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海怪  作者: 五十鈴 りく
❖ 饅頭

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21/70

饅頭 ―拾―

「マル先生――ッ」


 戻って早々、甚吉はマル公に先ほどの出来事をまくしたてた。

 マル公はぷかりと浮きながら、ほほぅ、とひと声。


 甚吉はマル公の言葉を待ったけれど、マル公は水の上を揺蕩たゆたっている。今はそういう気分だとでも言いたいのだろうか。

 甚吉の方が焦れてつぶやく。


「――嘉助さんのやり方があめぇって、マル先生はそう思うかい?」


 マル公はいつも手厳しいのだ。

 嘉助はことをおおやけにせず粂太を返したのだから、巽屋の汚名が返上できないのも仕方のないことだとマル公は思うのかもしれない。マル公は、下手な情けは嫌いなのだ。


 けれど、それを言うなら甚吉だって嘉助とそう変わらない。甚吉も十分に甘いのだ。

 マル公はくるりと体を横に回転させ、そこからひと漕ぎでまっすぐ甚吉のもとへ泳いできた。そうして、板敷の縁にてん、と片ヒレを突く。


あめぇもあめぇ。大甘おおあまよぅ」


 やっぱりか。喉に物が詰まったように苦しくなって甚吉が押し黙ると、それでもマル公はふぃい、とひとつ息をついた。


「ま、あめぇケドよ。世の中、厳しいヤツとあめぇヤツがいて、それで帳尻が合ってんのさ」


 などと、訳知り顔で首をゆるく振ってみせる。やれやれ、とでもいったところか。けれど、マル公がそう理解を示すことが意外でもあった。また、カーッと怒鳴られるかと甚吉は思っていたのだ。


