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桜の会合

「キーンコーンカーンコーン」

 四限終了の鐘が鳴る。

 教授はその音を聞くと、左手に持っていた教科書をゆっくりと教卓の上に置き、

「本日の講義はここまでにします」

 と、俺たち受講生に講義の終わりを告げた。

 教授のその一声で教室内には安堵の声が漏れる。

「あー疲れた」

「今日はこれで終わりだー」

「ねぇ、このあとどっか寄ってかない?」

 次第にぞろぞろと学生たちは教室を出ていく。俺は一つ息を吐き、ふと窓の外を眺める。鐘が鳴ったばかりだというのに、すでに多くの学生たちが思い思いの意図で校舎の外を歩いていた。

 帰宅する人、サークル活動に勤しむ人、友人とどこかへ向かう人……。学校でよく見るなんてことない普通の光景。けれど、俺にはそれがとてもカラフルでキラキラと輝いて見える。

 小さい頃から人の色を見ることができた。

 グラウンドで熱心にバットを振る彼は『赤』、友人と楽しそうに話しながら正門へ向かう彼女は『黄色』、花壇で何か観察をしている彼は『紫』。

 人によって色相も、彩度も、明度も様々。特に学校のような人が集まる場所は、色とりどりの花を集めた花束のよう。その光景が俺にはひどく色鮮やかで眩しく、見ていて無性に嫌になる……。

 俺は視線を戻し、長い前髪を梳くように引っ張り、目元を覆う。気がつくと、教室には俺を含め数名の学生しか残っていなかった。

 ……さて、俺も行こうかな。

 机に出したペンとノートを鞄にしまって椅子から立ち上がり、俺は教室を後にする。


 何も予定のない放課後。普段なら真っ直ぐ家路につくところだが、俺は正門へ向かう人の流れに逆らって廊下を歩く。そのまま階段を下りて渡り廊下を進み、裏口から校舎を出たあと、学校の奥に向かって足を進める。

 今日は天気も良く日差しも穏やかで、特に心地のいいことだろう。

 空を眺め、ふとそんなことを考えていると、次第に三号館が見えてくる。俺はそのまま歩みを進め、三号館の裏手に周り、青々とした木々の間を迷いなく通り抜ける。

「……ふぅ」

 ようやく辿り着いた目的地に思わず息をつく。目の前に広がる景色に一歩前へ踏み出し、今度はホッと息をついた。

 そこには小さな人工池とベンチが一つ。そしてベンチの前には花びらを全てピンク色に彩った桜の木が一本と、ここは学生の間でもあまり知られていない秘密の裏庭。

 この場所の存在を知ったのは、去年、一年生の前期の講義で三号館を利用した時だった。元々老朽化であまり使われていなかった三号館だったが、去年の後期からは完全に使用されなくなり、それに加えここは学校の敷地でも最奥の場所に位置しているせいか、この裏庭の存在を知っていてもわざわざ足を運ぶのは、今は自分くらい。そのため、俺は学校で唯一一人になれる安息の地、この裏庭で昼食をとったり、空きコマの時間潰しに訪れたりと、何かとここを重宝している。

 そして利便性の他に、俺がこの場所を訪れる理由がもう一つ。それはこの目の前に佇む「桜」である。

 ここの桜は今や俺の他に誰の目にも映らないのがもったいないと思うほど、とても美しい。春の満開、夏の葉桜、秋の紅葉、冬の蕾。どれをとっても絵になるような綺麗な桜である。その中でもやはり満開の桜は一層美しく、読書の合間にふと桜を眺めるのがこの時期の俺の楽しみであり、今日もそれを楽しむためにこの場所を訪れた。

 俺はベンチに座り、肩に掛けていた鞄を下ろす。心地のいい風に、心地のいい陽気。思っていた通り、読書をするのに快適な環境である。

 俺は鞄の中から本を取り出し、栞の挟んであるページを開く。微かに聞こえる運動部の掛け声と風で草木が擦れる音をBGMに本を読み進め、ペラリとページを捲る。

 ここでの読書はいつも時間を忘れて没頭してしまう。きっと今日も気づいた時には日が暮れ始めているのだろうな。そんなこと思いつつまたペラリとページを捲ると、案外、今日の意識は早めに呼び戻された。

「あの」

 突然聞こえた声に、俺は本に視線を落としたまま一瞬目を見開く。鮮明に聞こえたその声は遠くの誰かのものではなく明らかに近くで聞こえたもので、俺は声が聞こえた方へゆっくり視線を向ける。振り向くと同時にふわりと柔らかな風が吹き、俺の視界が広がった。

「…………っ」

 俺は再び目を見開く。視線の先にはくりくりとした大きな瞳に、肩にかからないくらいの黒髪を風になびかせ、そして、宙を舞っている桜の花びらと同じ淡いピンク色を纏った女の子が真っ直ぐとこちらを見つめ、立っていた。

 俺は一瞬、視線の彼女が桜の妖精か何かかと脳裏を掠めたが、恐らく、俺と同じ学生だろう。俺の他にこの裏庭には誰もいないため、必然的に彼女が声をかけたのは自分ということになる。

 どうして声をかけたのか? そもそもなぜ彼女はここにいるのか?

