9.不完全性定理
(おのれの正しさは証明することができない)
「犯行動機――、真相究明のために避けては通れぬ重要事項です。
如月君は、この事件における犯行の動機を三つの可能性に分類しました。その時の彼は、証明のための単なる『場合分け』だよ、とすましていましたね。その三つの可能性とは、『無差別殺人』と、『竜ヶ水を狙った犯行』、そして『竜ヶ水以外の人物を狙った犯行』です。一方で、『竜ヶ水の自殺説』は端から放棄しておいても、まず問題はなかろうと思われます。
最初に、無差別殺人の可能性から考えてみましょう。ただし、ここでは事件が単独犯であることを前提とさせていただきます。複数犯で無差別殺人を企てるなんて怖いことは、あんまり考えたくないですしね。
すると犯人は、六つのカップ麺の中でただ一つ『焼きそば』だけを選んで毒を仕込んだことになります。理由は、被害者が竜ヶ水一人しかいなかったからです。さらに、犯人は『焼きそば』に毒が仕込まれていることも知っています。なにしろ、入れたのが自分自身なのですからね。故に、犯人の候補から、竜ヶ水と私――影待の二人が外されます。なぜなら、毒の仕込み先が『焼きそば』であることを知っている犯人が、わざわざ自分が食べるカップ麺にそれを選ぶはずがないからです。ただ、無差別殺人の可能性に関する議論は、ここいらで一旦止めておきましょう。切りがないですしね。実は、後から御覧に入れる如月メモの第三十四項に、この無差別殺人の可能性は、明らかに矛盾を来たしているのです。
次に、最もありそうな可能性である、竜ヶ水を狙った犯行について考えてみましょう。この場合、動機を持たないのが如月君と青井岳さんの二人であり、それ以外の人物、私、教授、枕崎先輩と赤瀬君には、何らかの動機が存在します。さらに、この場合の最大の謎は、いかにして犯人は竜ヶ水に毒を飲ませたか、の一言に尽きるでしょう。というのも、『焼きそば』のカップ麺に毒を仕込む機会ならいくらでもありましたけど、肝心のそのカップ麺を竜ヶ水が選択してくれなければ、すべての努力が水泡と化すのですからね。
さて、竜ヶ水を狙った犯人が、やはり単独犯であることを仮定しておきましょうね、『焼きそば』のカップ麺に毒を仕込んだ時刻は、果たしていつだったのでしょう?
考えられる答えは二つしかありません。一つは、竜ヶ水が『焼きそば』を手にする以前に、すなわち『焼きそば』を選ぶという確信を持たぬままに、犯人が毒を仕込んだ可能性。そしてもう一つが、竜ヶ水が『焼きそば』を選んだ後で、あるいは竜ヶ水が将来『焼きそば』を選ぶという何らかの確信を得てから、犯人が毒を仕込んだ可能性――いわば、『後出しじゃんけん』を実行した可能性です」
「後出しじゃんけんねえ。そんなことができるのかな?」
「そうですよね。竜ヶ水が『焼きそば』を私から取り上げるというあの予測不能かつ偶発的な行為の後で、意図的に毒をカップ麺の中に仕込めるとしたら、竜ヶ水が使ったポットのお湯くらいなものですが、ポットのお湯なら他の人も使っているので、その実現性には少なからず無理があります。
それでは。竜ヶ水が私から『焼きそば』を取り上げる前から、竜ヶ水が『焼きそば』を最終的に手にすることを、狡猾な犯人は超人的な洞察力によって確信していた、なんて漫画じみた奇跡は考えられるでしょうか。
例えばですよ、枕崎先輩が仮に犯人だとしてみますね。たしかに彼は、『カレーラーメン』を取り上げて、『醤油ラーメン』を強引に竜ヶ水に手渡すことまではできました。でも、その後で、私から竜ヶ水が『焼きそば』を取り上げるなんて、とてもじゃないけど、知るすべはありません。同様に、私を含めたそれ以外の人たちにとっても、突発的かつ気まぐれなあの竜ヶ水の行動は、予測不能なわけです。
