16:第二王子
「おはようございます、ヘリオドール殿下」
まだ幼い王子に声をかける。そんなアルヴァーにヘリオドールは椅子からぴょんと降りて、タタッと駆け寄った。
「おはよ、アルヴァ!今日もへらへらしてるね!」
「あはは、そうでしょうか。殿下、今日は引き続き薬草のお勉強ですよ。森へ行って」
「森!」
アルヴァーの言葉にヘリオドールはパッと目を輝かせる。彼は、ヘリオドールの名のごとく太陽のような性格をしている。無邪気な顔を見ているとこちらまで笑顔になってしまう。相手は王子殿下だが、アルヴァーにとっては弟のような子どものような生徒のような存在だ。
「早く行こう!」
ぐいぐいとアルヴァーを引っ張る幼い手がとても暖かい。
3年前、ヘリオドールは第二王子としてエメラルドの国に生まれた。「生まれる」ということは喜ばしいものであるはずなのに、王子の誕生は宮殿中を落胆させた。
第二王子にも紋章が無かった。
まるでトランプのババを引いたときのようだった。誰もが「ハズレ」だ、と感じてしまった。
その時の心地悪い空気は今思い出しても不愉快なものだ、とアルヴァーは思う。
エメラルドの国では紋章を持つものが次期国王になる、というのが建国以来の決まりである。
この国には「魔術」というものがある。魔術はどこにでもある「要素」と呼ばれる自然物質に干渉することで発動するものである。火・水・電気・空気・重力・金属……要素の種類は多様で、魔力さえあれば全てを同じように操れる、という訳ではない。当然術者の個性によって、干渉しやすい要素しにくい要素がある。
紋章は全ての「要素」に干渉できるもので、全ての要素と人を繋ぐものである。紋章を持つものが居なければ国民は魔術自体を使用することが不可能となる。魔力がいくら有っても、使用した魔術式に「応えてくれる要素」が無ければどんな魔術であろうが使えない。それがたとえアルヴァーのような高位の魔術士であっても。
逆に紋章を持つ者が治める国に属す民であれば、魔力さえ有ればどこに居ても魔術が使える。いわば国王は魔術の窓口のようなものなのだ。
紋章を持つ者の直系からしか紋章を持つ者は生まれない。だから、紋章の無い第一王子も第二王子も王位には就けないしその子が生まれても紋章は無いし王位にも就けない。
そのため紋章を持つものが生まれるまで、何度も何度も次期王の魂を捕らえる儀式を続ける。そうしてこの国は数百年もの歴史を紡いで来た。
たとえ紋章がなくても王族であれば1つの要素と深く関わりを持ち、生きているだけでその要素を国民がより深く使用出来るようになる。ゆえに王族であるというだけで、もうすでに「価値」はある。人間を「利用価値」の有り無しで判断することは不快ではあったが、国民の税で生きる王族であるが故に国民にとっての利用価値を基準に見られてしまうのは致し方ない。紋章の有無以外に王子達の存在を肯定する道具としてその「利用価値」は必要なものであった。
一般人と違い、生まれた瞬間から他人に利用されることにのみ価値を見出される道具のような存在。それが王族。
ヘリオドール王子に紋章が無いかも知れない、とアグネッタから聞かされたときユッシとアルヴァー以外の魔術士はガックリとうなだれたものだった。
今回は失敗だ、そう誰かが呟いた時に「命に失敗も成功もない。生まれて来てくださることを称えましょう。神が与えた役割にはきっと意味があるのだから」と言ったアグネッタの言葉には胸が打たれた。
その後ユッシをチラと見たアグネッタの仕草から、きっとユッシの受け売りなのだろうと思ったがそんなことはどうでも良かった。生まれて来ることだけに価値を見出すその言葉こそアルヴァーの求めていたものだと気づいたから。
数年前アルヴァーは高位の魔術士になり、次期国王になるやも知れぬ魂を集める儀式に携わるようになった。