 突然の第三者の登場に疑問と戸惑いは尽きないが、それ以上に舞い散る花びらの中にいる彼女があまりにもこの桜に溶け込み、幻想的で、声を返すことができなかった。

 そんな俺に彼女はニコッと人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。

「突然ごめんなさい。あの、さっきの社会学の講義でこのペンを忘れて行きませんでした?」

 そう言って彼女は数歩俺の方へ歩み寄ると、ずっと右手に持っていた何かを俺の前に差し出す。

 俺は何も言わず、差し出された何かに目を向ける。それはオレンジと緑とピンク、そして一ヶ所だけインクのささっていない四色ボールペンだった。ボールペン自体は学生の大半が使っているポピュラーなものだが、インクの配色も配置も、さらに一ヶ所だけインクが空いているところも、俺の持っているボールペンにそっくり……というより、俺のボールペンで間違いなかった。

「…………俺のです。わざわざすみません」

 俺は本をベンチに置いて立ち上がり、彼女からペンを受け取る。口振り的にさっきの社会学の講義に彼女もいたのだろう。申し訳ないことに全く見覚えはないが……。

 友人でも顔見知りでもない、ましてやたった一本のボールペンのためにわざわざこんなところまで俺を探して届けに来てくれた彼女に、俺は内心、驚きと感銘を受ける。

 俺は彼女をもう一度見る。

「いいえ、ちゃんと渡せてよかった」

 彼女は俺を見つめたまま、屈託のない笑みを見せてくれた。


 用も済んだところで彼女はすぐにこの場を去るかと思いきや、ふと、そのまま視線をあの桜の木に移した。

「今年も綺麗に咲いたね」

 どこか嬉しそうにするその呟きに、彼女が一年生ではないことが察せられる。まぁ特段このあとも関わりを持つわけでもないので、何年生であろうと関係ないのだが。

 すると、彼女は再び視線を俺に戻し、問いかける。

「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「……え」

 俺は質問の意図が分からず、思わず声を漏らす。

 どうしてそんなことを訊くのか。そんな疑問を抱いたが、彼女にはペンを届けてもらった恩がある。……というより、わざわざ質問を突っぱねる理由がなかった。

「…………諫早、です」

 俺は少し訝しみながらも名乗る。彼女は小さく俺の名を何度か口ずさんだ。

「いさはや、くん……。いさはやくん……」

 やがて満足そうに彼女は顔を綻ばせると、その笑みを俺に向け、

「私はカガイロハです。よろしくね、諫早くん」

と、元気よく名乗ってくれた。

「…………よ、よろしく?」

 何をよろしくなのかは分からないが、とりあえず挨拶的にそう返すことにした。そうして、彼女は「じゃあ、また明日ね」と手を振り、ようやく来た道を戻っていく。

 俺は彼女の後ろ姿が見えなくなったあともその場に立ち尽くした。最初はそよ風のように見えて、ものの数分で春一番へと印象が変わった。そういえば、彼女は最後に「また明日」と言っていたが、社会学の講義は週に一度なので明日は彼女に会うはずがない。いや、学校のどこかですれ違ったりはするかもしれないが、なんだか彼女は確信を持ってそう言っていたような気がした。

 ……………………まぁいいか。普段友人に使っている挨拶が自然と出ただけだろう。

 俺はストンと無理やり腑に落とす。いくら思考を巡らせても正答を導き出せるわけではないだから、これでいい。

 受け取ったペンを鞄へしまい、俺は再び本の続きに手を伸ばす。咄嗟のことで栞を挟むのを忘れ閉じてしまったが、幸い、読んでいたページはすぐに見つけることができた。



『また明日ね』

 翌日。その言葉の通り、彼女は再び俺の前に現れた。

 いつものように裏庭で一人お昼ごはんのサンドイッチを食べている時だった。

「こんにちは、諫早くん」

 彼女、カガイロハはまるで約束でもしていたかのように裏庭を訪れ、サンドイッチを食べる俺に言った。

「お昼ごはん、私も一緒に食べていい?」

「…………どうぞ」

 またもや突っぱねる理由もなく、俺は咀嚼を終えサンドイッチを飲み込むと、そう小さく答える。

 確か「また明日」とは「また明日会いましょう」の省略系だったと記憶しているが、そこに契約性というか、約束に値する意味は含まれていただろうか。人付き合いをほとんどしない自分にはそれを否定できる経験も、確認する術も残念なことに何もない。

 俺は困惑を隠すようにサンドイッチを一口食べる。彼女は「ありがとう」と俺の右隣へ座り、鞄の中からお弁当箱を取り出すと、蓋を開け「いただきます」と、最初に卵焼きへ箸を伸ばした。


 彼女はそれからも毎日のように俺の前に現れた。始めはこの裏庭を、もしくは彼女とお揃いのこの桜を気に入り、足を運ぶようになったのかと思ったが、そのうち彼女は裏庭関係なくお昼休みや講義の合間の休み時間、さらには例の講義でも俺の隣に座り、一緒に講義を受けるようになった。

 俺は彼女の行動の意図がまるで分からなかった。一方で彼女はそんな俺を気にすることなく、いつものように隣に座ると、今朝の占いの結果や彼女の所属するサークルのことなど、彼女の身の回りで起きた他愛もない話を俺にする。俺はそれに戸惑いながらも、あまりに楽しそうに話す彼女を無視することができず、適度に相槌を打ちながら静かに彼女の話に耳を傾けた。

 そんな不思議な関係は一週間、二週間と続き、そしてゴールデンウィークが明けると、一つだけ彼女の行動に変化が訪れた。

「はい、諫早くん」

「…………これは?」

 桜も完全な葉桜となった昼休み。彼女は鞄の中から小包を取り出すと、それを俺に差し出す。なんだか既視感を覚えたその行動に、俺は食べようとしたおにぎりを口に入れるすんでのところで止め、彼女に問いかけた。彼女は笑顔でその質問に答えてくれる。

「ゴールデンウィーク中にサークルで鯉のぼり祭りに行ってきたの。これはそのお土産です」

「…………どうも?」

 なぜ俺にお土産を買ってきてくれたのかは謎だが、とりあえず差し出された小包を受け取ることにした。生憎、俺は休暇中どこにも出かけていないため彼女にお返しできるものはない。仮に出かけたとしても彼女にお土産を買ったかといえば微妙なところ……いや、申し訳ないが全くない。