ということで、犯人が後出しじゃんけんをできた可能性は、ことごとく全面否定されてしまうのです。と同時に、竜ヶ水が『焼きそば』を手にする以前に、犯人が竜ヶ水を狙って『焼きそば』に毒を仕込んだ可能性もあり得ないことが、同じ理由で結論づけられてしまいます」
「ふふん。すると、残された可能性は、竜ヶ水以外の人物を狙った犯行、ということになってしまうじゃないか。あんまり意外過ぎて、僕には想像すらできなかったけど、まさか、そんなことがあるのかねえ?」
「犯人の真の狙いは竜ヶ水以外の人物だった――、ということですよね。だとしたら、犯人の照準はいったい誰だったのでしょう?」
「今回の事件が竜ヶ水以外の人物を狙った犯行であったとしたら、僕には思い当たる推理が一つある。あんまりいいたくはなかったけどね。それは、犯人の照準が千穂君――、君だったという可能性だよ!」
不意を突かれて、影待千穂の両眼が丸くなった。
「犯人の狙いが私ですって。では、犯人は誰になるのですか?」
「青井岳君だよ――。動機は竜ヶ水をめぐる恋敵である君を亡きものにすることさ」
「そんなことで彼女が人殺しをするなんてとても信じられませんわ。でも、ひとまず教授のご意見を伺いましょう」
「僕の推理は、さっき君がさりげなく指摘した、混ぜることによって毒物と化す物質の存在に起因している。
未知のアルカロイド系化合物AとB、さらに加えて、化学物質PとQがあったと仮定しよう。A、B、P、Qのそれぞれは単独では無害で、アルカロイド系物質A、Bには化学物質P、Qを混ぜることができる。でも、AにPを混ぜると、途端に猛毒物質となり、また、BにQを混ぜても、同じく猛毒物質と化す。一方で、AにQを混ぜても無害で、BにPを混ぜても無害という、極めて特徴的な性質を持っているんだ」
それを聞いた千穂がくすくす笑い出した。
「随分と都合のいい物質なんですね」
「まあ、黙って聞きたまえ。その魔法の物質を手に入れた青井岳君が、千穂君のことを殺そうと密かに機会をうかがっていたとする。
青井岳君は、六つのカップ麺の中から、あらかじめ、『焼きそば』に化合物Aを、『醤油ラーメン』と『担担麺』には化合物Bを仕込んでおいた。この場合、竜ヶ水が真っ先に『カレーラーメン』を持っていくであろうことは予測できるから、愛しの竜ヶ水に毒入りカップ麺が渡ってしまう心配は無用だ。次に、枕崎君が、化合物Bが入った『醤油ラーメン』と持って行ったけど、まだ、化合物Aを仕込んだ『焼きそば』と化合物Bを仕込んだ『担担麺』が残っている。そこで青井岳君は、無害なカップ麺の『きつねうどん』と『天ぷらそば』をさっさと取ってしまう。その片方を赤瀬君に手渡して、もう一方を自分で確保することで、『焼きそば』と『担担麺』のどちらかを千穂君に持っていかせられるという寸法だ。こうして千穂君は、化合物A入りの『焼きそば』を手にすることとなった。
さらに、青井岳君は事前に、化学物質Pをポットのお湯に、そして、化学物質Qをやかんの中に、それぞれ仕込んでいた。あとは、化合物Aが入った『焼きそば』を持っている千穂君に化学物質Pが入ったポットのお湯を使わせればよかったわけだが、ここで予期せぬ事態が起こってしまう。
それは、枕崎君と竜ヶ水、それに千穂君との間で、カップ麺が取り替えられてしまったことだ。
慌てた青井岳君は、千穂君が化合物B入りの『醤油ラーメン』を手にしていることを確認すると、今度は千穂君に化学物質Qを投与したやかんのお湯を使わせるよう、作戦を急きょ変更した。そこで、ポットのお湯を千穂君に使わせないようにポットを占拠して、千穂君を除いた適当な人のカップ麺に順次ポットのお湯を注いでいき、ついにポットのお湯を全部使い切った。あとは、千穂君がやかんの化学物質Qが入ったお湯を『醤油ラーメン』に入れて苦しんで死んでしまえば、すべてが上手くいく。
