5-1・誕生祝
六月が終わった。
不動産系企業の一役員である俺にとって最も忙しい月である。
年次株主総会。事業報告。財務報告。監査報告。俺の担当は財務関連である。貸借対照表やら損益計算書やらキャッシュ・フロー計算書やら株主資本等変動計算書やらを、きちんと正確に、透明性を担保した状態で作成し、報告し、質疑応答でより仔細に説明し、弊社の財務状況について、資産について負債について純資産について、収益について費用について利益について、キャッシュ・フローや、株主資本の変動について、財務分析結果について、とにかくすべてを頭に入れて、とにかくすべてを終わらせた。
六月を終わらせた。重要なのはこの部分だけ。
六月が終わると七月がやってくる。
七月になって、明崎さんからのメッセージを見逃していることに気付いた。
七月最初の日曜日にいつもの喫茶店で明崎さんの誕生日パーティーをやるからよかったら来てほしいというメッセージが二週間以上前に届いていた。
叫び出すかと思った。七月最初の日曜日=明日だ。プレゼントも、お祝いの言葉も、サプライズも、なにも用意していない。そして記憶が確かなら、ガッツリ仕事が入っている。
どうしよう。どうしようもない。断るしかない。だって、贈り物をひとつも用意できていない。仕事がある。この一ヶ月、仕事を理由に明崎さんとはまともに連絡もとっていない。だって、本当に忙しかったのだ!
俺はまず、仕事が忙しくて返信が遅くなったことを謝罪した。次に、どうやら明崎さんの誕生日パーティーには参加できそうにないことを謝罪した。最後に、これは悪あがきだとは自覚していたが、プレゼントだけでも渡したいから別の日に会えないかと提案した。
やがて、パーティーへの不参加は残念だが気にしなくてもいい、また予定を確認するという返信が来た。
俺はソファにもたれこんだ。どうして忘れていたのだろう、七月七日は明崎さんの二十歳の誕生日だ!
仕事の準備もそこそこに、明日行われるのだろうパーティーについて思いを馳せた。明崎さん本人から招待が来たということはサプライズ・パーティーではない。そして明崎さんには同性の友達が多い。大学なんかで話しているうちにやろうやろうと計画が出来上がったのかもしれない。喫茶店を貸し切るほどとは思えないが、キッチンを借りた前例もある。集まった女子大学生相手に明崎さんがケーキを作って振る舞う可能性も……。
俺は机の天板を殴った。どうして忘れていたんだ! どうして明日、仕事が入っている!?
遅れてじわじわ痛む右手を握りしめる。明崎さんの手作りケーキ。食べたい。どんな手を使ってもいい。しかし明日の仕事をドタキャンすれば社会人としての信用はガタ落ちだ。黒繰家当主に釘を刺された通り年次株主総会をつつがなく終わらせたのに、だ!
……落ち着け。明崎さんの手作りケーキは、あくまでも可能性の話だ。絵に描いた餅に等しい。今は、もっと真剣に考えなければならないものがある。
プレゼントだ。
明崎さんは普段からアクセサリーをつけないシンプルな装いでいることが多い。とはいえ、ひとつやふたつはあってもいいはずだ。なにか正式な場に呼ばれたとき、ドレスコードを求められるとき、なくては逆に困るはずだ。さて、何がいいだろう。指輪、ネックレス、イヤリング。ダイヤモンド、サファイア、パール。七月の誕生石はルビーだったか。予算、ブランド、渡し方。考えることは無限にある。
「どうせ二人きりで会うなら、レストランを予約してもいいな」
なんだかウキウキしてきた。夜景を一望できるホテル・ディナー。昼間のうちに夜着るドレスを彼女自身に選んでもらおう。衣服のサイズや好みまでを完全に把握はできない。欲しいものはなんだって買ってあげよう。バッグ? 髪飾り? それとも靴? 誕生日のお祝いなのだ。たまには甘えてもらわなければ。本命のプレゼントはディナーの最後に。今日は楽しかったですなどと感想戦を始めている明崎さんに指を振って、プレゼントがまだだよねと念押しする。店員に合図して持って来させ、目の前で箱を開け、跪いて手を取り、ダイヤモンドの輝く指輪を彼女の指に――……。
「ん?」
流れるように指輪が出てきたので一回止めた。まだ何にするか迷っていたはずだ。指輪、ネックレス、イヤリング。なんでもいいと言えばなんでもいいが、どうでもいいわけでは決してない。それに、俺は彼女の指のサイズをまだ知らなかった。
スマホが鳴った。明崎さんだ。七月二週目の日曜日はどうかという打診だった。よし。一週間もあればアクセサリーは十分用意できるだろう。が……。
『一応言っておきますが、あまり高価なプレゼントは受け取れませんので、そのつもりで』
頭が真っ白になった。あまり高価なプレゼントは受け取れません?
