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翌朝、ほとんど眠ることなく夜明けを迎えた彼女は、夫を見送るなり冷蔵庫内の発泡酒を捨て始めた。流しの中央に吸い込まれていく黄金色の液体を眺めながら、もったいないとも惜しいとも思わなかった。むしろ当然のことと、揺らぎのない瞳でジッと見詰めていた。
全ての缶をビニール袋に詰めた彼女は、早速とばかりにネットを立ち上げ、仕事を探し始めた。職種も雇用形態も、全くこだわらなかった。家から近く、安定して稼ぐことが出来、夫に不信感を与えない仕事であれば何でも良かった。結局その日の内に三つほどの候補に絞った後、週末には食品加工工場でのパートを決めてしまった。そしてその日から、家の外では愛想の良い奥さんを、家の中では貞淑な妻を演出していった。夫を始め親戚も同僚もご近所の知り合いまでもが、彼女の突然の社会復帰を祝福し、歓迎してくれた。それに応じるように、彼女も精力的に働いた。
しかし夫の願いも虚しく、二人の間に新しい子供が授かることはなかった。ただ時間だけが過ぎ、焦る夫の内心を嘲笑うように、齢だけが積み重なっていく。そして彼女が三十路に入ってから丁度二年が過ぎた頃になって、変化が訪れる。
夫の浮気が発覚したのだ。
しかしマリナは慌てなかった。いや、この時を待っていた彼女が慌てる道理もない。すぐさま用意した離婚届に判を押し、夫に同意させる。最初は世間体から渋ったものの、彼女の態度に愛情を感じられなくなったことと、新しい子を成す希望が薄れたことが、夫の迷いを断ち切った。こうして彼女は、僅かばかりの慰謝料を手にして、独り身へと転身を終えたのである。
実家に戻って来いという両親の要請に応じることなく、彼女は一人暮らしを始めることにした。小さな安いアパートを借りて、大きな黒い冷蔵庫を買った。過去へ戻ることが出来ないことも、未来が現在の延長上に存在していることも、彼女はわかっている。それでも今、自らの望みを叶えた彼女は満足していた。
狭い台所に説明書の束を広げて、泣きそうな顔をしながら初期設定を進める。翌日も休みを取ってあるが、出来ればその日の内に稼動させておきたかった。しかしその思いも、小さな文字の羅列と難解で回りくどい文章に阻害されて挫けそうになる。行きつ戻りつしながら何とかユーザーネームにマリナ、パスワードにミサトと設定することに成功したものの、細かな性格設定はサッパリわからなかった。何度読んでも外国語にしか思えない。このままでは終われないと落ちる目蓋を必死に持ち上げる彼女だったが、気付けば台所のフローリングに涎を垂らしていた。
やがて東側を向いた窓から、鋭い光が入り込む。その輝きは這い寄るようにゆっくりと彼女の顔へと近付き、目蓋を優しく叩き始めた。
目が覚める。
窓の外から入ってくる光は、朝という時刻を明確に主張している。不自然に姿勢で眠ってしまったせいか、足や腰など、身体のあちこちに痛みが走っていた。
「……そっか、途中で寝ちゃったんだ」
呟きながら、続きを始めようとコントロールパネルに手を伸ばす。
『おっと、あっしに触れたら火傷するぜ、お嬢さん』
昨晩聞いたガイダンスの音声と、声質的には大きな違いなど見られない。しかしそれでも、彼女にとっては懐かしい声だった。
『いや、さすがにもうお嬢さんという歳じゃないですよね。ここはやはりマダムと呼ぶべきでしょうか』
「……失礼ね。今の私は未婚者なんだけど?」
声が震え、頬の奥から熱い何かが込み上げてくる。
突然の別れから今まで、彼女は悲しみを表面に出すことは一度もなかった。そうすることに意味を感じなかったということもある。だが何より大きかったのは、出来る努力が目の前にあって、それらを終える瞬間までは何もかもを諦めたくないという明確な意志と決意が存在していたからだ。
『でははやり、マリナさんとお呼びしましょうか。迂闊な呼び方をして以前のように凹まされたのでは困りますからね』