ところが、千穂君を殺すことに必死になっていた青井岳君は、最愛の竜ヶ水が化合物A入りの『焼きそば』を手にして、しかも、化学物質Pが入ったポットのお湯を使ったことをうっかり見過ごしてしまった。僕が思うに、勝手気ままなる七人の行動と、めまぐるしく交差する四種類の化学物質の行き先を正確に掌握するのは、ただでさえ困難極まることなのだから、極限の緊張状態の中、この失態は、ある意味、致し方なかったかもしれない。その証拠にさ、竜ヶ水が倒れた時、いちばん錯乱していた人物は、誰あろう、青井岳君だったじゃないか。
さらに、青井岳君の目論見は外れ、化合物Bに化学物質Qを加えても、思いのほか、たいした毒にはならなかった。だからそれを食べても、千穂君はピンピンしていたんだ。
どうだい、こんなシナリオは?」
込みあげるおかしさを千穂が必死に堪えていた。
「警察の鑑識で『担担麺』や『醤油ラーメン』の容器から化合物Bが検出されなかったのはなぜですか?」
「そういう、未知の都合のいい毒物なんだよ、化合物Bは。鑑識にはひっかからない新種の化合物さ。さらには、化学物質PとQも鑑識には引っかからない謎の物質だったんだろうね」
と、教授はやや辛そうに説明を加えた。
「面白い推理ですけど、ミステリーとしては三流ですね。巨匠エラリークイーンだったら、そんなトリック絶対に赦してはくれませんよ。
結局のところ、常にこの疑問へと舞い戻ってしまいます。すなわち、犯人はどうやって毒入りの『焼きそば』を竜ヶ水に手渡せたのか、それとなぜ『焼きそば』を選んだのか、です。
さあ、それではここで如月メモの第三十四項を、いよいよお見せしましょうか。『無差別殺人説』と『竜ヶ水以外の人物を狙った犯行説』のいずれをも否定してしまうあの第三十四項を……」
そういって、千穂は最後の一枚となったA4用紙を教授の前へ差し出した。佐伯教授がちらりと覗き込むと、そこには11ポイントの明朝体文字で次のように書かれていた――、
34. 竜ヶ水が使用していた割り箸は、箸先の縁にわずかに青のりとソースが付着しているだけで、それ以外には、食事で使用された痕跡を思わせる汚れが、ほとんど見られなかった。
メモを見た教授の顔色が急変した。必死に何かを訴えようとするものの、ろれつが十分に回っていなかった。
「た、たとえ箸がきれいであったとしてもだ。それ自体、特に問題はなかろう。なぜなら、竜ヶ水には箸をしゃぶる癖があったからだ。品が悪い癖だから、誰も口には出さないけれど、そんなのは周知の事実だよ」
氷のように無表情な目つきをした千穂は、即座に反論した。
「だとしたら、箸からは竜ヶ水の唾液が検出されるはずです。でも、それすら検出されなかったのです。さあ、どう説明されますか?」
「分からんね。混乱してしまって、もう何がなんだか。ふっ、僕らしくもないな」
「それなら代わりに私がお答えして差し上げましょう。
竜ヶ水は食事の際にはたしかに箸を使用していました。箸は少なからず汚れていたはずです。では、その箸が汚れていなかった事実は、何を意味するのでしょう。それは、何者かが竜ヶ水の使用した割り箸を別の割り箸にすり替えたことを意味します。しかも、そのすり替えた時刻は、竜ヶ水が倒れてから救急車で運ばれるまでの、ほんのわずかな時間に限定されます。なぜなら、竜ヶ水が救急車に運び出されてすぐ、如月君が、机上の物には一切触れないようにと、指示を出したからです!
では、割り箸をすり替えることができた人物は、いったい誰でしょう?