次期国王に関わることであるから、大変名誉なことである。事実アルヴァーもこの仕事を与えられた当初はとても誇らしく、ただただ次期国王の魂をこの手で集めるのだ、と無我夢中で儀式に参加していた。
しかしそのうち、自分の中に疑問が吹き出すようになった。何故儀式で魂を集めるのか、その魂はいったいどこから来たのか、何故青なのか、魂には前世があるのだろうか、あったならばどんな人物だったのか。
アルヴァーは他の魔術士と自分の儀式に対する考えが離れてしまったことを感じた。
ただ王となるであろう魂を「集める」ことに重きを置く魔術士達と、王となる「魂自体」に興味を抱くアルヴァーとは儀式に対する気持ちが根本的に違っていたのだ。
今の高位魔術士の中ではアルヴァーが最年少なので周りには従うが、儀式自体にもはや良い感情なども持てず、ただただ上のような事ばかり考えていた。
無機質、無機質。
国王陛下、次期国王殿下。そう呼んで敬意をはらっても、結局魔術士も国民も本当にはその人物自身に目を向けない。魂を集める時点で、無意識に次期国王自身以外にとって都合の良いものを求めているだけだ。
生まれる前から「人」ではなく無機質なものとして扱っているのだと彼らは気づいているのだろうか。
アルヴァーは2人の王子が好きだった。例え次の王では無くともたとえ要素を操れなかったとしても、自分たちが集めた青の魂であることは確かなのだから。アルヴァー達が望んで捕まえた魂のどこを嫌いになれようか。
僕は彼らを何者でもない「彼ら」として愛したい。それは驕りであろうか?
ガタンガタン
小さな馬車に乗り、宮殿から少し東にある森に向かう。十数人の兵士が王子の護衛のために、馬に跨がり馬車と並走していた。
街を抜け、民家を抜け、徐々に自然の緑が目の前を占領しはじめる。もうしばらくすれば森に着くだろう。
目的の森は一応は王の土地とされているが、柵で囲ってある訳ではないので誰でも入る事が出来る。城下街の一番近くでは、そこが山菜や薬草が一番採れるのだ。だから一般国民も自由に利用出来るようにとの、王の計らいなのである。
「良い匂いがする!」
馬車からひょこっと顔を出し風景を眺めていたヘリオドールが鼻をひくつかせて笑う。森に行く事などめったに無いのでいつもよりもはしゃぎ、一層元気が良く見えた。
「これは森の匂いですね。青々と茂る木と草と水と少しの光が混ざった匂い。夏の森の匂いです。冬になるともっと違う匂いがしますよ」
街、家、空、雲、草。ほとんど宮殿の外に出た事の無いヘリオドールにとって、全てが新鮮で不思議なものばかりだった。
景色が変わるたびに王子は質問をし、アルヴァーはそれに答える。森に着くまで馬車の中で続いたそのやりとりを、兵士達は微笑ましく聞いていた。
「殿下、これはなんという植物か覚えていますか」
地面に片膝をつき、アルヴァーはそっと右手で草を触る。
「この前習った!ツルハツナギ、解毒草!」
森に着くと、二人はさっそく薬草の授業を始めた。前回の復習と実物を見ながらの授業は王子には宝探しのように映ったようだ。いつも机でお勉強をしている時よりもずっと楽しげであった。ただの詰め込み授業よりも、うまく興味を持たせて本人が学びたいと思うように誘導するのが、教師役としての真の役目だとアルヴァーは思う。
「正解です!よく覚えていらっしゃいましたねぇ、流石です。じゃあ次は『薬草』を探してみてください。多分この辺りにいくつかありますから」
「えっとねぇ、待ってて!」
わーっと駆けて行く後ろ姿を見る。王子の後に続き護衛の兵士が数人ぱたぱたとついてゆく。急に走ったと思ったらパッと止まったりする小さい主に護衛する方はいつもてんてこ舞いだ。
3歳で学問など早いと思うだろうか。存在が価値になるといっても、王族である以上民の上に立つのは避けられない。上に立つ者が知識も力も無いなど許されるものではない。ゆえに早くから少しずつ学び始める。知識を貯えることに歳など関係がない。
