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本日(4/15)2話同時投稿しています。
◇ ◇ ◇
煌々と輝いていた月が一瞬、陰ったような気がして、ネフィレイシアは顔を上げた。
夜空に浮かぶ月は変わらずそこにある。
気のせいかしら。思い、顔を正面へと戻せば大柄なエルドガルドの背が迫った。
グラニアの宮殿から追放されたネフィレイシアたちは、黙々と帰路についていた。
先頭をロアンデールが守り、その後ろにエルドガルドとネフィレイシア、レティと続いていた。
城を追われる際、鉄の錠は外されていたが、武器と魔法の杖は返してもらうことは出来なかった。ネフィレイシアたちがザレンチアノに到着した頃、転移魔法で送り届けてくれるのだそうだが、もう今更、そんなことはどうだってよかった。
俯き加減のまま、ネフィレイシアは重い足を引き摺るようにして歩く。
追い出されたばかりのグラニアの美しい宮殿が、後方でだんだんと小さくなっていく。
夜露に濡れ始めた草原を進みながら思い出すのは、もう二度と目にすることは出来ないだろうジュニアスの余裕に満ちた笑顔だった。
『──降参したら?』
ちょうどこの辺りだ。
ネフィレイシアは柔らかな土草を踏み、思う。
この場所で、そろそろ諦めなよ、と、何度も、何度も、彼に忠告された。
わざとらしく首を傾げる仕草も、細められた両目も、穏やかな声すら、鮮明に思い出すことが出来た。ネフィレイシアは、何度も何度も、何ヶ月も、彼とこの場所で戦っていたからだ。
魔物が出たら守ってくれたことも、呆れるほどよく覚えている。なのにネフィレイシアは、そんな優しい彼が何よりも大切にしている聖女を傷つけようとしてしまった。
謝罪なんかで、済むはずがない。
だからせめてと、ネフィレイシアは聖女の言葉通りに、故郷を目指して歩む。
遠くない未来、自分たちは一人残らずザレンチアノに蔓延している病に冒され、身体の自由を失っていくことだろう。そうしてゆっくりと、闇の国も民も滅びていく。──それが、罰だった。
暗い草原を進みながら、ネフィレイシアは呪文のように謝罪を繰り返す。
本当に、ごめんなさい。
それでも願ってしまうのは、どうかこれから先、彼らには幸せになって欲しいということだった。自分たちのように復讐に囚われず、生きて欲しいと。
夜風が吹いて遠くに見える黒い森が、ざわざわと鳴った。
「あの森を抜けよう」とロアンデールが囁き、ネフィレイシアたちは無言で頷く。
草原はすでに、ユナの加護の外だった。いつ魔物に襲われてもおかしくはない状況で、しかもネフィレイシアたちには身を守る術もない。もしもの時は、ロアンデールもレティもネフィレイシアも、エルドガルドの身を優先するつもりでいた。
月明かりだけが頼りの夜。
互いの影さえ朧げな視界で、だからネフィレイシアは闇夜に上手く溶け込んでいた魔物の存在に気付くことができなかった──。
ごう、と轟くような音が鳴った次の瞬間、エルドガルドの低い呻きとともに、豪風がネフィレイシアを襲った。眼の前で、エルドガルドの大きなが影がぐらりと傾き、地に倒れる。
「……っ! 陛下!」
駆け寄ろうとしたネフィレイシアを、別の魔獣──大型の魔鳥だ──が、その鋭い鉤爪を広げて飛び降りてくる。
防げない──
恐怖に硬直し、思わず両目を瞑ってしまう。
しかし、いつまで経っても想像していた痛みも衝撃も訪れることはなかった。代わりに、覚えのある息遣いが聞こえて、ネフィレイシアはそっと目を開く。
「──!」
(どうして……?)