「ふふふ、それね、鯉の形をしたお饅頭なんだけど、とっても美味しいんだよ」

「……うん」

「サークルのみんなと一緒に食べたんだけど、食べてるうちにお茶がほしいねって話になって、途中購買に緑茶を買いに行ったの。諫早くんもよかったらお茶と一緒に楽しんでね」

「……うん」

「鯉のぼり祭りはね、いろんな柄と大きさの鯉が空を泳いでで、すっごく綺麗だったの。あ、これがその時の写真だよ」

「……うん、綺麗だね」

「ね!」

 俺はおにぎりを一口食べる。彼女はスマホを見せる逆の手でメロンパンを口に運びながら、楽しそうに話を続けた。

 それから鯉のぼり祭りの話をひとしきり終えた時だった。

「ねぇ諫早くん」

「……なに?」

 彼女は前触れもなく、何気なく言った。

「諫早くんはどこのサークルにも入ってないんだよね?」

「…………そう、だけど」

 彼女はニコッと笑う。

「そっか! あのね、私が所属してる『写真同好会』はすごく楽しいんだよ。月に一回、さっき話したみたいにみんなでいろんな場所に行ってね、自然とか、イベントとか、美味しいご飯とか、その季節に合った写真を撮るの」

 唐突な彼女が所属しているサークルのプレゼンに、俺はいつも通り戸惑いながら相槌を打つ。

 今日もまた急にどうしたのだろう。そんなことを考えていると、答えは案外すぐ聞くことができた。

「だからね、諫早くんも入ろうよ。写真同好会!」

「…………」

 俺は完全に思考が止まった。率直に彼女の言っている意味が理解できなかった。

 少し間を置いてようやく彼女から勧誘を受けているという事実を受け止められた時、俺は無言のまま考える。

 どうして彼女は俺を勧誘したのだろう。失礼な話だが、彼女の話に興味を示したことは一度もなく、会話はいつだって彼女の一方的なもので、それがキャッチボールになったことはなかったはずだ。それでいて、彼女は何を持って俺を勧誘しようという結論に至ったのだろう。

 彼女についての謎は深まるばかりだ。

「…………遠慮しておく、かな」

 何はともあれ、俺は質問に対する答えを彼女に返す。理由を聞いたところでどうせ答えは決まっているのだから、言わせるだけ無駄になってしまう。

 俺は彼女のいう写真を撮ることに興味はないし、サークルに所属する気もない。そもそも俺は人付き合いが苦手で、できるだけ関わりを持たずに生きていたいのだ。彼女とのここ数週間が俺にとって非日常過ぎている。どうにかして日常に戻らなければ……。

 俺は最後の一口のおにぎりを口に入れる。

「そっか。……あ、諫早くん昨日のクイズ番組見た? 桜と梅の違いって、花びらに切れ込みがあるかないかなんだって」

「…………そう、なんだ」

 彼女は最初こそ残念そうに眉根を寄せたが、それはすぐさま元の位置に戻りいつもの調子で話を始める。俺は彼女のその切り替えの早さに少し驚かされたが、どうやら断ったことを気にしている様子も、後腐れもないようで、心の中でホッと息をついた。

 翌日も彼女はいつものように隣に座り、一緒にお昼ごはんを食べる。今日の彼女の話題は一限の講義で急にテストを出されたこと、おにぎりの具といえば何か、今日の占いの結果、そして、

「諫早くん、写真同好会に入らない?」

 サークル勧誘。

「…………え? あ、いや、遠慮しておくよ」

「そっか。そう、それでね……」

 彼女は何事もなかったように再び他愛もない話を始める。俺は彼女の言動に疑問が残ったが、一日経って俺の気持ちが変わったか一応確認したのだろう。そう腑に落とすことにし、二度も断ればこれ以上勧誘を受けることはないだろうと思った。

 ……結果、そんなことはなかった。その次の日も、そのまた次の日も、

「諫早くん、写真同好会に入ろうよ!」

 と、彼女の勧誘は続いた。

「……遠慮しておくよ」

 俺は台本を読み上げるように決まった答えを返す。どうやらあの時、俺が断ったことを彼女が気にしていなかったのは「また誘えばいい」と、思っていたからのようだ。

 彼女は意外と打たれ強く、粘り強い性格らしい。



 それから数日が過ぎたある日。

 社会学の講義が終わり、いつもそれと同時に雑談を振ってくる彼女は提出物があるのだと、今日は早々に「諫早くん、また明日ね」と、教室を後にした。

 俺も今日はこのまま帰宅しよう。そう思い机の上の荷物をまとめていると、ふと、彼女の座っていた席の机の中にノートが二冊残されていることに気づく。

 俺はその二つのノートを取り出し、表紙を確認する。一つは「社会学」とその下に「加賀色葉」と書かれたノート。もう一つは小さな花の絵が三つばかし描かれているだけで、特に見て分かる情報はなかった。まぁなんのノートであれ、どちらも彼女のもので間違いないだろう。

 帰り際の発言の通り、俺にその予定はなくともきっと彼女とは明日も顔を会わせることになるだろう。その時にでも渡そう。二つのノートを眺めそんなことを思うと、俺は不意に彼女がノートを忘れたと気づいた時、どうするだろうと頭を過ぎった。

 慌てて取りに戻るだろうか? それなら机の中に入れておいた方がいいか? けれどこのまま机に戻して仮にノートが紛失してしまったとき、俺は彼女に思うことはないだろうか? 彼女にノートを忘れているとすぐに伝えられたらいいのだが、生憎、俺は彼女の連絡先を知らない。