ドカリ、とその場に腰を下ろす。瑞々しい草達が少し潰れ真っ白いローブにシミを作ったが、アルヴァーはまったく気にせずに空を見上げる。
なんていい天気だろう。このままここに寝転がってしまってはいけないかなぁ。そう思うが一応、国の高位魔術士としてこの森に来ているのだからそんなみっともないことは許されないんだろう。現にアルヴァーが地べたに座り込んだことにさえ兵士が顔をしかめていた。これ以上してはどんな小言を言われる事か。
小さな商家生まれのアルヴァーにとって、本当のところ王や貴族のしきたりやマナーなど堅苦しくて適わないのだが国に仕えてしまった以上は従わなければ仕方ない。
その後しばらく何も考えずに、ぼけっと雲の流れを見ていた。静かな時間がゆっくりと流れる。
「アルヴァー、何か変な匂いがする!」
突然横から声がする。ぼーっとしすぎて、薬草探しに行っていた王子が戻って来た事に気づかなかったらしい。
「変な匂い、ですか?」
質問の答えが分からずに聞き返す。声がぽかんとしてしまう。夢想の世界から引き戻された心はまだ少し現実味がない。
そんなアルヴァーをよそに、こくん、と頷く顔には不安の色が張り付き身体は固くこわばっている。薬草を探しに行ったはずなのに手に持っていない。どうも普通ではない様子に、ようやく覚醒したアルヴァーはすんすんと辺りを嗅ぐ。何も匂わない。強いて言えば、
「森の匂いですか?」
馬車で嗅いだのと同じ森の柔らかな匂いぐらいだろうか。
「違う!帰ろう!」
涙目の王子は真剣そのもので、本当に不快な匂いがするのだと訴える。アルヴァーには何も匂わないが王子にはそれが強く分かるのだろう、気のせいなんかじゃないぐらいに。
嫌な予感がする。
「あの、何か変わったこととかありました?」
王子の護衛にと着いて行った兵士の1人に声をかける。もしかして、薬草を探しに行った先で何か変なものでも見たかもしれない。
「いえ、我々が見たところでは静かなもので、不信なことは特にありませんでした。しかし、殿下は……」
「しばらく走った後、急に戻りたいとおっしゃられて……」
「薬草を見つけなくてもよろしいのですか、とお聞きしても『いいから!」と……」
兵士達が代わる代わる話す。皆同じように困惑した表情を浮かべる。ただの子どものわがままのようにも聞こえるが、それにしては切羽詰まっていることから笑い事で済ませる事が出来なかったらしい。
「殿下には何か分かるのかもしれません。とにかく一旦ここから離れましょう」
何もなければまた戻ってこれば良いだけの話だ。だから今は。
王族だから何か特別な力が有るのかも知れない。危険予知かただ嗅覚が鋭いだけかは分からない。しかし王子の様子にアルヴァーは不安になる。
そういえば、静かすぎる。
静かすぎるのだ。鳥の声も小動物の生み出す音も、「要素」の作る音も。全てが不自然なぐらいにしなかった。
嫌な予感がする。
突然遠くから大きな咆哮が聞こえた。呼応するように鳥達が一斉に羽ばたいて行くのが見える。ただの予感であって欲しかった。
この辺には出ないはずだから大丈夫、そう思っていたがまさか。
「魔物だ!」
アルヴァーは叫んだ。
姿はまだ見えない。しかし確実にこちらに近づく低い声と、ドスッドスッという重い足音。
想像より素早い音に、周りの空気が一気に緊迫する。
「全員殿下を守り速やかにこの森から退却!」
兵士隊長が声を上げる。それに反応し兵士達が動き出す。
誰もが想定外の自体に動揺を隠しきれていない。
そもそもこの森に魔物が居る事自体おかしいのだ。森には魔物除けの結界が張ってあるし、それでなくともこの辺りに魔物が出るなんてここ50年ほど聞いた事も無い。
もう少し遠くまで行けば魔物の多い所もあるが、地形の関係からエメラルドの国の近くでは魔物の目撃例は無い。
一体どうして。
「だめだ、来るぞ!」
ドォンという音がしたかと思うとアルヴァーの身体は吹き飛んだ。同時に木に背中を思い切り打ち付ける。
「いっ」