俺はざっと、頭の中に思い描いた誕生日プレゼントを試算した。いや、大丈夫だ。このくらいならあまり高価でもない。しかし、俺は非常に重要なことに気が付いた。明崎さんはいつもの喫茶店でさえ割り勘を求める。俺が支払ってしまうからという理由でタクシーを断る。つまり……ホテル・ディナーは事前に許可を取らないと却下されてしまう可能性が高い! のでは!?
「ああっ!」
嫌だ! 明崎さんとホテル・ディナーしたい!
震える指で、ホテルで夜景を見ながらディナーを食べるなんてどうかな、と、あくまで冗談めかして聞いてみた。明崎さんはもう二十歳なのだ。お酒も飲める。シャンパンとか、ワインとか、飲んでみたくはないだろうか? 安物ではなく、大学生にはちょっと値の張る本物を飲んでみたくはないだろうか? 俺と一緒なら彼女が金額を気にすることはない。心配などいらないのだ!
いつもの喫茶店で大丈夫と返ってきた。
俺が大丈夫じゃなかった。電話をかけるか一瞬だけ迷ったが、必死すぎる印象は与えたくない。電話に切り替えたとして、スマートに彼女を口説き落とす自分の姿はとても想像できなかった。
諦めるか? 俺からの提案はあくまで冗談めかしてのものだ。遠回しに断られたとして「だよね~」くらいの軽さで流す余裕を見せたほうが、長期的にはいいのかもしれない。別に、今回じゃなくてもいい。いつでもいいのだ。明崎さん本人がもっと俺――黒繰朔夜を頼っていいかもと思えるようなタイミングを待つ、いや、作っていけばいい。
明崎さんが金の亡者と化すのは嫌だ。困る。悲しい。しかしまったく頼られないのも嫌だ。ちょっとくらいは年上の男と思って頼りにしてもらって、構わない。困らない。ドンと来いだ。金銭面なんか特に余裕がある。
それなのに、明崎さんときたら『あまり高価なプレゼントは受け取れません』!? 夜景を一望できるホテルでのディナーより、あの、いつもの喫茶店の大人様ランチが食べたいとでも!?
俺は、返信しようと握っていたスマホを机に伏せて置いた。頭に血が上っている。
落ち着いて考えよう。明崎さんの二十歳の誕生日プレゼントを。一週間以内に。
一週間はあっという間に過ぎた。七月二週目の日曜日、午後一時。俺は名の知れたブランドの紙袋と共にいつもの喫茶店を訪れていた。プレゼントは、シンプルなダイヤモンドのネックレスにした。目立ちすぎず、派手すぎず、それでいて装着者を引き立てる0.5カラットのダイヤ。せっかく二十歳のお祝いなのだ。一生使えると思ってもらっていい。
道すがら、目に留まった花屋で小さなブーケも買ってきた。夏らしくひまわりを中心としたビタミンカラーの一株だ。大きな花束が王道かとも思ったが、ブーケタイプだとそのまま飾れて手間いらず、というセールストークを真に受けた。
喫茶店の扉をくぐると「いらっしゃいです」と今朝方が出迎えた。そしてブーケを二度見して「おお……」と感嘆する。
「お姉さん、いつもの席にもういるです」
今日の明崎さんは髪の上半分を編み込んだハーフアップ・スタイルだった。半袖の白いブラウスに、冷房除けだろうブラウンの薄いカーディガンを羽織っている。足元は鮮やかな赤のロングプリーツスカートに、わずかにヒールのあるキャメル色パンプス。鞄はいつもの白いショルダーではなく、かご状に編まれた夏らしい手持ちへ変わっていた。
俺に気付いた明崎さんがパッと笑顔になる。
「お久しぶりです、黒繰さん」
「うん、久しぶり」
ブーケをテーブルの中心に、ブランドの紙袋を手提げ鞄の影に隠すように置いた。
「わ……!」
明崎さんが嬉しそうにブーケを覗き込む。
対面に座ると、期待に輝く瞳がよく見えた。大変喜ばしい。
「ごめんね、その、なかなか仕事が忙しくて」
「いいえ。いつもお忙しい中、ありがとうございます」
今朝方が俺の分だろうアイスコーヒーを持ってきた。もはや常連、注文の必要はないというわけか。それとも特別な気配を察して気を利かせたのだろうか。今朝方は無駄話をすることもなく、すすっと奥に下がった。
俺は咳払いしてスーツの襟を正した。釣られるように、明崎さんも居住まいを正す。
「誕生日おめでとう。遅くなっちゃったけど、こうしてお祝いの機会を設けてもらったこと、嬉しく思うよ」
「ありがとうございます。私のほうこそ、嬉しいです」
明崎さんは両手でブーケを引き寄せると、生花の香りを楽しんだ。
「とっても素敵です! 大切に飾ります」