現場には、倒れた竜ヶ水を除くと六人いました。その六人の男女が何気なく目を光らせている中で、『焼きそば』のカップ麺の傍に落ちている二本の割り箸を手に取り、別な箸とすり替えるのです。決して容易なことではありません。でも、ここで如月メモの第二十九項を思い出してください。倒れた竜ヶ水のもとに、真っ先に赤瀬君が駆け寄って、枕崎先輩と如月君がそれに続きました。その後ろで錯乱していた青井岳さんを私がなだめていました。
もうお分かりでしょうか。この瞬間にだけ、人目を忍んで机上の割り箸をすり替えることができる千載一遇の機会がひそかに生まれているのです。そうです。それができた唯一の人物は、残念ながら、教授――、あなたしかいません!」
いつの間にか、佐伯教授の表情には自信に満ちた落ちつきが戻っていた。
「うん。実に面白い意見だね。では、僕が箸をすり替えた人物だと仮定して、なぜ僕はそんなことをしなければならなかったのかな?」
「それは、後出しじゃんけんの証拠隠滅のためです。毒が仕込まれたのは、カップ麺の容器の中ではなくて、竜ヶ水が使用した割り箸だったのです! そして、それを竜ヶ水に手渡した人物こそ、誰あろう、教授自身です」
千穂の説明を聞いていた教授が、突然大声で笑い出した。
「こいつは傑作だ! 割り箸の表面に毒を塗っておくか……。
一見ありそうだけど、現実の殺人となると、そいつはかなり厳しいぜ。箸の表面に塗った程度の微量で致死量にまで達する危険な毒物で、なおかつ味や臭いで察知されることもない優秀な毒物。仮に、割り箸に毒を塗ったのが速報会の始まる前だとして、その毒は二時間以上も放置されたまま箸の表面に留まり、ものの見事に竜ヶ水の息の根を止めている。そんな素敵な魔法の毒物があるのなら、ぜひともご教授願いたいね」
佐伯教授が顔を上げると、影待千穂は慈しむような視線で教授を見守っていた。
「如月君は、救急車が手配されている間、机上の竜ヶ水が食べていた『焼きそば』の容器を見て、その時、いっしょにあった箸が汚れていない事実に気づいたそうです。すぐさま、机上の物に手を触れないよう指示を出して、警察を呼ばせました。その後、如月君はずっと机上に目を凝らして、誰からも現場を乱されないよう見張っていたそうです。
その時の彼の思惑はこうでした。犯人は何らかの事情で割り箸をすり替えたわけだが、すり替えた割り箸を処分する機会はなかったはずだ、――そうさせないように指示を出したのだから……。ということは、必然的にすり替えられた割り箸は、現在、犯人の懐へ収まっていることになる。だから、警察が来てから、関係者全員の身体検査をすれば、事件は速攻瞬殺の大団円さ、とかなり楽観視していたみたいですよ、――いえ、これは彼が実際に語った言葉ですからね。
ところが、警察が来るまでの間に、煙草を吸うとひと言告げて、教授は一時的に外へ出られましたよね。その時、如月君は、教授を止めたかったのに、止めることができなかったそうです。明確な止める理由があるわけではなく、また、一緒についていくわけにもいかず、といったところです。
そういえばあの時、教授が煙草をどこへ吸いに行ったのかと、如月君はさりげなく私に訊ねてきました。今、思い出しましたわ……。そして私は、A館の東階段を出た渡りで、教授はいつも吸っているわよ、と教えてあげました。でも、当時の私は、如月君の質問の意図が全然分かっていませんでした。我ながらお恥ずかしい限りです」
「なるほどね。そういうことだったのか……」
教授はなにやら納得したように深くうなずいた。
「そしてその後のことは、教授のご存じの通りです」
千穂がいい終えると、入れ替わりに、教授が回想を語り始めた。
「そうだよ。竜ヶ水に毒を飲ませ、さらに犯行計画を成功させるためには、どうしても割り箸を処分しなければならなかった。僕は倒れた竜ヶ水にみんなの意識が集中する隙をじっと待っていた。そして、わずかに生じたその隙をついて、竜ヶ水が使っていた割り箸と懐にしのばせた通常の割り箸とをすり替えたんだ。あとは、懐にある問題の割り箸をこっそり処分してしまえば完全犯罪絵図は完成する。処分すること自体がそれほど難しいとは思っていなかった。