体中に走る痛みに抗い必死に目を開けると、真っ黒い獣の姿が瞳に映る。
全長5mほどで犬に似た姿形。それなのに黒い鱗が全身を覆い、どす黒い煙が滲み出ている。真っ赤な目をギラギラと血走らせギョロギョロと辺りを見回している。
その姿は狂気そのものを具現化したようであった。
アルヴァーはとっさに空に指で円を描き、それを押し出すように手の平を思い切り前に突き出した。
「ギャウン!!」
円はキラリと青白く光り、球となって魔物を囲った。遮断の魔術だ。味方のガードに使う事もあるがこうして敵を閉じ込めてしまう事も可能である。
囲われた魔物は球から逃げ出そうと狂ったようにバタバタと身体を打ち付けるがびくともしない。先ほどの音と衝撃はおそらくこの魔物のものである。
「アルヴァー殿、大丈夫ですか!」
「まあ、なんとか」
兵士がアルヴァーの元に駆け寄る。アルヴァーはへらりと笑うと兵士に手伝ってもらい、ふらつく身体を無理矢理起こし辺りを見渡す。
アルヴァーの周囲には同じように吹き飛ばされた兵士達の姿があった。大きな怪我をしている者は居ないようだったが、打ち所が悪く気絶しているものも見える。
兵士隊長と数名はあの激風にも耐えられたようだ。魔物に向けて剣を抜き、警戒態勢を取っている。しかし、おそらくは魔物とどう戦うかまだ必死に考えているところだろう。兵士達はシミュレーションで対魔物の練習はするが、本物など見るのは初めてだろう。しかも、個体ごとに形の違う魔物の対処は難しい。
「アルヴァー殿あの魔物は、あの球は一体」
「殿下!ヘリオドール殿下は!?」
アルヴァーはハッとして幼い王子の姿を探す。逃げきる暇などなかったはずだ。兵士の質問にもろくに答えず辺りを見渡す。
「殿下なら他の兵士と一緒にあちらに」
兵士が手をやった方向に他の兵士達数名に守られるように小さい影が見えた。
「殿下!」
ふらふらと駆け寄るとヘリオドールはううんと唸った。どうやら気を失っただけのようだ。兵士のおかげか外傷は頬のかすり傷だけのようだ。
アルヴァーはホッと胸を撫で下ろしたが、安心しても居られない。一刻も早くここから王子を逃がさなければならなかった。
遮断の魔術も万能ではない。いくら高位魔術士の出したものでも、魔物相手にいつまで持つか分からない。今も後ろではドタドタという音と狂ったような呻き声が聞こえる。
たった5分足らずの出来事のはずなのにアルヴァーには長く長く感じた。
「兵士隊長さん、遮断の魔術もいつまで持つかわかりません。僕の魔力が尽きる前に壊されてしまう可能性もあります」
「わかった、副隊長!直ちに殿下を安全な所へ避難させるんだ!残りのヤツは気絶しているものを除き全員魔物を囲え!」
そう言い切った瞬間バリンと球が割れる音がした。
「ウオォオォォオォォォ!!」
激しい咆哮が辺りに響く。明らかに閉じ込める前よりも怒り狂っている。
と同時に兵士隊長の号令が響き、兵士達は一斉に剣を抜き魔物に襲いかかる。しかし、硬い鱗に阻まれて剣は次々と弾き返されてしまう。
魔物はまるでハエでも振り払うように身体を大きくを振ると近くにいた兵士をぎょろりと見やり、その身体に素早く顔を寄せ勢い良く噛みちぎった。
「デオ!」
兵士隊長が殺された兵士の名を呼ぶ。
先ほどまでの怒りが嘘のようにニンマリ笑う魔物は、楽しむようにギョロギョロと目を血走らせ兵士達に襲いかかり始めた。剣で応戦するよりも早く魔物の前足が兵士を地面に叩き付ける。
楽しんでいる、この魔物はここで我々を殺す事を楽しんでいるんだ。だから、あのスピードを持っても他の場所に行こうとしないし、一気に仕掛けて来たりしないんだ。
アルヴァーも足枷の魔術を魔物に掛けるが圧倒的な力ですぐに破られてしまった。ここでこちらが全滅したらこの魔物は次は街へ向かうだろう。それだけはどうしても避けたい、がどうする。
電気が効くのか?水が効くのか?炎が効くのか?どれがこの魔物には効く?それともまた遮断の魔術を使うか?
