助が振るった提灯が手から離れ、薦掛けの小屋にぶつかった。それはそれは燃えやすい。
甚吉とて、この江戸に住む以上、火事なんぞ珍しくはない。けれど、こうも間近で自分の居場所が燃えたのは初めてのことである。あまりのことに呆然としてしまった。
けれど、すぐにハッと気づいた。
「マ、マル公ッ」
そう、この薦掛けの裏にはマル公の生け簀がある。甚吉は慌ててその中へと駆け込んだ。