ところが、如月君は、突然、警察を呼び出すからといって、机上を誰にも触らせないようにしつつ、僕たちを共同談話室へ軟禁状態にしたんだ。偶然の産物とはいえ、見事な思い付きだったね……。正直、僕は肝を冷やしたよ。警察がやって来て身体検査をされてしまえば、逆に犯行がばれてしまう。知らず知らずのうちに、僕は窮地に追い込まれていたんだ。幸にも、如月君を筆頭に、みんなは割り箸のトリックまでは気づいてなさそうだったし、僕に疑いをかける人物もいなさそうに見えた。今となってみれば、我ながら、詰めの甘さにうんざりするよ。最後の最後まで、僕は助かると思っていたのだからね。
とりあえず、一刻も早く懐の箸を処分しなければならない。ごみ箱に捨てるとかは論外だ。まずは、一時的に、すぐには探されない場所へ隠しておき、身柄の安全が確保された後になってから、処分するのがベストだ。だから、僕は煙草を吸うというさりげない行為を口実に、まんまと建物の外へ脱出して、側溝の中へこっそり割り箸を隠したんだ。そして、なにげなく共同談話室へと戻った。帰ってきた時、如月君に目をくれると、机上にあごを乗っけたまま、ぼんやりしていた。その姿を見て、まさか、このいいかげん極まりない学生に、僕の芸術的な事件の解明なんかできるはずもなかろう、と高をくくってしまった。
さらに、警察から僕への尋問は、形式的で単純この上ないものだった。もう少し何か疑っているような素振りを見せてもいいんじゃないかとさえ思ったものさ。だから僕はますますうぬぼれて油断をしてしまった。
警察が引き上げて、みんなが解放された時刻は八時過ぎ。誰もが疲れ切っていて、足早に帰路についた。責任者である僕はみんなが帰るのを見届けてから、最後に研究室を出た。そして、一旦は帰る振りをして、大学構内から外へ出た。しばらく背後に気を配っていたけど、尾行をされている気配はみじんも感じられなかった。その後、二時間ほど間を置いて、僕はまたここへ引き返して来た。そうさ、側溝に隠した割り箸を処分するという重要不可欠な仕事がまだ残っていたからね。
暗闇の中、付近には猫の子一匹いなかった。僕はそろそろと側溝へ近づいていった。身をかがめて、側溝の中を覗き込むと、問題の割り箸はまだそこにあった。満面の笑みを浮かべて手を伸ばすと、僕は側溝から割り箸を取り出した。
と、その時だ――。
目の前がヘッドライトの眩しい光に包まれた。目を凝らして先を見ると、そこには如月警部が立っていた。手にしていた箸は警部に押収されて、僕はそのまま警察へ連行されたというわけだ」
ちょっとの間さびしげに口を閉じていた影待千穂は、やがてゆっくりと顔を上げた。
「結局のところ、この事件の真相を私に告げるよう如月君に依頼をした人物は、あなた――教授自身だったわけですね。
『夾竹桃』――ですか。考えもしませんでしたわ。初夏に美しい花を咲かせる、大気汚染や害虫にも強い、生命力のある樹木で、街路樹や公園などにもよく植えられています。けれども同時に、非常に強い毒性を持つことでも知られています。
夾竹桃の毒は、葉や花、枝から根っこまで樹木全体に渡って含まれており、その強さはフグ毒を超えるとまでいわれています。海外では、葉っぱ一枚を食べた羊が死んでしまったとか、うっかり枝をバーベキューの串がわりに使用して数人の死者を出した事例も報告されています。
教授は、その夾竹桃の木材から、削り出して、割り箸を作ったのです。そして、その割り箸を竜ヶ水に手渡し、彼を中毒症状へと追い込みました。教授は、大分県のご実家が木材を用いた伝統工芸品を造る工場だとおっしゃっていましたけど、警察の調査によれば、正確には割り箸の製造工場だそうですね。ご実家の工場を利用すれば、見た目は普通の割り箸と区別できない、夾竹桃でできた割り箸を製造することもきっと可能でしょう。まさに『殺人箸』です――。本当に恐ろしいことですわ」
「前にもいったように、僕は竜ヶ水に尋常ではない怒りを覚えていた。そこで、やつに毒をこっそり仕込んで、中毒症状で苦しめてやろうと思い付いた。夾竹桃の割り箸を使うアイディアは一瞬でひらめいたよ。ただ、正直、これで殺人ができるとまでは思っていなかった。夾竹桃がいくら猛毒の木だといっても、箸をしゃぶる程度で致死量のダメージを与えるまでは、さすがに期待できなかったからね。でも同時に、下手して竜ヶ水を殺すはめになってしまっても、それはそれでかまわないとも、僕は腹の底で開き直っていた」
「教授、あまりおしゃべりは過ぎない方がよろしいかと思いますよ。私たち以外で、今、このお話を聞いている人が、どこかにいるかもしれないのですからね」
教授は、口もとに笑みを浮かべつつ、話を続けた。
