4-1・新展開
帰宅早々、ソファに座り込んで根が生えたように動けなくなってしまった。時計を確認すると夜九時過ぎ。さっさと風呂に入って寝る、それが最適解だとわかっているのにどうしても立ち上がれない。それもこれもどれも全部、クソジジイのせいだ。
夜七時、黒繰家当主・黒繰轆轤が主催の夕食会である。俺はオーダーの燕尾服に身を包み下座についていた。十人は収容できるだろう西洋趣味の大きな食堂で、中央に鎮座する白いクロス敷きの長方形のテーブルには上下それぞれに椅子が一脚ずつ。どうやらご当主サマとはサシでの謁見になるらしい。部屋を覆う艶消しされた黒い壁紙、大きな窓、ベルベットの赤いカーテンは今は閉じられている。足元には贅沢にペルシャ絨毯を広げ、高い天井にはシャンデリアときた。見事なものだ。このレベルの別荘を日本各地に展開しご当主サマ本人が各地を行脚するのに定宿として使っているなんて話を明崎さんにしたらどんな顔をするだろう?
明崎さん。そう、明崎さんだ! これがなければ明崎さんと、ついでに士道となにか重要っぽい話の席についていたのにと恨めしい。演劇サークルのほうはそのうち片が付くだろうから、どうでもいい。姫宮海心が今後どんな人生を歩むかなんて金を積まれても知りたくない。時間が惜しい。俺に必要なのは明崎さんとの時間だけ。当て馬系負けヒロイン未満のネームド・モブなんかにこれ以上構ってなるものか。
さて、夜七時五分。ぴったりと、計ったように五分待たされた俺の目の前にご当主サマが登場した。わざとらしく豪奢な黒の紋付き袴に、蓄えられた白い口ひげ。頭のてっぺんは禿げ上がっていたが髪自体は伸ばしているのか綺麗に整えられ威厳を演出している。今からその威厳をぶち壊す形容をしてやろう。逆ツーブロックだ。洒落ていて大変結構。皺の刻まれた顔はいつも仄かに笑んでいて、俺はその表情が気味が悪くて嫌いだった。
「よく来た、朔夜」
たっぷり間を取って上座へ歩く老人はやがて椅子に座る。その椅子を使用人の外島白兎が押している。もちろん俺が座る際にも外島は同じ動作をした。違うのはここから。ご当主サマが羽織の紐を解く。タイミングを合わせたように、外島がご当主サマから羽織を脱がせ、腕に畳んだ。外島はそのまま俺の視界からフェードアウトしていき、次に現れたときには2人分のメニュー表を手にしていた。
「本日はアラカルト形式でのご夕食となります」
今回厨房に呼んでいるのはフレンチ系のシェフらしい。俺は適当に、外島がオススメとして挙げたメニューを選んだ。料理が運ばれてくるまでの間、ご当主サマからの繰り出される牽制にも似た世間話に応じながら早く食べて帰りたいなと考えていた。
「早速本題だが、お前に見合いの話が来ている」
付け合わせのスープが運ばれてきたタイミングでご当主サマは切り出した。
「紅邑の次女と食事に行くだけでいい。場所と日時は追って連絡する。交際を受けるかどうかはお前が決めるといい。が、食事はしてやれ。今回、紅邑は食事のセッティングに足る十分な土産を持ってきた。食事の予定自体を反故にすることは許さん」
俺は「はい」と短く受領の返事をして、甲殻類のビスクをスプーンですくった。口に運んだ途端、濃厚な旨みが広がり香ばしさが鼻に抜けていく。まあ、俺も二十六だ。政略結婚の話がきておかしくない年齢である。紅邑の次女がいくつなのかは知らないが、結婚を期に黒繰に取り入ろうということなのだろう。
黒繰グループを運営する一族には大きな家系が四つある。黒繰本家、そして御三家と呼ばれる分家筋――碧海、紅邑、山富黄。最も権力を握るのはもちろん黒繰本家と直系血族で、非常に不本意だが俺自身直系の末席に座る身である。黒繰本家と御三家の関係を個人的な印象として述べさせてもらうなら、御三家とは予備バッテリーだ。一番権力を有しているはずの黒繰本家に役立たずがいるとき、その人物は御三家へ嫁婿の形で放逐される。逆に御三家内の優秀な人材を欲するとき、黒繰本家はその人物を養子として迎えたり、血筋の人間と結婚させたりする。
そんな御三家が一角・紅邑が黒繰本家直系血族の俺と食事の席を設けようなどと、政略結婚以外の何が目的なのか正直まったく見当もつかない。
まあ、別に。いわゆる普通の恋愛結婚ができるとは思っていない。俺としても黒繰の家の中であまり大きな権力は握りたくないのが本音だ。その点、紅邑の次女というのはなかなか悪くない序列なのではないだろうか? 長女ではなく次女というのがポイントだ。婿入りならなおいいが、政略結婚なら期待はできないだろう。顔も名前も知らない紅邑次女が権力闘争にどの程度意欲的なのか、見極め次第では見合いだろうが交際だろうが結婚だろうが受けてやっても構わない。が、あまりに権力の虜だったら断ろう。どのみち、食事をする程度なら大した問題にもならない。
