第14話「変質」
祠の暗闇を抜け、夜明け前の冷え切った荒野へと足を踏み出しても、二人の間に会話はなかった。「他者のために生きるのは、もううんざりだ」と言い放ったアイゼンは、一度も振り返ることなく、大股でただ前だけを見据えて歩いている。その少し後ろを、リンネルは黙々と付いていった。
袖で何度も拭ったはずの目元はまだ熱く、夜明けの風が容赦なくそこを冷やしていく。置いていかれなかった安堵と、アイゼンの抱える絶望の深さに触れてしまった痛みが、リンネルの胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
ハァ、ハァ、と自分の荒い呼吸の音だけが静まり返った大地に響く。
山を降りてからというもの、ろくに休息も取っていない。凍えるような寒さと疲労で、リンネルの足取りが次第に遅れ、アイゼンの背中がみるみる遠ざかっていく。
(置いていかれる……。付いていくって、決めたのに……!)
焦りで奥歯を噛み締めた、その時だった。
前方を歩いていたアイゼンが、ふと足を止めた。振り返りはしない。だが、彼は自分の背嚢を無造作に漁ると、中から一本の水筒と、厚手の旅用外套を引っ張り出し、後ろへと放り投げた。
「ひゃっ……!?」
慌てて受け止めたリンネルに、アイゼンは相変わらず冷徹な背中を向けたまま、吐き捨てるように言った。
「足手まといに道端で凍え死なれては目覚めが悪い。さっさとそれを纏え。水の中には体を温める薬草を混ぜてある」
「あ……」
他者のためには生きない、と冷たく突き放したはずなのに、リンネルの限界をきっちり見抜いて、最低限の、けれど確かな配慮を寄せてくる。その不器用な過保護さに、リンネルは鼻の奥がツンと熱くなるのを覚えながら、手渡された外套を頭から深く羽織った。まだほんのりとアイゼンの魔力の残り香がする外套は、驚くほど温かかった。
「……ありがとうございます、アイゼンさん」
「礼などいらん。歩調を乱すな、先を急ぐぞ」
アイゼンが再び歩き出す。リンネルは温かい水を一口含み、体に熱が戻るのを感じながら、今度はしっかりとその後ろ姿を追いかけた。
しばらく歩き、周囲の視界が開けてきた頃、リンネルは足手まといにならないことを証明すべく、自ら先を読もうと思いついた。ガダンが放った教団の刺客や、他のもののけが潜んでいないか、周囲の気配を索敵しようとしたのだ。
胸に手を当て、体内の魔力を練り上げて風の魔法を展開する。
しかし、その瞬間に、リンネルの胸の奥にこれまで経験したことのない悍ましい「冷気」が走った。
「ガ、ハッ……!?」
心臓を冷たい棘で直接突き刺されたような激痛。
リンネルの意思に反して、放たれた風は澄んだ無色ではなく、煤けたようなあの台座と同じ朱殷の赤黒い火花を孕んで歪に暴走した。風の刃が周囲の地面をめちゃくちゃに切り刻み、リンネルはその場に激しく膝をついて、胸を押さえたまま呼吸を乱した。
「リンネル!?」
異変を察知したアイゼンが、一瞬で距離を詰め、リンネルの前に膝をついた。その顔には、雪山で見せていた退屈な表情など微塵もない。
「どうした、何が起きた」
「魔力、が……。魔法を使おうとしたら、急に胸が……っ」
アイゼンは厳しい目つきのまま、リンネルの手首をガシッと力強く掴んだ。そして、己の魔力を流し込み、リンネルの体内の経絡を直接覗き込む。その直後、元英雄の青い瞳が、驚愕と、底知れない不気味さに大きく見開かれた。
「これは……何だ?」
アイゼンの声が、微かに戦慄に震えている。
「アイゼン、さん……?」
「……違う。呪いがお前を外側から侵食しているのではない。この朱殷の術式は……お前自身の魔力の『根』を、内側から貪り、吸い上げている」
それは、数百年の知識を持つアイゼンでさえ、これまでに見たこともない歪な構造だった。まるで、リンネルの豊富な潜在魔力を「極上の栄養」として吸い尽くし、その果てに何か別の巨大なものを育てようとしているかのような──悍ましい寄生。だが、その術式が一体何を目的としているのかまでは、この時点のアイゼンにはまだ判別がつかなかった。
「ガダンの奴、ただの呪傷の実験ではなく……お前の身体を使って、一体何を企んでいる……?」
分からないからこそ、底知れない恐怖が荒野の空気に漂う。
魔法を使えば使うほど、リンネル自身の魔力が呪いに吸われ、命が削られていくという残酷な現実だけが、そこに厳然と横たわっていた。
アイゼンはリンネルの手首を掴む手に、さらにぎゅっと力を込めた。
その瞳に灯るのは、冷徹な殺意と、絶対に目の前の少年を死なせないという強い執念が滲んでいた。
「……行くぞ、リンネル。お前の魔力が吸い尽くされる前に、あの男を燻り出す。まずは奴の情報が集まる、麓の交易都市へ向かう」
アイゼンはリンネルを抱き起こすようにして立たせると、今度は突き放すことなく、その小さな肩を並べて力強く一歩を踏み出した。まだ見ぬ深淵に潜むガダンという仇敵へ向けて、二人の、本当の追跡の旅が幕を開けた。




