『因果の選択』
社会的な絶望の底で、ただ無為に時間をやり過ごしていた時、視界の端に、何かが動くような得体の知れない「空間のゆがみ」を感じた。
目を凝らしてみると、壁に埋め込まれるようにして、昭和の初期によく見られた縦型の、古ぼけた白いスイッチが現れていた。
2026/10/2
「ちょっと、信田さん困りますよ! 何回同じミスしてるんですか!」
施設長のトゲのある声が、静まり返った夜のフロアに響いた。
また、やってしまった。若い頃ならすぐにリカバーできたような単純な書類の記入ミス。しかし、今の自分にはそれを取り返す気力も時間もない。周囲の若い介護スタッフたちの冷ややかな視線が背中に突き刺さる。自分の限界の天井は、もうとっくに見えていた。大阪の介護職という、体も心もすり減るような過酷な現場。組織の中で自分の居場所が少しずつ、しかし確実に削られていく。
疲れ果てて帰宅し、静まり返った部屋で一人、天井をぼんやりと眺めていた。
ポケットから取り出して机に放り投げた、財布の中のディスカウントストアの会員証が目に入る。
【生年月日:昭和51年10月2日】
今年で50歳。年齢の数字だけが、残酷に現実を突きつけてくる。
「誠司! ご飯できてるよ」
台所から、一つ上の妻・佳枝のそっけない声が聞こえる。普段なら何でもないはずのその呼び捨ての響きが、今日に限っては妙に重く耳に残った。
俺には佳枝も、長女の芳香も、次女の智花もいる。家族のために、仕事なんて辞められるわけがないんだ。
自分に言い聞せるように、何度も心の中で繰り返す。転職したって、この年齢から一からやり直せることなんて、もうほとんど残されていない。そんなことは痛いほど分かっている。
分かっているのに、すべてを投げ出してしまいたいという狂おしいほどの離職の衝動が、どうしても収まらない。最近は、常に腹を立てていた。大した理由もないのに、何に対してもイライラし、怒りの矛先を探している。
そんな終わりの見えない絶望の底で、ただ無為に時間をやり過ごしていた時、視界の端に、何かが動くような得体の知れない「空間のゆがみ」を感じた。
目を凝らしてみると、壁に埋め込まれるようにして、昭和の初期によく見られた縦型の、古ぼけた白いスイッチが現れていた。
なんだか無性に懐かしく、何でもないその白いスイッチ。私は吸い寄せられるように手を伸ばし、ほんの興味本位で、それをパチンと上にあげた。
――その乾いた音が、すべての始まりだった。
視界が急速に反転し、私の意識は、現実から遠く離れた別の場所へと引きずり戻されていく。
見渡す限りの暗闇の中、数え切れないほどの丸い「白いたま」たちが漂っていた。
ここは霊の世界などではない。私の人生を上から値踏みし、おもちゃのように弄んで「遊ぶ」、不愉快な白いたまたちの作業場だ。彼らが遊んでいる間、人間側にとってはそれが「現実そのもの」の苦しみとなる。
私はスイッチを押したことで、自分がその「たま」の一玉に過ぎなかったという、世界の狂ったルールを完全に思い出した。
「たま」の世界には階級がある。分かりやすい富や名声を受ける人生を喜んで選ぶ「新人のたま」。逆に、名声も富も得られずすぐに死ぬ人生や、絶望的な孤独をあえて選ぶ「ベテランのたま」。
たま同士の事前の約束で、現実世界でのあり得ない運命的な出会いや付き合いもすべて決まる、ただの遊び。
そして何より、大阪の介護職として50手前でのたうち回るこの絶望のシナリオを、ニヤニヤしながら選んだのも――他ならぬ「俺自身のたま」だったのだ。
周囲を見渡せば、そこには様々な形状のスイッチが無数に並んでいた。触らなくても、見るだけでそれが何を起こすスイッチなのか、直感的に脳内に情報が流れ込んでくる。
明日お金が降ってくるスイッチ。明日交通事故に遭って人生をリセットするスイッチ。その横には、異世界へ転生できるスイッチ。
――うーーん、と私は唸り、激しく葛藤する。異世界へ逃げ出すか?
いや、違う。私の脳裏をよぎるのは、あの生々しい現実の、家族の記憶だった。
あの時に、ああ出来ていたら。あの時に、あっちを選んでいたら。あの時に、あの時に……。
50年の人生で積み重ねてきた、無数の「もしも」が頭から離れない。
私の視線は、過去にさかのぼり、過去を修正することができるという「スイッチ」に釘付けになった。
本来なら、そのままシナリオ通りに押し流されるはずだった。だが、この記憶の覚醒と執念は、システムにとって完全なイレギュラー。文字通りの「バグ」だ。
思い出した。このままいけば、56歳になった俺は、あと6年後には死ぬ運命になっていた。それも全部、あのたまが仕組んだ悪趣味なプロット通りに。
さらに、脳裏に冷徹なシステムのアラームが響く。これ以上過去へ遡れば、長女・芳香の因果データが消失するというエラーコード。
長女の芳香を、そして次女の智花を無事にこの世に誕生させるのは大原則だ。だが、俺が1998年5月を目指す本当の目的は、別にある。
あの時代、まさにその引き金を引こうとしている、22歳にもどるのだ。
かつて、あの分岐点で、56歳の破滅へと続く人生のルートを自ら選択してしまった、過去の俺。何も知らずにそのルートを選択しようとしている自分自身に対して、力づくで「ルート変更」を要求する。
それこそが、過去へ飛ぶ真の目的だ。
激しい時空の負荷のせいか、脳裏に謎の文字列が焼き付いて離れない。
――後から何かが起こる、バグの予兆のような不気味な暗号。
「ふざけるな。俺は、親愛なる家族を弄ぶ、そして『たま』の思惑通りにだけは絶対にならない」
選択肢を誤らず、佳枝を、芳香を、智花をもう一度幸せにしながら、今度こそ最高の人生を味わい尽くしてやる。誠司は激しい怒りとともに、パラレルワールドへのスイッチに手をかけた。