短く受領したあと相手の詳細を一切尋ねない俺の様子に、ご当主サマは呵々と笑った。
「詳細については外島に聞け。流石の儂も紅邑の次女の好みなど知らん」
「そうします」
「ただ、そうさな。お前の耳に入れてやりたい評判がある」
ご当主サマの言葉に、俺は顔を上げる。目の前の老人はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていた。
「紅邑の次女は探偵をやっている。なかなか評判がいい」
「それが何か?」
「お前が最近、素人探偵に執心しているのは知っている」
思わず、ジジイを睨む。明崎さんの存在を把握していると? 何らかのプレッシャーだろうか? たとえ黒繰家の当主だろうと明崎さんに手を出すなら容赦しない。彼女は俺だけの探偵なのだ。誰にも渡さない。
「そう睨むな。儂は存在を知っていると言っただけ。何も企んでおらん」
今にも『まだ』と付け加えられそうな語調だ。ジジイは愉快そうに続ける。
「どうだ、素人探偵の推理はそんなに面白いか。話して聞かせてみろ」
「嫌です」
「可愛くない孫だ」
ジジイは気分を害したふうでもなく、もう一度呵々と笑う。俺は笑わない。そもそも明崎さんの話をどこから仕入れてきた? 外島に乞われ明崎探偵の事件簿を語ったのはつい昼間のことだ。外島からジジイに話が行くにはあまりに速過ぎる。
となると、もっと以前から知っていた――のだろう。今日とか昨日とかここ数日の話じゃない。俺が探偵の明崎さんや警察機関と不定期にコンタクトを取っていることを、ジジイも外島もあらかじめ知っていたのだ。思えば、今日の昼間なんか俺が紹介するより先に外島は士道の名を呼んでいる。明崎探偵の事件簿を聞きたがったのだって『お噂はかねがね』の状態だったに違いない。
それこそ探偵でも雇っているんじゃないのか?
「真面目に働いていたはずの可愛い孫が急に休日の予定を空け始めたら勘繰るまでもない」
俺のスケジュールが把握されているだけだった。
「お前の趣味に口出しする気はない。が、仕事に穴はあけるな。来月など特に忙しい。儂は仕事のできる人間には多少寛容だが、お前は全力を出してようやく一人前だ。胡坐をかくな。儂を満足させ続けよ」
ジジイはニタニタ笑いながらスプーンにすくったビスクをお行儀よく飲み、続ける。
「お前の立場は前任を追い出した結果として在るものだ。心得よ。お前より優れた後任がいれば、お前も同じ運命を辿る」
俺は返事ができなくなり、黙ったままジジイと同じようにお行儀よくビスクを口に運ぶ。あたたかな湯気を立てるオレンジ色のスープ。もう味なんかわかったもんじゃない。ジジイの言うことは的を射ていた。図星だった。最近、真面目に仕事をしているとは言い難い。明崎さんとの予定は何よりも優先したい。が、今この場で釘を刺されたことで『そうではない』『そうであってはならない』『まかりとおらない』――そんなふうに暗に上書きされたのだ。明崎さんとの時間を守りたいならこれまでのように一人前の仕事をしろ。一人前の仕事をする片手間で素人探偵と遊んでやれ。仕事がきちんと回っているうちは関知しない。そういうことなのだろう。
舐められたものだ。が、舐められるような隙を作ったことは手落ちだった。食うか食われるかなのだ。俺が落ちぶれて喜ぶ親族は腐るほどいる。奴らに証明し続けなければならない。黒黒朔夜はお前たちを食らう側なのだと。
誇示し続けなければならない。己の実力を、身の丈を、プライドを。
俺はお前たちより上なのだと。
そのために権謀術数を巡らせ前任者を追い落としたのだ。見ろ、謀殺とはこうやるのだ。実際に命を奪う必要はない。ただ俺のほうがより有能だとこのクソジジイに思わせた。そうして勝ち取ったのが今の立場。追い落として終わりではないのだ。
俺の目が据わったのでジジイはニタリと満足そうに顔を歪めた。
「どうだ、朔夜。当主は目指さぬのか? お前にも一縷の望みがあるぞ」
「勘違いさせようとしないでください」
「競争率が上がれば勝者の質も上がる。お前も黒繰の蟲毒に身を投じよ」
可愛い孫を毒虫の壺に入れるなよ、とは流石に口に出さなかった。
食事会を早々に切り上げた俺はジジイからの手土産を片手に外島の運転で帰路についた。手土産というより、宿題に近い。新規プロジェクトの企画書及び予算提案書だ。タブレット端末に映し出した資料にざっと目を通していると、運転席の外島が声をかけてきた。
「あのー、朔夜様。差し出がましいようですが、私に何か聞きたいことがあるんじゃないでしょうか?」