ブーケに負けない花のような笑顔を浮かべる明崎さん。写真を撮ってもいいかと聞かれたので、カメラ役を買って出た。明崎さんの写真を合法的にスマホに収め、特に映りの良いものを厳選して彼女本人に送信する。
嬉しそうにスマホを眺め、花を愛で。そのままプレゼントとしてブーケを受け取ろうとする明崎さん。に、待ったをかける。
「実はプレゼントは別にあって」
鞄の裏に隠していた紙袋から長方形の黒いジュエリーボックスを取り出し、蓋を横に開いて見せた。
「わ……っ!?」
明崎さんは目を丸く見開いて、ダイヤのネックレスと俺とを交互に見た。
「う、嬉しい、です、けど……!」
受け取るべきか迷っている明崎さんに優しく微笑みかける。大丈夫、この程度なら想定内だ。
「受け取って。君を大人だと認めるからこそ、半端なプレゼントじゃ俺が満足できないよ」
明崎さんはネックレスに手を伸ばしかけ、引っ込め、伸ばしかけ、首を振り、両頬を軽く叩いてじっと見つめて、そうしておそるおそる、ジュエリーボックスを受け取った。
「わ……」
箱の中、照明の光を乱反射するダイヤモンドのネックレスを、明崎さんはまじまじと見つめた。その瞳はダイヤに負けず、きらきら煌めいて。
――綺麗だ。
そう思った途端、明崎さんと目が合った。
煌めく瞳が、俺を、俺だけをとらえている。
「ありがとうございます。大切にします」
そう言って、明崎さんは嬉しそうに微笑んだ。
言葉が出なくなった。ぎゅっと胸が苦しくて、でも、嫌な感じはしない。急激に顔に血が上る。手が汗ばんできて、そわそわする。そして、なんと、信じられないことに、俺は彼女の瞳から目を逸らしてしまった! なぜだ? 彼女の目を眺めることはもはや趣味の一環だったはずだ。どうして鑑賞をやめてしまう?
体温が上がる。鼓動がうるさい。動揺している。のか、俺は。
「そうだ! 実は私からも……」
明崎さんが店の奥、今朝方に合図する。
やがて二人分のデザートが運ばれてきた。小さなパフェ・グラスに盛り付けられた白い球状のアイスクリームで、申し訳程度にポッキーが二本刺さっている。
「……これは?」
なんとか平静を装って尋ねる。戻れ、いつもの感じに戻ってこい、黒繰朔夜。
「探偵助手のお礼です。ゴールデンウィークの分がまだでしたよね」
明崎さんはニコニコしながら「どうぞ!」とアイスを示した。
あー、ヤバい、勝手に笑顔になってしまう。全然自分を操縦できないじゃないか。普段、どんな顔してたっけ? もっとクールで格好良く完璧を演じてなかったっけ?
「ありがとう。いただくね」
どう繕っても満面の笑みが隠せない。駄目だ。諦めざるをえない。そして認めざるを得ない。心から嬉しいということを。
スプーンですくうと、アイスが一部シャーベット状に固まっていることがわかった。なめらかな既製品とは違う手ごたえだ。バニラの甘い香りがする。口に入れるとミルクの甘味は一瞬で溶けてしまった。火照った頭にちょうどいい。
「アイスクリームって、手作りできるものなの?」
素朴な疑問が口をついて出る。もっと『おいしいよ』とか『冷たいね』とか言えないのか。貧困な感性をどうか許してほしい。
「はい。案外簡単なんですよ。暑い日にはやっぱりアイスですよね」
明崎さんは、動揺した俺との会話になんの疑問も持っていないようだった。助かった。俺はなんとか「そうだね。おいしいよ」と言ってアイスクリームをもう一口すくった。
食べ進めるたび、不思議と気持ちが落ち着いていくような気がした。このアイスクリームには食べた人間に穏やかな幸福をもたらす優しい魔法がかかっている。そう説明されても、今なら納得してしまう。
優しくて、冷たくて、甘くて。張り詰めていた糸がほどけていくような――
――ふと、もう理由のストックがないなと思った。明崎さんに会うための理由。探偵助手のお礼はこのアイスクリームでおしまいだ。今後は彼女からの連絡を待つか、理由もないのに会ってくれと連絡してみるか。このあと事件でも起きないだろうか。なんでもいいのだ。レジの釣り銭が合わないとか。喫茶店強盗……はちょっと困るか、暴力沙汰は苦手だ。あとは、今朝方が謎の不審死を遂げるとか……。
うだうだ考えているうちに、パフェ・グラスは空になった。
どうする、もう、会うための理由がない。嫌だ。帰りたくない。
俺がなにか言うより早く、明崎さんが切り出した。
タイミングを計っていたみたいに。
「黒繰さんは匿名殺人伝道師と呼ばれる都市伝説について、どこまでご存じですか?」