「ウオォオォォオォォォ!!」
楽しそうな魔物の叫び声と兵士のうめき声が充満する。
「皆さん魔物から離れてください!」
「勝算があるのか!?」
アルヴァーの言葉に疑問を投げつつも兵士達は瞬時に魔物から離れる。
アルヴァーは兵士隊長を見てにやりと笑った。
勝算、ではなく賭けに近かった。魔物退治には平均的な魔術士が少なくとも5名は必要で、高位魔術士でさえ2人は欲しい。どのみち手段など無いに等しいが、何かしなければ助かる確率はさらに無くなる。
全ての魔力を注ぎ込んでアルヴァーは魔物に炎を撃ち放った。
ドォンという爆発音と共に魔物が火だるまになる。じゅわと肉の焼ける匂いがする。
「やった、か」
全身の力を使い果たし、アルヴァーはその場に座り込み片目だけを開けて魔物を見る。
魔物は突然の炎を一瞬動揺したようだったが、すぐにあのにやにやとした表情になる。
「効かない……」
アルヴァーの決死の攻撃はこの魔物には全く効かなかった。魔物はまるでもとからそうであったかのように平然と炎をまとい、またぎょろりと狂った視線を人間に向ける。
じんわりと滲み出る黒い煙が徐々に炎を消してゆく。
「高位魔術士の魔術が効かないなんて…」
「あれだけの魔物にどうやって勝てばいい!?」
「いいから、魔物を囲め!もう一度攻撃するぞ、剣を構えろ!」
もう数名に減った兵士がまた魔物に向かう。
炎がだめだったのか?ならば何が良かったのか。水?電気?風?鉄?だめだ、攻撃に使えそうな要素で僕が大きく干渉出来るものなんてない!!
いくら高位魔術士であろうとも得意な要素と不得意な要素はある。炎が効かないのであればアルヴァーが魔物に勝てる武器など無いに等しかった。もうほんの少しの魔力も残っていない。兵士達も頑張ってはいるが無力だ。
もう、だめだ。けど、これだけ時間を稼いだんだ、王子だけでも逃げきれる。きっともう馬車まで着いているはずだ!