「ん? ああ、明崎探偵の事件簿の詳細についてジジイに話したか? まだなら黙っていろよ」
「承知しました。でも、そうじゃなくて」
ほかに何かあっただろうか? タブレット端末から顔を上げると、ルームミラー越しに外島と目が合った。
「お見合いの件についてです。紅邑家の次女について、私から聞くようにと轆轤様はおっしゃいましたよね?」
「ああ……」
完全に忘れていた。そういえば紅邑次女の名前も知らないのだった。
俺が話題を思い出したので外島は咳払いとともに語り出した。
「紅邑家次女、寅絵様。二十七歳。開発部門……いわゆるデベロッパーと呼ばれる役職についておられます。切れ者で、探偵としての活動もしばしば。資料がまとめてありますので、明日の朝までにメールします。なかなかの美人ですが、胸は控えめです」
たぶん最後の情報はなくてもよかったな。
俺は「ありがとう」と言ってからタブレット端末へ再度視線を落とした。
「……。朔夜様、お見合い、どうするんですか?」
「とりあえず行ってから決める」
「もしお断り用の台本が必要なら、言ってくださいね。何本でも気に入った出来になるまで用意しますからね」
ぱちぱちと何度か瞬きして、俺はタブレットから顔を上げた。
「断ると思ってるのか?」
「まさか、受けるんですか?」
「だから、とりあえず行ってから決める」
外島はしばらく黙っていた。が、
「ちょっと止めますね」
と宣言したかと思うと、道路を左折しちょうどそこにあったコンビニの駐車場に止まった。
几帳面にエンジンまで止めて、外島は後部座席右に座る俺に向け体を捻った。マイバッハは左ハンドルだ。車の前後、対角線上に座る俺たちは顔を突き合わせる。外島白兎はいつになく真剣な表情だった。
「今から友人として話したいんだけど、大丈夫そ?」
「いいけど……なんだよ、白兎」
「百歩譲ってお見合いに行くのはいいと思う。ご当主サマの命令だからな。でも、断ったほうがいいと思う。断るつもりで行ったほうが」
「どうして?」
「だってお前……明崎さんがいるだろ」
唐突に登場した明崎さんの名前に面食らってポカンとしていると、外島――いや、友人の白兎は続けた。
「断りに行け、朔夜。お見合いも食事も結構だが、ちょっとでも隙を見せるな。相手は切れ者なんだ。最初から断るつもりじゃないと付け込まれる」
「なんでそこまで」
「見え見えの政略結婚だからだよ! お前は顔もいいし金もあるし権力もある。そもそも家柄が良すぎるんだ。お前本人が強い意志で断固としていないと、駄目だ。そうじゃなきゃ本当に好きな相手とは結ばれない」
言っていることがわかるようでわからない。たしかに見え見えの政略結婚だ。が、何が悪い? 当主の座から遠ざかるように分家の次女と結婚することの何が?
俺が結ばれるべき本当に好きな相手? そんな人間が実在するとでも?
「いいか、断りに行け。これは使用人の外島としてではなく友人の白兎としての忠告だ。紅邑の次女を振るための算段を立てろ。協力は惜しまないから」
沈黙。白兎はどうやら俺が『わかった』と言うのを待っているようだった。きっと親切心からの忠告なのだろう。でも、忠告の真意まではわからなかった。
根気強く待っていたほうだと思う。が、先に折れたのは白兎だった。ため息とともに運転席に座り直すと「ご自宅までお送りします、朔夜様」と言ってエンジンをかけた。
ああ、外島だ。友人の白兎ではなく、使用人の外島。話は終わったのだ。
俺は気まずさを隠すようにスリープモードになっていたタブレットを起こし、目を落とすフリをした。運転中、外島はもう何も喋らなかったし、俺も、彼にかける言葉を見つけることはできなかった。
理由もわからないのに、どうして気休めの『わかった』が言えるだろう。
そんなわけで、夜九時十五分だった。
紅邑寅絵についてのメールは明日確認すればいい。それより、俺がジジイとの会食から解放されたように、明崎さんも士道と解散しているはずだった。どんな話をしていたのか、もっと言えば『匿名殺人伝道師』についてどこまでの話が出たのか、軽く探りを入れておくのが望ましい。
俺はスマートフォンを片手に、しかし逡巡した。どう切り出せばいいかわからない。なにより、外島だ。外島白兎の言葉がずっと気にかかっている。
まるで明崎さんがいるのだから見合いを断れと言われたようだった。
明崎明――紅邑寅絵との共通項は性別と、探偵であること。その程度のはずだ。黒繰の家の政略結婚とは少しも関係ない。
「……風呂、入るか」
夜九時三十分。ようやく腰を上げた俺は明崎さんへの連絡を怠ったまま、まず風呂桶を洗うことにした。