そこには、剣を構えて魔鳥と相対するジュニアスの姿があった。月明かりに鮮やかな金髪が輝いて、白い騎士服は一層際立って見えた。彼が力任せに剣を薙ぎ払うと、魔鳥は耳障りな悲鳴をあげて闇夜に浮上した。大きな羽が数枚、灰のように落ちてくる。
ネフィレイシアはジュニアスの金色の肩飾りが揺れるのを信じられない思いで見つめていた。
「ジュニアス……? どうして」
「話はあとだ! 伏せていて、数が多すぎる」
余裕がないのか。ジュニアスはいつになく焦った様子で叫んだ。見上げれば、ジュニアスの言った通り複数の魔鳥が上空を囲み、誰がどの人間を襲おうか、相談するみたいに旋回していた。先刻、グラニアの宮殿から獲物がのこのこと出てくるのが見えていたのだろう。待ち構えていたのだ。
「陛下、陛下……! ご無事ですか」
背後からユナの声までして、さらに驚いたネフィレイシアは振り返る。ユナは倒れているエルドガルドのそばに屈んでいた。治癒魔法まで使いだしている。状況が飲み込めず立ち竦むネフィレイシアを、ジュニアスがもう一度怒鳴りつけた。
「早く! 屈んでユナのそばへ! そっちの、赤毛の君もだ!」
突然向けられた怒号に、悲鳴のような返事をしたレティは、ネフィレイシアの腕を掴んでユナのそばでしゃがんだ。
「どうなってるの? ネフィ」
「私にもわからないわ」
エルドガルドの止血を終えたらしいユナが、口早に事情を話す。
「あなた達を送り出した後、城から魔物の群れが見えたんです。それで──助けに」
「……どうして? 私たちはあなたを、利用しようとしたのに」
言い淀むネフィレイシアを、ユナは眉を寄せたまま見つめ返す。そうして数秒の間を置いた後、引き結んでいた唇を開いた。
「……助けたかったからです」
論理的ではない、なんの理由にもならない。感情のままの答えに、ネフィレイシアは困惑を深める。
「助けたかったからって」
この少女もジュニアスも、一体どこまでお人好しなのだろう。ついさっき、自分たちに騙されそうになったばかりだと言うのに。
「そんなことで……」
ばかだ。愚かだ。そんなだからこんな目に遭うのだ。
けれど、そう思うよりも先に、ネフィレイシアは泣き出しそうになっていた。完敗だ。こんなに優しい子を騙そうとした事実が情けなくて、居た堪れない。自分には、助けてもらう価値もない。
ユナを見ていられなくて顔を逸らしたネフィレイシアに、呆れられたと勘違いしたのか、ユナは懇願するように言った。
「お願いネフィレイシア、私は陛下を見殺しにするなんて出来ない。ザレンチアノに着くまででいい。助けさせて」
必死なユナの声に、仰向けに倒れていたエルドガルドがゆっくりと片手を上げた。
「陛下、お気づきに」
はっとしてユナが身を屈める。エルドガルドは、薄く目を開けたまま、ユナを見上げた。
「……君には、助けられてばかりだな」
「いいえ」
ユナは震える声で言って、顔を左右に振った。そうして宙にあったエルドガルドの手を自身の両手でしっかりと包み込む。
「それは違います。助けられていたのは私の方です。あなたといると、私は孤独を忘れられましたから」
「……孤独? 君が?」
「はい──……私は本当は、余所者で、グラニアどころかこの世界の人間でもないから」
どういう意味だと、エルドガルドが眉を寄せる。ユナは悲しげに笑った。
「私は子供の頃、別の世界から召喚された異界の人間なんです」
突然の告白に、エルドガルドもネフィレイシアも、レティたちも大きく目を見開く。
聖女の召喚。噂には聞いたことのあった伝承。夢物語だとばかり思っていたが、ユナの桁違いの魔力を知った今は、逆に腑に落ちるところがあった。道理で異常な魔力を有しているわけだった。
ユナは静かに言葉を紡いだ。
「召喚されたばかりの子供の頃は、知らない世界で、聖女なんて役を押しつけられて泣いてばかりだったんですけど、ジュニアスもお父様もお母様も、みんな、いつも優しくしてくれて。だからこの世界で生きてみようって思っていたんです」
でも、とユナは続けた。