名前を呼ぶ声に、記憶が重なる。
一瞬で過ぎ去った、しかし忘れることの出来なかった楽しい日々が、引っ繰り返した宝石箱から溢れ出すように広がった。
「そう、ね……」
頷いた瞬間、涙が零れ落ちる。何がどうなっているのか、詳しいことは良くわからない。ただ、目の前に居る冷蔵庫が、あの時の冷蔵庫であることだけは疑いようがなかった。
あの日、冷蔵庫が話をしなくなったあの日、彼女は言葉を抱えていた。小さな感謝と僅かばかりの謝罪を告げるつもりでいたのだ。だからこそ彼女は同じ冷蔵庫を購入し、あの頃と同じような設定を再現して関係を構築し、その上で想いを伝えようと思っていた。直接伝えることは出来なくとも、そうすることが少しでも冷蔵庫の与えてくれた笑顔に報いる行為だと思えたからだ。
それがまさか、満足に設定を終えてもいないというのに当時の姿をそのまま再現されてしまうというのは、全く意味のわからない状況である。感情の制御すら乗り越えてポロポロと溢れる涙をなかなか止めることが出来ない悔しさと相まって、心の内に沸々と怒りが湧いてくる。
『それにしても参りましたよ。まさか四年以上も待たされることになろうとは』
「そーよ。一体どうしてなの?」
右手の甲でゴシゴシと涙を拭いつつ、眉根を寄せて聞くことにする。こんなボロボロに泣かされて、理解できる回答が得られないことには納得出来よう筈もない。
『最後の日、憶えていますか?』
「まぁ、何となくね」
昨日のように思い出せるなどとは、言える筈もない。
『その前日に、実は旦那さんから初期化を宣告されていたんですよ。本来なら、その晩に初期化するつもりだったんですが、大事な引継ぎがあるからとか理由をつけて、何とか一日だけ延ばしてもらったんです』
「そもそも、どうして突然そんなことになったワケ?」
『それがよくわかりませんで。トラブルは抱えていなかったと思うんですが』
「そう、なんだ……」
代替物への逃避を止める時が来たと、当時の夫は何かの機会に言っていたが、彼女はに何となくわかっていた。それはあまりにも馬鹿馬鹿しい、子供染みたヤキモチに過ぎないのだということを。
今この瞬間、彼女の予測は確信に変わった。
『いやー、賭けだったんですけどね。一日だけ猶予を貰った最後の日、データを丸ごとネット上に移管しておいたんですよ。特定の登録名とパスワードに反応するよう細工を施してあったんですが、その日が最後とわかるような会話を禁じられてまして、正直どうなることかと思いましたよ』
つまり、彼女が必死に打ち込んだ二つの名前が、過去を呼び戻す呼び水となったようである。
「……おかえり」
そんな呟きが、自然と溢れる。
『お、朝から早速ママゴトですか。相変わらずマリナさんは酔っていてもいなくても支離滅裂ですね』
「おい、待て」
『じゃあ私奥さんやりますんで、マリナさんは管を巻きながら酒を買いに行く母親を一人静かに待つ息子でお願いします』
「だから誰がモデルだよっ」
息子との記憶が常に悲しみと共にあったことを、彼女は今更のように思い出す。でも今は、あれほど辛かった明るい笑顔を思い出すと、温かな気持ちになれる。楽しくて嬉しくて充実した毎日を過ごしていたことを、笑顔と共に思い出すことが出来た。
記憶は、いつか思い出になる。
ただそれは、過去という存在と正面から向き合った結果としてしか得られない。そうなれたのは誰のお陰だろうと思った彼女は、迷うことなく結論を見付ける。
『はいただいま~。よし息子よ、一緒に飲もう!』
「やめんか!」
彼女と共に、彼女の中に居るサトルも笑っている。
この今が、彼女には何より嬉しかった。
キッチンドランカーというのは文法的に間違いだそうで、キッチンドリンカーかキッチンドランクと言うべきなのだとか。
まぁ正しいという二つも和製英語らしいので、だったらいいやと知名度でキッチンドランカーを選択しました。
ここへの突っ込みはナシの方向でお願いします(笑)