「殿下、戻ってはなりません!」
そう声がし、アルヴァーは驚いて振り向く。兵士に連れられ逃げたはずのヘリオドールが息を切らせて木の影に立っている。
「ここは危険です、何故戻られたのですか!!」
剣の弾かれる音、魔物の吠える声、ドンッドンと響く魔物の足音、兵士の悲鳴、ぐしゃりと何かがつぶれる音、それらが背後で響く。
「早くここから逃げてください、殿下!」
そんなアルヴァーを一瞥すると王子はフッと微笑んだ。その姿にアルヴァーは体を強ばらせ、言葉を詰まらせる。
一体王子は何を。
ヘリオドールはゆっくりと手を動かし、デコピンのように指を弾かせた。その瞬間、激しい光とともに魔物の頭が貫かれ、真っ黒い血が辺りを染めた。
「ギャオォォォ!」
絶叫したかと思うと、5mの巨体がズンと音を立てて倒れる。生臭い匂いが漂う。
どうやら絶命したらしい。
先ほどのことが嘘のように静寂に包まれた。あっけない、本当に一瞬の出来事であった。
王子は横の木を背にどさり、と座り込んだ。
「殿下!」
アルヴァーがヘリオドールに駆け寄る。生きている、外傷も少ない、魔力も底をついたわけではなさそうだ。意識があるかないかは良く分からない。とにかく、王子は無事であった。
しばらくは誰も其処を動こうともせず口を開こうともしなかったが、突然兵士隊長が魔物とは真逆の方向を振り向いた。
「誰だ!?」
「何かあったんですか!?」
兵士隊長の声とガサガサ、という音が静寂を破った。そして木の間から若い男と4歳ぐらいの少年がひょっこりと姿を現した。
「こちらから大きな音が聞こえたので来てみたのですが……」
いきなり現れた人物に兵士達は少し警戒したようだった。まだ兵士達の緊張は抜けていないようだった。
「これは魔物、ですか?」
人々の中央にあるどす黒い固まりを目に止め、男はびくりと肩を震わせる。深い緑の目は大きく見開かれている。男の傍らでは少年が男の服の端をぎゅっと握り、呆然と立っていた。その耳は、この国では少し珍しい耳だった。
「ええ、魔物のようです」
いろんな事に驚きつつも、アルヴァーは男の質問に答える。きっとこの男は魔物とは無関係な一般民だろうから。
「何故こんなところに」
男が呟く。
「わかりません、ですがもう心配いりません、それよりあなた方は大丈夫ですか」
「ええ、私たちは別に……ケガ人がこんなに!薬草でしたらあります、よろしければ使ってください」
「こんなにたくさんの薬草、いいんですか?」
「薬草などまた取れば良いんです、それよりもケガ人の手当を!」
袋に集めた薬草を近くにあった石でつぶし、近くにいた兵士の傷口に塗ると布でぎゅっと縛った。未だ緊張が溶けなかった兵士達だったが、男に倣うように傷ついたものの救護にあたり始めた。
十人ほどが死傷したようだった。魔物との遭遇でこれだけの被害しかないのは奇跡であると思う。普通なら全滅してもおかしく無いぐらいの力の差だったはずだ。
もし、ヘリオドールが居なければこれで済まなかった。硬い鱗に剣を阻まれ、嫌な話だが兵士は戦力にもならなかった。高位魔術士と言われるアルヴァーでさえ、1人では勝てるか難しい相手であった。
王子の魔術など初めて目にしたが、たった一撃でそんな相手を倒してしまうなんて王族の底知れぬ力は恐ろしい。
規則正しく寝息を立てる王子の頬をスッと撫で、ほんのわずかに残った魔力を使って傷を消しながらアルヴァーは考える。
今度こそ魔力が空っぽになった体は、スッキリするほど軽く感じた。
森は、魔物のいない時の自然な音に戻っていた。
もう、この森に他の魔物もいないようであった。
「お父さん、僕も手伝う」
少年が男に声をかける。この二人は親子だったようだ。耳や髪色が違うので、少年は母親似なのだろう。まだあどけない声は王子と同じぐらいかわいらしかった。
「じゃあシルヴァン、薬草をもっと集めて来てくれるかい?」
「うん!今度はお腹の赤ちゃんの分も残るぐらいに取って来るね!」
彼らが妻と生まれる子どものための薬草を採りに来たのだと知った。それを、薬も持たずに出てしまった我々に分け与えてくれたのだった。魔術士が居るからとそればかりを頼りにし皆、魔力が無くなったときの事など考えていなかった己を個々に恥じた。
「気をつけるんだよ!」
カゴを持って駆け出す少年の姿が先刻の王子と重なった。
と、気を失っていると思っていた王子が前を横切る少年に向けて突然すっと手を伸ばした。
「き、み……」
言いかけ、またふっと意識を途絶えてしまったヘリオドールの言動に気づかなかったようで、少年は自分の命じられた仕事をこなすために通り過ぎてしまった。
王子が何故そんな行動をとったのか分からない。アルヴァーは不思議な気持ちで、眠りに落ちたヘリオドールを支えた。