友人が出来ても、聖騎士たちがそばにいてくれても、笑わせてくれても、誕生日を祝ってくれても、側から見ればどんなに幸せな生活を送らせてもらっていても──それでも、心の穴が完璧に埋まることはなかった。そうして、そう思ってしまう自分に、ユナは罪悪感を抱いてたという。ジュニアスたちがどんなに尽くしてくれても満たされないだなんて。
でも、やっぱり元の世界は恋しかった。
生き別れになった本当の家族は、友達は、今どうしているだろう。
自分を探し続けているのだろうか。それとも忘れ去られたのか。
わからない。知ることも出来ない。
けれど考え続けてしまい、いつまで経っても、本当の意味でこの世界の人間には成りきることが出来なかった。
「そんな時です。陛下にお会いしたのは。それから……あなたを好きになって、もしかしたら、私は陛下に会うためにこの世界に呼ばれたのかもしれないなんて思ってしまったんです。私の本当の世界に、そんなお話があったから」
ユナは照れたように笑った。
「……私は仮にもグラニア側の人間だから、憎まれるのも仕方ありません。でも、今だけは助けさせてください」
言ってユナはエルドガルドたちに加護を授けた。ユナに触れられたとたん、ネフィレイシアは、暖かなものが身体に流れ込んでくるのがわかった。ユナの魔力だ。気づけば、ネフィレイシアの手の傷も、ロアンデールの怪我も治っていて、これが異界から呼ばれた聖女の真髄かと驚かされる。重宝されるわけだ。
「話は終わりましたか」
びゅっと剣を振る音がして、魔鳥を片付け終えたジュニアスが歩んでくる。周囲を見渡せば、あんなにたくさんいた魔鳥は一羽も残らず夜空から消え去っていた。彼もやはり、化け物クラスの騎士なのだ。
「ジュニアス」
ネフィレイシアはよろけそうになる足で立ち上がると、彼に向き直った。数歩の距離を空けて、立ち止まる。それ以上は近づいてはいけない気がした。月光を浴びて佇む聖騎士が、夢のように美しかったからだ。
襤褸のローブをまとった悪しき魔女、ネフィレイシアはおずおずと尋ねる。
「……怪我はない?」
「うん、君は?」
「ユナが守ってくれたから」
「……そう……よかった。間に合って」
ほっとしたように息をつかれて、ネフィレイシアの胸の奥がつきりと痛む。やはり好きだと思った。
「ジュニアス、ありがとう」
いつも助けてくれて。
じっと瞳を見つめ返して言えば、彼は戸惑うように口をつぐんだ。
父は殺され、母は今も病に冒されている。その事実は変わらない。
子供の頃から憎しみを教えられ、その因習に囚われたネフィレイシアは、ずっとそこから動けないままだった。彼らが本当の意味で悪いわけじゃないと、理解してからもだ。母や親友のように、目を覚ますことができなかった。
そしてこうなってしまった以上、もう、好きだと伝える資格もない。
「もう大丈夫。ごめんなさい、最後まで迷惑をかけて」
気持ちが溢れそうになったネフィレイシアは、自身でも気づいていなかった。
焦がれるような瞳でジュニアスを見上げていることに。
たまりかねたみたいに、ジュニアスが一歩だけ近づく。
「ネフィレイシア。ユナの転送魔法でザレンチアノまで送らせて欲しい。これはユナと俺の個人的な希望だ」
心がはねるような嬉しい申し出に、けれどネフィレイシアは頷くことはできなかった。
「気持ちはありがたいけど、道はわかるから平気よ。ベルティオさんたちに内緒できてくれたんでしょう? 転送魔法なんて使ったら、流石にわかっちゃうわ」
大魔法だもの。言いながら、喉の奥が締まっていくのがわかった。話せば話すほど、想いが高まっていくようだった。
「本当にありがとう。今までずっと助けてくれて。でも、もういいから。ユナを傷つけて、ごめんなさい」
「ネフィレイシア」
深く眉を寄せたジュニアスがもう一歩近づいて、ネフィレイシアの細い手首を掴む。驚きに身を竦ませたネフィレイシアを、ジュニアスは苦渋の表情で見下ろした。
「……怯えないで。俺は君を傷つけるために来たんじゃない」
落ち着かせるように言ったジュニアスは、瞳を揺らがせていた。熱い視線に、ネフィレイシアの心臓がざわつく。緊張に満ちた声が降ってきた。
「君が好きだ。君たちが俺の国を恨んでいるのはわかってる。でも……好きなんだ」
ジュニアスが私を?