 俺は逡巡を巡らす。恐らく彼女がノートを忘れていると気づいていない場合、提出物を届けたその足で次に向かうのは、きっと例のサークルの部室だろう……。

「……………………はぁ」

 逡巡の結果、自分で出した結論に思わずため息をついてしまう。それでもこれが俺にも彼女にも一番いい結論で、一番手っ取り早い方法だろう。

 俺は再び荷物をまとめ、彼女のノートも一緒に鞄の中へ入れる。

 確か彼女の話では、場所は九号館の一階、正面出入り口から左に進んだ四つ目の教室だった、かな……。


 写真同好会の部室は案外簡単に見つかった。記憶を頼りに少し薄暗い九号館の一階廊下を歩いていると、「写真同好会」と書かれた紙が貼られたドアが目に入った。

 俺はそのドアの前に立ち止まり、一度深く息を吸う。

 手を伸ばし、少し憚りながらもコンコンコンと軽くドアをノックすると、

「はーい」

 ドアの向こうから彼女とは違う女性の声が返ってきた。恐らく入っていいということだろう。俺は「失礼します」と言いながら、ゆっくりとドアを開ける。

 教室の中にはさっき返事をしてくれただろう女子部員と、男子部員が一人がいた。軽く教室内を見回すが、やはり彼女の姿はない。いてくれたら話が早かったのだけれど……と、そんなことを考えても仕方がないので、俺はこちらを不思議そうに見つめる二人に事情を話すことにした。

「……あ、あの、こちらのサークルに加賀色葉さんがいらっしゃると思いますが、さっきの社会学の講義で加賀さんがノートを忘れていってしまって……、突然ですみませんが、こちらを加賀さんに渡しておいていただけますか」

 緊張から少し口籠もりながらも俺は鞄の中から彼女のノートを取り出し、前に出す。ちゃんと事情を理解してもらえたか不安だったが、女子部員さんは「あーなるほど」と一言呟くと、椅子から立ち上がり、差し出したノートをどちらも受け取ってくれた。

「わざわざありがとう。色葉が来たら渡しておくわね」

「……よ、よろしくお願いします」

 溌剌としたオレンジが弾けるような笑顔を見せる。俺は前髪の隙間から入ってくるその眩しさに目を逸らしつつ、心の中でホッと息をついた。

「……それでは、失礼します」

 用も済んだことだし早くお暇しよう。俺は踵を返し、ドアノブに手を伸ばした……はずだった。

「遅くなりました!」

 俺が開けようとした目の前のドアはそれより先に誰かによって開けられ、すんでのところで俺の前を掠める。俺は開いたドアから飛んで来た声に聞き覚えがあった。ドアノブに向けている視線を上げなくても分かる。この声の主は……、

「って、あれ、諫早くん! どうしてここに?」

「…………やぁ」

 一足遅かったというか、もはや早かったというか。視線を上げると確信は事実へと変わる。ドアを開け、目の前にいる俺の存在に驚いている彼女は、間違いなく俺をこの場所まで向かわせた張本人、「加賀色葉」だった。

「あ、色葉おつかれー」

「お疲れ色葉。彼、色葉の忘れ物を届けに来てくれたんだって」

「忘れ物? ……あ!」

 さっき渡したノートを女子部員さんはヒラヒラと顔の横で振る。彼女はそのノートを見るや否や、すぐに自分のものだと気づいたらしく女子部員さんの元へ駆け寄った。

「はい」

「ありがとうカリンちゃん。……そっか、私、慌てて教室を出たから忘れて来ちゃってたんだ。諫早くん、わざわざノートを届けるために部室まで来てくれたの?」

「……うん」

 そう小さく頷くと彼女は目を見開き、そして嬉しそうに笑った。

「ありがとう、諫早くん」

「…………いや、俺も前にしてもらったから」

 彼女の笑顔に、なんだかくすぐったいような気持ちになる。あの時の彼女もこんな気持ちだったのだろうか。

「……それじゃあ、俺はここで」

 無事彼女の元にノートが戻るところも見届けた俺は、これで本当に用済みと再び踵を返しドアノブに手を伸ばす。……すると、

「あ、待って諫早くん!」

 ドアノブに手を掛けたところで、なぜか彼女に呼び止められた。

 俺は顔だけ彼女の方へ向ける。彼女はニコリと微笑んだ。

「せっかく部室まで届けに来てもらったからお礼させて。いいよね? カリンちゃん、ナオトくん」

「……え、いや」

 俺は突然のその申し出に言葉が詰まる。すぐさま断りを入れようと俺はドアノブを掴んだまま体も彼女の方へ向き直す……が、時すでに遅かった。

「もちろん」

「私も大歓迎よ」

 俺が断るより先に部員さん二人は彼女の提案を快諾してしまい、机の上の荷物を片付け出す。それでも俺は丁重にご遠慮しようと「……あの」と、ドアノブを掴んでいない方の手を前に伸ばし三人の話に割り込もうとするが、伸ばした手はそのまま彼女に引かれ「諫早くんはここに座って」と、結局彼女に導かれるまま椅子に座ってしまう。……ここ一ヶ月、彼女のペースにのまれてしまうのはこれで何度目だろう。

「……はぁ」

 俺は一つ息を吐き、諦めて彼女のおコトバに甘えることにした。一方で彼女はなぜかほくほくとした表情をしていた。相変わらず彼女は未知の生き物である。

 椅子に座ったまま、改めて写真同好会の部室を見回してみる。教室には今俺が座っている椅子と机の他にあと三つの席があり、それらは部屋の中心で四つ向かい合わせになった状態で置かれている。壁際には備え付けの棚が二つと写真やメモが貼られたホワイトボード、少々年季の入っていそうな小さめの液晶テレビが一つずつ。そして昔この教室は給湯室だったのか、簡易コンロと流しが設置されていて、流しに隣接したカラーボックスの上には洗い終わったプラスチックカップが三つ並んでいた。……なんだか妙に生活感のある教室である。