「マル先生はそういうの嫌いじゃねぇのか?」


 ぽつりと零すと、マル公は首を真横に傾けて甚吉を見た。


「ハァン? 裏表と使い分けやがる半ちく野郎ならきれぇだけどな、それを突き通すヤツは別にきれぇじゃねぇよ」


 そんなものなのか。甚吉もマル公と同じように首を傾けながら訊ねる。


「なあ、マル先生。笹屋の名前を出さずに巽屋の評判を上げる方法はないもんかなぁ?」


 そう都合のいい話があるかと突っぱねられるのを承知で言った。けれど、マル公はクツクツと勿体つけて笑った。


「嘉助が地道に商いを続けてりゃ、いずれ汚名を返上していくだろうけどよ――まあ、手っ取り早い手がねぇわけでもねぇ」

「え? そ、それは――」


 乗り出した甚吉に、マル公は身をひるがえしてぱしゃんと水飛沫をかけた。そして――


「まんじゅうひとつで教えてやる」


 ここへ来てまだ言う。けれど、背に腹はかえられない。


「わ、わかったよ。あとで買ってくるから教えてくれ」

「ま、いいだろ」


 ぼにょぼにょぼにょ。


 マル公の入れ知恵は、まあなるほどと思わなくもないことなのだけれど、甚吉には荷が重い。できるだろうか。

 不安を顔に出したせいか、マル公がつぶらな眼でキッと睨んだ。


「そんくらいやり遂げろ。男だろッ」

「へ、へい」


 今日一日、仕事をこなしながら考えよう。そうして、明日、マル公の言う通りに事が運ぶように頑張らなければ。

 すべてを丸く収めることができるのは自分だけなのだ。そう、甚吉は自分自身に言い聞かせた。



     ●



 翌朝になって、甚吉は目覚めてすぐに顔を洗い、房楊枝で丹念に歯を磨いた。そうして、パシンと自分の両頬を叩いて気合を入れた。仕事を始める前に真砂太夫に会いに行く。


 真砂太夫は早起きで、人気のない朝に芸の稽古を行うことが多い。きっといるだろうと思い、甚吉は新兵衛座の裏手に回った。

 やはりそこに、涼やかな水を象りながらも華やかなひとえを身にまとった真砂太夫がいた。手の扇子をはらりはらりと翻して舞う。


 ――そんな真砂太夫はこの世のものとも思えぬほどに美しかったけれど、見とれている場合ではない。甚吉は首を振って、そうして真砂太夫に声をかけた。


「真砂太夫、おはようございやす」


 稽古の邪魔をしてしまうのは心苦しかったけれど、真砂太夫は嫌な顔をせずに爽やかな笑みを向けてくれた。


「ああ、おはよう、甚吉」


 朝露を残した花のような、そんな爽やかさである。誰もが見とれる、そんな存在であるからこそ、マル公は言ったのだ。真砂太夫を頼れと。


「あ、あの――」


 もじもじと指を絡ませながら甚吉は言葉を探した。昨晩、寝る前には頭を整理しておいたはずなのに、真砂太夫の笑顔を見た途端に言葉はどこかへ羽ばたいて行ってしまった。

 そんな甚吉の心を知ってか知らずか、真砂太夫は甚吉のそばへ歩み寄って甚吉の顔を覗き込む。


「うん、どうしたんだい?」


 肌理きめの細やかな肌が目の前にあって、甚吉は焦って体ごと引きながらなんとかして口を動かした。


「そそそ、そう、その、実は真砂太夫に相談してぇことがございやしてッ」

「相談ってぇのは、甚吉のことかい?」


 と、真砂太夫は首をかしげる。甚吉はかぶりを振った。


「ちげぇやす。実は、この間の針が入ったまんじゅうのことでやす」

「ああ、あの店のかい」


 真砂太夫の笑顔が僅かに陰る。甚吉は口早に、包み隠さず笹屋と巽屋のことを真砂太夫に語った。

 真砂太夫はじっと、緊張して噛んでしまったりと聞き取りにくい甚吉の話を辛抱強く聞いてくれた。ほぼ話し終えると、真砂太夫はうなずいた。


「なるほどね」


 甚吉は真砂太夫の美しい顔に向け、おずおずと訊ねる。


「笹屋の名前を出さずに巽屋の嘉助さんを助けてぇなんて、そんなこと、無理だと思いやすか?」


 時が経てば。

 いずれ皆が忘れる。


 それしか手立てはないものだろうか。少なくとも甚吉には嘉助の救いにはなれない。

 けれど、真砂太夫なら――そう、マル公が言ったのだ。甚吉は神仏を崇めるような目で真砂太夫を見つめた。真砂太夫は、フッと軽やかに笑う。


「甚吉がそんなに気にするなら、ひとつ試してみようかね。一緒に行くかい?」

「あ、ありがとうございやすッ」


 甚吉は頭を地面にぶつけそうな勢いで頭を下げた。そんな甚吉の肩を繊手がトン、と叩く。


「さ、行くよ」

「へいッ」



 真砂太夫の後を影のようにつき従い、甚吉は広小路を歩いた。やはり、すれ違う人々が真砂太夫に目を向けてはささやき合う。


「あれ、水芸人の真砂太夫じゃあないか?」

「ああ、そうだ。見事な芸の冴えを俺もこの目で見たぞ」

「歩いてるだけで絵になるたぁこのことだな」


 なとどいった声が聞こえる。真砂太夫当人も聞こえているだろうけれど、あえて目を向けず、凛と前を向いたまま歩み続ける。朝の人混みが、不思議と真砂太夫を避けて道が開ける。甚吉はなんともこそばゆい気分であった。


 そうして、真砂太夫は巽屋の屋台の前でぴたりと足を止めると、ようやく店の支度を終えたばかりの嘉助に向かって嫣然と微笑み、白い指先を突き出してまんじゅうを指した。


「このまんじゅう、ずいぶんと可愛くなったじゃないか。ふたつおくれでないかい?」


 嘉助は真砂太夫がどういう人であるのか知らないのだろう。ただ単にまんじゅうを褒められたという程度の嬉しさで、あいよ、と答えた。むしろ、見物人たちの方がざわめいている。


「ふたつだね。八文だよ」


 真砂太夫は袖から穴あき銭を取り出すと、それを二枚、シャランと音を立てて嘉助に手渡した。嘉助はその銭を握り締めると、真砂太夫にうなずいた。


「毎度ありッ。好きなの持ってってくんな」


 にこやかに接客する嘉助は、やはり真砂太夫をただの『別嬪さん』くらいに捉えている様子だった。真砂太夫は特に気にしたふうでもなく、手前の生意気なマル公の顔をしたまんじゅうをふたつつまむ。そうして、そのひとつを甚吉に差し出した。


「ほら、これは甚吉のだよ」

「あ、あり、ありがとうございやす」


 甚吉がまんじゅうを両手で押し頂くと、真砂太夫は紅が上品に塗られた唇を開き、ちぎったまんじゅうを店先で食べたのだった。おお、と見物していた人々が騒ぐ。真砂太夫はそうした人々に見せつけるようにして、舞台の上のように演じていた。


「ここのまんじゅうは美味しいね。あたしはここのが一番好きさ。ねえ、甚吉もそう思うだろ?」

「へ、へいッ」


 甚吉もまんじゅうにかぶりついた。マル公に似てきたまんじゅうだけに、食いついたら叱られそうな、何か罪の意識もつきまとうけれど。


「う、うめぇです。すいやせん、まんじゅうもうひとつくだせぇッ」


 と、甚吉はまんじゅうを呑み込まないうちに嘉助に四文を差し出す。嘉助は苦笑しながらそれを受け取った。


「毎度あり」


 甚吉はそのひとつを袖の中へ入れた。これはマル公の分――借りた知恵の報酬である。


「――おい、真砂太夫はこの店を贔屓にしてるみてぇじゃねぇか」

「ここって、針が入ってるとか噂になってなかったか?」

「いや、そんな危ねぇもんなら真砂太夫は食わねぇだろ。平気そうじゃねぇか」

「それにしてもいい女だねぇ。例え針が入ってようが、真砂太夫と同じもんが食えるんなら嬉しいじゃねぇか。俺もひとつ――いや、みっつ買うぜッ」


 そんなことを言っていた男に、甚吉は突き飛ばされてまんじゅうを喉を詰めそうになった。道の隅っこで胸を叩いて詰まりかけたまんじゅうを通してひと息つくと、甚吉が振り向いた時には巽屋の屋台の前に人だかりができていた。


「押すなってんだ、このすっとこどっこいッ」

「やかましいッ。おい、まんじゅうくれッ」


 男どもが生意気な顔をそろえたまんじゅうに群がっている。なんとも奇妙な光景であった。いつの間にか、当の真砂太夫が甚吉のそばにいた。


「さ、これでいいかい? 帰るよ」


 フフ、と人差し指で唇に触れる。粋な笑顔がそこにある。

 誰もが惚れ直すような、鮮やかさ――

 マル公の入れ知恵には、まんじゅうひとつ以上の値打ちがきっとあった。


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