そんなこと、あるわけがない。でも、すぐ眼の前にある彼の瞳は、苦しみに歪められていた。私と一緒だ、とおこがましくもネフィレイシアは思う。絶望と希望の間で彷徨っている。そしてだからこそ、彼が本音を告げているのだと確信することが出来た。
「ザレンチアノに戻っちゃだめだ。俺とユナで、君たちのことは必ず守る。だからもう一度信じてくれないか」
掴まれた手首が熱かった。強く握りしめられているからだ。
ネフィレイシアの瞳に、知らず涙が溜まっていく。
「……私は、ユナを利用しようとしたわ」
「謝ってくれた」
「あなたのことも、信用してなかった」
「俺も最初は、君のことを信用していなかった」
ジュニアスは、手首を掴む力を緩めて薄い皮膚をたどり、ネフィレイシアの指先を握りしめた。そのまま身体の距離を詰められる。気づけば額をすり合わされ、腰にも彼の手が添えられていた。寄せられた体温の心地よさに、ネフィレイシアは両目を閉じる。熱い涙が頬を伝って、土草の上にぽとりと落ちた。
「許しあおう。そうしなきゃ、俺たちは前に進めない」
ユナやジュニアスが味方になってくれたとしても、もう一度ネフィレイシアたちが光の国に戻ることは、簡単ではないだろう。ネフィレイシアは大罪人で、罰される身だ。それでも、何度裏切られても構わないと、ジュニアスは繰り返す。
「好きなんだ。家族や国を一生懸命に守ろうとしている君が、ずっと好きだった。これからは一緒に生きて欲しい」
だめだ。これ以上ジュニアスを巻き込んじゃいけない。そう頭では理解できても、ネフィレイシアは彼の手を振り解くことが出来なかった。応えたいと思ってしまった。
迷いながら、ジュニアスの硬い騎士服の胸元を掴む。顔を上げて、締まる喉の奥から必死に声を絞り出した。
「私も、ずっとあなたが好きだった」
細くかき消えそうな告白は、ジュニアスの耳にしか届かなかっただろう。だけど、それで十分だった。月明かりの下、ジュニアスが泣き出しそうに瞳と唇を震わせて微笑む。互いにわかっていた。前途多難な恋だと。それでも、引き返すなんてことは出来ない。
「お願い。一緒に生きて」
ネフィレイシアの懇願に、ジュニアスは頷くと、その広い胸の中へと抱き寄せた。
「もちろんだよ」
温かい胸の中、髪を撫でられ、耳元で優しい声がして、不安が少しだけ溶けていく。憎しみはもういらない。復讐も考えなくていい。そう思うだけで、心が軽くなっていく。
背後の暗闇で、ユナとエルドガルドたちも同じような話をしていたのかもしれない。
それから静かに話し合いを重ねたネフィレイシアたちは、もう一度宮殿の一室に迎えられ、翌日、グラニアの郊外にある屋敷へと──軟禁された。