「よかったら食べてね」

 ふと彼女の言葉に、俺は彷徨わせていた視線を彼女が机に置いた丸い缶へと移す。彼女は俺の前の席に座り、缶の蓋を開ける。中身は詰め合わせのクッキーだった。

「…………い、ただきます」

 俺は手前にあったプレーンのクッキーを一つ手に取る。封を開け一口食べると、サクサクとした食感の美味しいクッキーだった。他の三人も好みのクッキーへ手を伸ばし、パクパクと食べ進める。

「そうだ、せっかくだし自己紹介でもしようか」

 唐突にそう言い出したのは、隣に座る男子部員さんだった。

 別に必要ないと思うけど……と、そんな俺の心情とは裏腹に、彼女と女子部員さんも自己紹介に賛同を見せる。これでは俺が何を言ってもかなわないだろう。日本には多数決という民主主義的な採決が存在する。

「じゃあまず俺からね。俺はカツラギナオト。経済学部二年で、一応この写真同好会のサークル長をしてるよ」

 自己紹介を提案し、俺が来てからずっと穏やかに成り行きを見守っていた青年は、声色に合った爽やかな笑顔を見せる。暗めの茶髪に少し日焼けしたした肌が彼の笑顔と相まり「好青年」「スポーツ青年」と、表すのがぴったりである。

 木漏れ日の輝く森林のような深い緑の彼が「よろしく」と笑いかけてくれるのを、俺は小さく会釈して応えた。

「次、私ね。文学部二年、ニシオカリンよ。よろしくね」

 反時計回りに今度は斜め前に座る女子部員さんが自己紹介をしてくれる。明るめの茶髪を高い位置で一つに結い、流れ落ちる毛先は彼女の肩甲骨を優に超えゆらゆらと揺れている。太陽のような明るいオレンジの彼女はさっきの大人びた対応から先輩かと勝手に思っていたが、どうやら俺と同学年らしく、少し驚く。こちらも小さく会釈を返した。

 順番的に次は前に座る彼女の番だが、彼女のことは名前も学年学部も存じているし、他の二人は紹介を受ける必要もなく俺以上に彼女を知っているだろう。彼女の番はスキップかな、と目の前に視線を向けると、彼女はやる気満々な表情をしていた。他の二人も特に止めたりはしない。

「じゃあ次に私の番ね。加賀色葉、文学部二年生です。よろしくね……は、私が言うのはちょっと変かな?」

「そうかもね」

「色葉はもう知り合いでしょ?」

「あ、そうだね」

 ククっと笑う二人に釣られ、彼女も笑みを零す。こういうところが彼女が人に好かれるところの一つなのかもしれない。不意にそんなことを思った。

「それじゃあ最後、諫早くんどうぞ」

「……え、あ、うん」

 三人は口元に笑みを浮かべたまま、いつの間にか静かに俺を見つめている。俺は視線を下げ、一つ息を吸った。

「…………えっと、法学部二年の諫早です」

 よろしくお願いします、とは言わなかった。学校のどこかで再び会うこともあるだろうが、少なくともこの部室でやりとりをすることはもうないから。俺は代わりに少し長めに頭を下げた。

 顔を上げるとカツラギさんとニシオさんは俺を見つめたまま、何か関心したような、納得したような、そんな表情をしていた。

「そっか。さっきからちょこちょこ名前は聞いてたけど、君が『例の』諫早くんか……」

「へぇ、なるほどね……」

「…………」

 二人の口振りに俺は少し違和感を覚える。彼女から俺のことで何か聞かされていたのだろうか? そんなことを考えていると、

「まぁそれで、ここにいる三人が写真同好会のメンバーだよ」

 と、彼女はいつものようにあっさりと話題を変えてくる。

「……え、三人?」

 俺は彼女の言葉にまんまと意識を誘われる。

 思い返してみれば、確かにサークルの話題に出てくる登場人物は少なかった気がする。けれど席が四つあるのでてっきりもう一人は部員がいるものと思っていた。そして、その人がいつ現れてカオス状態になるか、内心ヒヤヒヤしていた。

「はははっ、少ないでしょ? でもうちはこれで勢揃いなんだよ」

「去年までは先輩が一人いて四人だったんだけどね。ま、四年生だったし元々忙しい人だったから、去年も実質三人みたいなものだったけど」

 ……なるほど。俺はニシオさんの話に納得する。つまり今俺が座っている空席は、以前先輩のいた席だったというわけだ。

 カツラギさんは笑みを浮かべたまま、話を続ける。

「その先輩、俺と同じ小学校出身の人でね、昔から仲良くしてもらってたんだ。それで、久しぶり……というか、偶然この学校で再会した時に『写真同好会に入らない?』って誘ってもらって、活動自体は何か写真を撮ってそれを文化祭で展示だけしとけば、あとは部室使い放題だし、先輩が卒業したら廃部になっちゃうだけだから、友達誘って遊ぶのに使いなって言われてね。それで去年のスポーツ大会で仲良くなったカリンを誘って、そしたら今度はカリンが色葉を誘ってくれて。他にも何人か声をかけたんだけど、結局この三人で落ち着いちゃったってわけ」

「私とナオ、スポタイの実行委員だったのよ」

 ニシオさんは顔の横にピースを作る。

 ……スポーツ大会。そんな行事があったかと思い返すと、そういえば六月にそんなイベントがあったかもしれない。確か一年生は第二言語クラスで、二年生以上は所属する部活やサークルか、有志の団体で分けられ、球技や綱引きなど様々な種目で勝敗を争うイベントだった、かな。俺は体調を崩してしまい去年のスポーツ大会に参加していないが、俺の選択するフランス語クラスはいいところまで行ったと、風の噂で耳にした。……なんにせよ、俺にはもう縁のない行事である。