「竜ヶ水が箸を噛む癖があるのを見て、僕はこの計画を思い付いた。
だから、あらかじめ机上に置いてあったレジ袋の中から、割り箸を抜き取っておいたんだ。翌日になって箸がなければ、みんな困るから、僕が部屋から持ってきた箸を、何の疑問も抱かずにあっさり受け取るに違いない、という筋書きさ。前日の七時に、夕食を食べに行こうとして共同談話室を覗いてみたら、誰もいなかった。レジ袋の中にあった箸はその時に抜き取っておいたんだ。実に簡単だったよ」
「周到な計画ですね……」
「ところがさ、思わぬことを起点に、僕の完璧なる計画が台無しになってしまうんだ。とんだ計算違いだよ。まさか、枕崎がカップ麺の中に『焼きそば』を買ってくるなんてな。今まで一度も買ってきたことなんてなかったのに……」
そういって、教授は深くため息をついた。
「如月メモの第三十四項か……。たしか、
34. 竜ヶ水が使用していた割り箸は、箸先の縁にわずかに青のりとソースが付着しているだけで、それ以外には、食事で使用された痕跡を思わせる汚れが、ほとんど見られなかった。
ということだったね。
『焼きそば』の場合、食べ尽くしてしまえば容器の中に残留物はほとんど残らない。これが他のカップ麺だったら、食べ終わった後に汁が残っているはずなんだ。だから、箸をすり替える瞬間に、残り汁に新しい割り箸の先をちょいと浸して汚しておけば、さも食べていた箸であるかのように見せかけることができる。警察の鑑定に引っ掛かる心配も、まずなかろう。僕の計画では、竜ヶ水は『カレーラーメン』を選ぶはずだったし、奴がいつも汁を飲まないで残す癖も、しっかり計算に入れていた。だから、すり替えた新品の割り箸を、容器に残ったカレーの残り汁に浸すだけで、この犯行は絶対にばれなかったはずなんだ。
しかし、竜ヶ水が食べたのは『焼きそば』だった。『焼きそば』のわずかな残留物では、一瞬の隙をついて、新品である箸を、さも食べるのに使用した箸であるかのごとく、汚れを付けるなんて、そもそも出来っこないのさ。
完璧なる僕の計画が、アウトオブ眼中である枕崎によって阻害されるなんて、全く皮肉なものだな……」
「口論の末に、枕崎先輩が竜ヶ水から『カレーラーメン』を取り上げてしまったことですね」
「うん、そうさ。さらには、君が持っていた『焼きそば』を竜ヶ水が強奪したことだ。よりによって、『焼きそば』とはねえ……。実に、6分の1の確率じゃないか! それ以外の何を取ってもこの完全犯罪は成立していたんだからね」
教授は頭を抱え込んでうずくまった。
「結局、すべての物事は思い通りにならないということですね。まさに、ゲーデルの不完全性定理のごとしです。
ああ、それから、病院からの報告ですが、賢明なる介護のおかげで、竜ヶ水は命を取り留めたみたいです。教授はまだご存じなかったですよね。
私はこれでよかったと思っています。だって、あなたが殺人者にならずに済んだのですから……」
「そうかい。残念だな……。死んでくれた方が、僕は本望だったけどね」
そういって教授は少し考え込むと、さらに言葉を付け足した。
「千穂君――、それほどまでに、僕は君のことを……」
「もう止めてください! その先のお話は聞きたくありませんわ。
ごめんなさい。今の私にとって、教授のそのお言葉はあまり嬉しいものではないのです。
ああ、もう時間のようですね。本当に早いものですわ。そろそろ、帰ります。くれぐれもお身体には気を付けてください」
影待千穂が折りたたみ椅子から立ち上がると、若い女性が解き放つ淡い芳香が、せまい室内を包み込む。扉を開けて、部屋から出て行こうとする細い背中を、佐伯教授はさびしげに見つめていた。
頑丈な扉の向こうには、長くて冷たい廊下が広がっている。ひと気の失せた名古屋拘置所の薄闇の中で奏でられる美人大学院生の乾いた靴音は、少しずつ、そして着実に、聴こえなくなっていった。
今回は、解決編公開の前に、みなさんから素晴らしい推理をたくさんいただきました。さまざまなご意見もいただき、とても嬉しく思っています。おかげで、あらためて短編ミステリーの素晴らしさを見つめ直すことが出来ました。果たして、この解決編はみなさんの納得できるものとなっているでしょうか。
ご意見、ご感想をお待ちしております。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
アイリス・ゲイブ。