十六 アンナプルナへ
宴の席は、笑い声に満ちていた。
だが——白馬には、それがどこか遠くの音のように聞こえていた。
狂花は酒も飲めないくせに、甘酒を片手に語っていた。
「私は道場の生まれでな。才能がなくて、毎日叩きのめされていた」
笑っているが、その目は笑っていない。
「これは、師匠の言葉で、負け犬になるのは構わない。だが——負け犬で居続けるか選べってな」
その言葉に、場の何人かがわずかに目を伏せた。
「負けることでしか、人は自分の弱さを知れない。弱さを知らない奴は、必ず誰かを壊す」
白馬は、静かに息を呑んだ。
「だから私は負け続けた。その先にしか、勝ちはないと信じてな」
狂花は笑う。
「私は負け犬の遠吠えって言葉が好きでな」
その笑みは——どこか楽しげで。
「吠えるだけじゃなく、努力による意味付け。努力を繰り返し、吠え続ける」
狂花は言う【それは最強じゃないか】と。
「うちはそういう連中の集まりだ」
誰も否定しなかった。
その事実が、何よりも重かった。
---
白馬は、宴を抜け出した。
賑やかな音が、背後で遠ざかる。
外に出ると、空気が冷たかった。
庭園は整えられているはずなのに、どこか“生きていない”ように感じる。
そして——
一人の少女が、立っていた。
薄汚れた布で身体を隠し、寒さを感じていないかのように無表情で。
紫の髪に、黒のメッシュ。
青い目だけが、やけに生々しい。
「お兄さん、私を買わない?」
あまりにも自然な言葉だった。
日常の挨拶のように。
白馬は言葉を失う。
「……」
「童貞でしょ?」
少女は、微笑む。
その笑みは——人を試すような笑みだった。
白馬は、思わず笑ってしまった。
可笑しかったからじゃない。
“そうするしかなかった”。
「……ここでは普通なのか?」
「普通だよ。生きるために、体を売るのは」
あっさりと答える。
そこに、悲壮感はなかった。
ただ——“諦め”があった。
「お兄さんは、テロリスト?」
「まあ、そんなところだ」
「じゃあさ」
少女は、一歩近づく。
距離が近い。
逃げ場がない。
「私を連れてってよ」
唐突だった。
だが、その目は本気だった。
「……理由は?」
「ここにいると、いつか壊れるから」
白馬は、息を止めた。
「もう半分壊れてるけどね」
少女は笑う。
今度は、少しだけ自嘲が混じっていた。
「名前は?」
「ALICE」
「……アリス」
「うん」
白馬は、少し考えてから言う。
「ボスに話は通す。でも——」
「うん」
「仲間になるってことは、“そっち側”に落ちるってことだ」
「もう落ちてるよ」
即答だった。
迷いは、一切なかった。
白馬は、何も言えなくなる。
少女は、布を少しだけ持ち上げる。
「それでも買わないの?」
試すように。
壊れた価値観を押し付けるように。
白馬は目を逸らす。
「……やめた方がいい」
「それしか知らないから、無理」
静かな返答。
その重さが、胸に刺さる。
「……また明日」
少女は手を振る。
「予約あるから」
その言葉だけが、妙に現実的だった。
---
宴に戻ると、白馬は狂花に話をする。
狂花は少しだけ考え——
「いいだろう」
あっさりと言った。
「ただし、壊れるなら使い潰す」
軽い口調だった。
だが、冗談ではなかった。
「それでもいいなら連れてこい」
白馬は頷くしかなかった。
---
部屋に戻ると、ミナサが寝ていた。
無防備な寝顔。
戦場では見せない顔。
白馬は、そっと彼女を運ぶ。
その軽さに、少しだけ不安を覚えた。
守れるのか、と。
ベッドに倒れ込む。
意識が沈む直前——
アリスの言葉が、頭から離れなかった。
「ここにいると壊れる」
その言葉が、妙に引っかかる。
まるで——
自分にも向けられているようで。
---
朝。
庭園には、アリスがいた。
昨日と同じ場所で。
まるで、そこから動いていないかのように。
「おはよう」
「……おはようございます」
白馬が告げる。
「ボスは了承した」
その瞬間。
アリスの表情が崩れた。
「……そっか」
涙が零れる。
声は震えているのに、どこか安堵していた。
「やっと……終われる」
白馬は、その言葉に引っかかった。
“始まる”じゃない。
“終わる”。
それが何を意味するのか——
深く考えるのを、やめた。
---
こうして、アリスは神殺しに加わった。
リナと、アリス、あの冷たい目のララス。
三人の“守るべき存在”を増やして。
いや——
本当に守れるのか。
その答えは、誰も持っていなかった。
---
アンナプルナへ向かう車内。
ミナサは目を合わせない。
頬を赤く染め、視線を逸らす。
傭推は小さく笑った。
「青春だね」
だが、その声の奥には——
どこか諦めが混じっていた。
---
山麓に到着する。
冷たい空気。
静かな圧力。
アンナプルナは、ただそこに在る。
圧倒的な“何か”として。
白馬は思う。
この先で——
何かが変わる。
そんな予感だけが、確かにあった。