「あ、遊ぶって言っても、ちゃんと『写真同好会』らしい活動もしてるんだよ! ほら、前に鯉のぼり祭り行ったよって話した通り、月に一回、みんなで季節に合った写真を撮りに行くの!」

 彼女はサークルの尊厳を気にしたのか、慌てたようにフォローを入れる。別に俺からの印象なんて気にしなくても大丈夫だよ。

 そんな彼女のフォローを笑い飛ばすように、

「まぁ、それ以外は普段ダラダラと過ごしてるけどね」

「だね」

 と、二人は口を合わせる。

「カリンちゃん! ナオトくん!」

 彼女は「もうっ」と、唇を尖らせる。その姿にまた二人は楽しげに笑い出した。その終始和やかな雰囲気に、確かに以前彼女が話していた通り楽しげなサークルなんだな、と感じる。

 そのあともクッキーを食べながら俺は三人から今までの同好会活動についての話を聞いた。……聞いたというより、聞かされた、という方が正しい表現かもしれない。

 別に苦なわけではなかった。特段、話に興味があったわけでもないけど、ただその日は話をする人が一人から三人に増えただけだと思った。


 あの日、初めて写真同好会の部室を訪れて以降、彼女はサークル勧誘をしなくなった。これは思わぬ収穫で、これでようやくあのやりとりとも解放される……かと思いきや、彼女はその代わりというように俺を部室へ誘うようになった。それも半強制的に。

「諫早くん、ナオトくんがオススメの映画を持ってきてくれたから、放課後一緒に観ようよ」

「ボードゲームをやるから諫早くんも一緒に遊ぼう」

「美味しいお菓子があるの、みんなでお茶会しよう」

 日々変わる様々な誘い文句。俺は以前と変わらず「遠慮しておくよ」と返すが、そんなことお構いなしに彼女は俺の手を取り、あの部室まで連行する。俺も頑なに断ればいいのかもしれないが、そこは俺の弱さが敗因か、はたまた彼女の強さが勝因か……。

「諫早くん」

 今日も今日とて彼女は俺の前に現れる。さて、本日はどんな誘い文句だろう。なんにせよ、俺が返す言葉は決まっているのが。

「……遠慮しておくよ」

 彼女が目の前に立ってすぐ、俺はそう言い放った。彼女は顔を綻ばせる。

「まだ何も言ってないよ。けどそうだね、今日は特に楽しいことがあるから、諫早くんも一緒行こう」

 どうやらさっきの俺の言葉はもう綺麗さっぱり忘れ去られたらしく、そしてなんとも今日は大雑把な誘いで、彼女はいつも通り俺をあの部室まで連行する。

 掴まれた腕が解放されるのはいつも部室のドアの前でのこと。流石にここまで来てしまっては逃げるつもりもない。俺はため息の代わりに、肩からずり落ちた鞄のペルトを掛け直す。彼女はその様子を見てなぜかニコリと微笑み、目の前にドアを開けた。

「お疲れさま」

「おつかれー」

「お疲れ色葉、諫早も」

「……お邪魔します」

 もう俺が来るのに慣れた様子の三人に相反し、俺はぎこちなく彼女に後に続く。何度連れられて来ようと、やはり部外者である俺がここに来るのは異様だと思う。

 そんなことを思いながら閉じたドアの前で立ち尽くしていると、カツラギさんは自分が座っている隣の席の椅子を引き、ポンポンと座面を優しく叩いた。

「どうぞ、諫早も座りな」

「……あ、すみません」

 俺は促されるまま、いつも通される席に腰を下ろす。

 そういえば、今日はなんのために呼ばれたのだろう。普段から大層な理由で呼ばれているわけではないが、今日は具体的な「活動内容」を彼女から聞かされていない。引きずられる前に「特に楽しいこと」などと言っていたが……。

 俺が思案していると、次の瞬間、彼女は机の上に数冊重なった冊子をドンっと置く。そして、それらをまばらに広げると、

「じゃーん! 今日は諫早くんにサークルで撮った写真を見てもらおうと思います!」

 彼女は机の上の冊子たちにスポットライトでも当てるよう、手を広げてみせる。それがまるで自分の宝物を見せびらかす無邪気な子どものように見えたのは、内緒にしておこう。

 どうやら彼女が運んで来た冊子は写真同好会の活動記録を収めたアルバムで、机の上のそれらをよく見ると、数は違うが全ての表紙に小さく花の絵が描かれていることに俺は気づく。この花の絵に俺は見覚えがあった。

「……この花の絵を描いたのって、もしかして加賀さん、かな?」

 前の席に座った彼女にそう訊ねると、彼女は驚いた顔をした。

「そうだよ。諫早くんよく分かったね?」

「……前に届けたノートにも同じ絵が描いてあったから」

 そう答えると彼女は「なるほどね」と微笑み、俺の前にあるアルバムの花の絵を指差した。

「これね、昔からの癖……っていうのかな。同じ授業でノートを新しくする時とかに、これが何冊目のノートかって見分けるのに描いてるの。マークはその時の気分によって違うんだけどね。最初の一冊目は何も描かないから、二冊目ならマークが一つ、三冊目なら二つってね」

 となると、目の前のアルバムには四つの花が描かれているため、これは五冊目のアルバムということだろう。彼女らしいなんともユニークな癖だ。

「色葉の描く絵って基本壊滅的なのが多いけど、こういうのは上手よね」

「この間のネコは芸術的だったね」

「ナオトくん、あれウサギ……」

「あ……」

 楽しげな会話が繰り広げられたあと、三人は目についたものから順にアルバムを開いていく。

 アルバムの写真は自然の景色や風景よりも三人が笑い合っているものの方が多く、なんだかサークルの活動記録というより、三人の思い出を見ている気分だった。

「この時は急に雨が降って大変だった」「帰りに食べた黒糖饅頭が美味しかった」

 思い出話を交えながら三人は楽しげに話を聞かせてくれる。一冊一冊に丁寧に解説を入れてくれるおかげか、計七冊もあるアルバムのうち三冊目に突入した時にはすでに日はだいぶ傾いていた。俺は少し疲労を感じ、息と一緒に肩を下ろす。

「……ごめんね諫早、俺たちばっか喋って」

 不意にカツラギさんがそう小さく俺に声をかける。前の二人はまだアルバムに夢中のようだ。

「……いや、大丈夫ですよ」

「はは、諫早は優しいね」

 カツラギさんは穏やかに笑うと、そのまま穏やかな眼差しで彼女を見た。

「きっと、楽しかった思い出を諫早にも共有したかったんだと思うよ。色葉は」

「…………はぁ」

 俺はふと目の前のアルバムに視線を落とす。……共有したかった、か。

 正直、その行動の意味も、彼がどうしてそんな憶測を立てたのかも、俺には全く理解できなかった。俺は彼女を一瞥する。相変わらず彼女はニシオさんと楽しげに話している。すでに思い出を共有し、一緒に楽しめる人がいるのに、わざわざ俺にも共有する意味なんてあるのだろうか?

「そうだ、諫早は何か気になった写真とかあった?」

「……え」

 カツラギさんの急な問いかけに、すぐさま俺は意識を戻す。しかし、彼の問いに対して俺はなかなか答えることができなかった。

 以前勧誘を断る理由で彼女にも話した通り、俺は写真を撮ることも眺めることにも、特に興味はない。写真を見て綺麗だな、と思うことはあるが、本当にただそれだけ。だから俺は答えを言い淀む。あんなにも楽しそうに話をしてくれた彼に「特に気になった写真はありません」など答えるのは、なんとも申し訳ない気がしてならなかった。

 この際テキトウでもいい。何かないかと俺はまだ見ていないアルバムを開く。

 水族館、お祭り、海、イルミネーション、神社……。ここにも様々なイベントや観光地の写真が収められている。どの写真も俺には縁遠く馴染みのないもので、多少物珍しさに目を止めるものもあるが、やはりこれといって目を惹くものは…………………………………………。

「……あ」

 俺はページを捲る手を止める。ふと、一枚の写真に目が止まった。それに気づいたカツラギさんも同じ写真に目をやると「あぁ」と呟いた。

「去年の花火大会、橋の上で撮った写真だね」

 カツラギさんの声色に懐旧の色がちらつく。

 俺が目を惹かれたのは「夜空と水面に映る花火」の写真だった。空に大きく咲く花火はその華やかな色と光をこれでもかと鮮明に映し出し、水面に滲む花火はその姿をぼんやりと、けれど奥ゆかしさと風情を帯びた美しさを映し出す。そんな息を飲む一瞬が切り取られた素敵な写真だと俺は思った。

「それね、初めてサークルで撮った写真なんだよ。最初に三人で話し合った時、せっかくならめちゃくちゃいい写真を撮ってこれからの活動に景気を付けようって話になってね。まず棚の中にすっかりしまわれてたカメラを綺麗にするところから始めて、技術のない俺たちじゃスマホのカメラを使っても同じだったかもしれないけど、やっぱり最初だからって張り切っちゃってね。そのあと活動の一ページ目を飾るのに相応しい被写体はなんだろうってみんなで探して、確か丸々一ヶ月費やしてあの花火大会へ行くことに決めたんだ。そこからもいろいろ花火が映えるスポットとか、花火を撮る時のコツとかを調べて、ようやくこの写真が撮れたんだ。初心者ながら結構綺麗に撮れてるでしょ?」

 そう言って嬉しさと誇らしさを浮かべるカツラギさんの表情から、それだけこの写真が思い出深いものだということがひしひしと伝わってくる。朝露を纏ったように深緑が仄かに煌めく。

「……うん。すごく綺麗な写真だと思う」

「なになに?」

「二人ともなんの話してるの?」

 ずっと他のアルバムを覗いてた二人もひょいと俺たちが見ているアルバムに顔を出す。

「ん、この写真、諫早が綺麗だねって」

「へぇ! いい趣味してるわね、諫早!」

「本当に綺麗な花火だったんだよ。いろんな種類の花火がもういっぱい上がって」

「エンディングで順番に上がっていったのは壮観だったね」

「今年も気合い入れて撮らなくちゃ」

「開催日が決まったら、すぐ予定立てようね!」

 二人の色もカツラギさん同様に煌めき出す。きっと彼女たちもカツラギさんと同じ気持ちで、きっと写真を見る三人の目には、目の前で観たあの花火の光景も思い映されているのだろう。

 その光景は写真越しで見るよりもきっと、

「……きっと、目の前で観たら、さらに綺麗なんだろうね」

 写真を見て、三人を見て、三色を見て、俺はそんなことを思った。……うん、本当にいい写真だ。

 少しして俺はさっきまで賑やかだった三人が静かなことに気づく。顔を上げて三人の様子を窺うと、なぜか三人とも目を見開き、少し口を開いた状態で俺のことを見ていた。

「……え、どうしたん、ですか?」

 そう訊ねると最初に反応したのは彼女だった。彼女は勢いよく口角を上げ、そのあと大きく口を開く。

「そうだよ、目の前で観た方がもっと綺麗だよ!」

 彼女の返答は全然質問の答えになっていなかった。けれど、俺はその応えでさっき思った言葉が無意識に口に出ていたことに気がつく。そしてそれを理解した束の間、彼女は少し前のめりになり、とびきりの笑顔で言った。

「だから一緒に行こうよ! 諫早くん!」

「…………っ」

 今度は俺が目を見開く。見開いて、目の前の眩しい笑顔からそっと目を逸らし、後ろに上体を反らす。

「……俺はこのサークルの部員じゃないから無理だよ」

「じゃあ入ったらいいんだよ!」

「…………それだけのために入部なんて可笑しいよ」

「全然可笑しくなんかないよ!」

「…………前にも言ったけど、俺は写真に興味はないよ」

「撮っていくうちに興味が出てくるよ!」

「…………」

 終わらない攻防。いつの間にか彼女は席を立つくらい前のめりになり、俺は背もたれよりさらに後ろに上体を反らせていた。

「…………はぁ」

 俺はため息をつき、姿勢を戻す。彼女も合わせて椅子に座り直した。

 俺は少し落ち着いて、前髪の隙間から改めて彼女を窺う。彼女は諦めている様子もなく、まだ臨戦態勢をとっていた。

「……加賀さんはどうして『俺』に声をかけるの」

 問いかけるというより零れ落ちるように。俺はずっと気になっていた、気になっていたがなぜかずっと訊かなかった疑問を、今ここで口にする。

 どうして彼女は俺に声をかけるのだろう。それは勧誘もだし、それ以外もそう。あの裏庭や桜が目的でなければ、一体彼女の目的はなんなのか? やはり最終的な目的がサークルの部員を増やすことだとしても、それは俺じゃなくていいはず。まだサークルに所属していない人の中から、カツラギさんのような大らかな人やニシオさんのような頼りになる人、彼女のような朗らかな人を見つける方がいい。だから、ただ偶然に関わるようになった俺にこだわる必要なんてない。俺じゃない方が絶対にいい。だって、

「……俺には何もないよ」

 ポツリと俺は自分が無価値であることを伝える。もしかしたら小さすぎて彼女の耳に届かなかったかもしれない。けれど、そんなことわざわざ言葉にしなくても、誰だって分かるだろう。

 再び教室内に静寂が下りる。あぁ、また俺のせいで楽しい雰囲気を壊してしまった。早く謝って早くここから出よう。そして、もう二度とここへ足を運ばないと誓おう。

 俺は机の左手に掛けている鞄に手を伸ばした。……けれど、その手が鞄に辿り着くことはなかった。辿り着く前に、彼女がこの静寂の帳を解いた。

「それは、諫早くんがとても優しくて、素敵な人だからだよ」

 さっきとは打って変わった落ち着いた口調、けれどどこか芯を持った声色で彼女は言う。

 俺は彼女を覗く。すると、それに気づいた彼女はふっと柔らかく笑った。

「……意味が分からないよ」

 俺はすぐに彼女から目を背ける。出会ってたった一ヶ月ほどの付き合い、いや、付き合いという付き合いもしていない。俺はただ、彼女の話に耳を傾けていただけだ。それなのに、どうして彼女はそんなことが言えるのか。俺の空白な人間性に、何を持ってそんなことを思ったのか。

 いつの間にか鞄に伸ばしていた手は、だらんと横に垂れていた。

「……まぁまぁ二人とも」

 宥めるように俺と彼女の間に入ったのはカツラギさんだった。

「別に一緒に花火を観にいくのに必ずしも入部しなくちゃいけないってことはないと、俺は思うけどね。今だって無理やり連れてきちゃってるわけだし。……けどまぁ、それとはまたちょっと意味合いが変わってきちゃうか。一応サークルの活動として俺たちは花火を観にいくわけだし、諫早としては居心地が良くないよね」

 カツラギさんはあくまで中立に話をしてくれる。その上でそう眉尻を下げて微笑まれると、なんだか少し悪い気がしてしまう。

「……じゃあさ、今から後期が始まるまでの仮入部ってするのはどう?」

「……え」

 唐突な彼の提案に俺は思わず声を漏らす。そうこうしているうちに、彼はこうも話を続けた。

「それなら花火大会が終わったあとに籍が残ることもないし、そもそも俺は入部云々関係なく、諫早が俺たちの写真を見て興味を持ってくれたのが嬉しいから、諫早にも目の前でこの花火を観てもらいたいなって、思うよ」

 そう言うと、彼は屈託なく笑う。その表情を見て一瞬、なんとも爽やかな笑顔だと、俺は突拍子もないことを思った。

 俺は目を伏せ、考える。仮入部とはいえ、今でも「一緒に花火を観にいく」というそんな理由のためだけに二ヶ月以上もサークルに在籍するなんて馬鹿げていると思う。それに何度も言うが俺は写真に興味はないし、そもそも人付き合いが苦手なのだ。できる限り一人で静かに生きていたいし、生きていたはずだった。けれど、これ以上交戦しても彼女が諦めるとは思えない。俺は彼女の打たれ強く、粘り強い性格をこの一ヶ月でよく知ってしまっている。

「…………はぁ」

 さっきよりも深く、深くため息をつく。

「……それじゃあ、後期が始まるまでの仮入部ということで」

 長きに渡る逡巡の末、俺は諦めの色が滲みませながらそう答える。

 結局、彼女の目的もさっきの言葉の意味も何一つ分からなかった。けれど俺がここで後期が始まるまで、正確にいえば花火大会の日まで耐えれば、それ以降、彼女はもう何も言ってこなくなるだろう、俺はそう思った。

 きっとこれが一番いい選択なのだ。俺はそう強く自分に言い聞かせる。

「や、やったー!」

「……っ」

 彼女は目の前で高らかに声と腕を上げる。

「ありがとう、諫早くん! 花火大会以外にも、楽しい思い出いっぱい作ろうね!」

 ピンク色が鮮やかにその身を照らす。彼女はこれから起こるであろう騒々しい日々に胸を踊らせているようだ。他二人も彼女と一緒に笑みを浮かべる。

 俺は目が眩んでしまいそうな毎日に、少し憂鬱さを感じた。

「…………お手柔らかにお願いします」


 ……早く終わりますように

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