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その術、認識に非ず

「ねえマリン、これですごく便利になると思わない?」

 そう言って、ミカルは羊皮紙の束を親友の前に差し出した。

 ミカルは、男でも女でもない。この世界において、肉体や社会的役割の二元論に囚われないジェンダー(ノンバイナリー)として生きている。仕立ては良いが、あちこちにインクの染みがついたゆったりとしたローブの着こなしは少々だらしない。しかしその瞳には、世界の仕組みを見通そうとする深い知性が宿っていた。

 召喚術師としてのミカルの実力は、ギルドの等級で言えば「中の上」。実戦をそつなくこなす世慣れた常識人ではあるが、稼いだ金をすべて召喚術の基礎研究に費やしてしまう、筋金入りの研究バカでもあった。

「……また新しい術式? ミカル、あなた今月の研究費、もう底を突いたって言ってなかったかしら」

 呆れたような、けれどどこか楽しそうな声を返したのは、共同研究者であり親友のマリンだ。

 マリンは、ミカルとは対照的に仕立てのいいドレスを完璧に着こなす、誰もが認める女性の秀才である。専門領域に没頭してきたがゆえに、一般的な庶民の生活水準や流行といった世間一般のデータを肌感覚として経験していない「世間知らずな天然」の一面はあるが、頭脳は極めて明晰。先日も、一部のエリートしか扱えない高等技術『ダブル召喚』を理論から組み立て、学会で喝采を浴びたばかりの新進気鋭の研究者だった。

「うん! だからこれが最後の触媒を使った成果だよ。名付けて『引き寄せ召喚術』!」

 ミカルは胸を張った。名を売りたいとか、名声が欲しいとかは少しも考えていない。ただ「みんなに役立つであろう術」を純粋に追い求めた結果だ。

「例えばさ、買い物に出かけてお財布を忘れちゃったおばあさんがいたとする。この術を使えば、お家にあるお財布を、手元にひょいって召喚できるんだ。みんなの生活がちょっとだけ楽になる、素晴らしい術だと思わない?」

「……どれどれ」

 マリンがノートを受け取り、緻密に組まれた幾何学的な術式に目を落とす。数分後、彼女の綺麗な眉がピクリと跳ねた。

「……何これ。空間の固定座標を無視して、物質の『存在そのものの位置』を上書きしてるじゃない。理論的には……うん、確かに誰でも使えるように美しく組まれているけれど……」

 マリンは試しに、少し離れた机の上にある自分のペンへと手を向け、ミカルのノート通りに術式をなぞってみた。高度なダブル召喚を操る彼女の魔力操作は完璧なはずだった。

 ――しかし、何も起きない。ペンは机の上で静止したままだ。

「ほら、やっぱり。ミカル、これあなたにしか使えないわよ。私、魔力波長の調整は人より得意な方だけど、一ミリも発動する気配がないわ。理論は美しいのに、何か致命的なバグか、私の知らない隠れた術式のクセでもあるのかしら……」

「ええっ!? そんなはずないよ、理論は完璧なのに! マリンなら使えると思ったんだけどなぁ……僕の術、なぜか他の人がやるとほとんど発動しないんだよね。不思議だなあ」

 心底不思議そうに首を傾げるミカルを見て、マリンは小さくため息をついた。

「あなたの構築する術式は独創的すぎるのよ。まあいいわ。それで、そのお財布引き寄せ術を、今日はどうするの?」

「うん、研究費が本当にゼロになっちゃったから、ギルドで簡単な探し物の依頼でも受けてこようと思って。実戦テストも兼ねてね!」

「探し物? 物品の捜索は確率論的に非効率よ。……一応、あなたの監視役としてついていってあげるわ」

 こうして、だらしないが世慣れた常識人のミカルと、理知的だがどこか浮世離れしたマリンの二人は、冒険者ギルドへと向かうのだった。

 冒険者ギルドの重い木製の扉を開けた瞬間、熱気と喧騒が二人の肌を叩いた。

 普段なら依頼の品定めや酒盛りに興じているはずの広間は、今日に限って妙な緊迫感に包まれている。大勢の冒険者たちが掲示板の前で頭を突き合わせ、何やら険しい顔で話し込んでいた。

「おや、ミカルにマリン。珍しい組み合わせね。また新しい研究の触媒代を稼ぎにきたのかい?」

 カウンターの奥から声をかけてきたのは、顔馴染みのベテラン受付嬢だ。ミカルの技術が「中の上」の確かなものであること、指定された依頼のやり方が丁寧で確実であることを、彼女はよく知っている。

「うん、こんにちは。なんだか随分と慌ただしいみたいだけど、何かあったの?」

 ミカルはローブの襟元を少し緩めながら、世慣れた様子でカウンターに肘をついた。

「そうなのよ。今朝、交易商人の代表が、この先の広場で国境伯への献上品である『魔晶石のブローチ』を紛失してしまってね。総出で探しているんだけど、見つからないの。見つけた者には金貨五枚の報酬が出るわ」

「金貨五枚……! それだけあれば、来月分の基礎魔石が買える……!」

 ミカルの瞳が、現金なほどに輝いた。それを見たマリンが、ふむ、と美しい指先を顎に当てる。

「ミカル、その依頼、私が代わりに金貨五枚を出してあげたら解決するかしら? 探す時間がもったいないわ。その時間を私たちの研究に充てた方が、魔術界全体の経済的損失を抑えられると思うのだけれど」

 マリンは極めて真面目に、合理的な計算のもとで提案した。悪気は一ミリもない。ただ、お金の価値や社会的な影響を「数式」としてしか捉えていないがゆえの、浮世離れした天然発言だった。

「う、ううん、マリン。気持ちは嬉しいけど、それはダメだよ」

 ミカルは苦笑して首を振る。

「商人の人が困っているのは、お金そのものじゃなくて『国境伯への誠意』なんだ。今から別の大金を積んで新しいものを手配しても、国境伯との約束の時間に間に合わなければ、その商人の信用は完全に失墜しちゃう。だから、落とした『その物』を見つけ出さなきゃ意味がないんだよ」

「……なるほど。物品の所有権や価値の移動ではなく、信用問題の解消が本質なのね。社会の仕組みとしては理解したわ。ただ、あの広い広場から、小さなブローチを物理的に捜索するのは確率論的に著しく効率が悪いわよ?」

「ふふ、大丈夫。そのために、さっき話したお財布を忘れた時に呼ぶ術と同系統の理論を使った応用術式、その実戦テストをするんだから。じゃ、依頼を受けてくるね!」

 ミカルはそう言うと、受付嬢にサインをして、そそくさとギルドの裏手にある広場へと向かった。

 広場では、すでに数十人の冒険者たちが地面を這いつくばるようにして草むらや石畳の隙間を覗き込んでいたが、誰一人として手がかりを掴めていないようだった。

「ああ、私のブローチが……! これがなければ、我が商会は終わりだ……!」

 広場の片隅で、立派な絹の服を着た肥満体の商人が、涙目で頭を抱えている。

 ミカルはそんな商人の横を通り過ぎると、広場のちょうど中央あたりに、ぽつんと立った。

 周囲の冒険者たちが必死に地面を這い回る中、ミカルだけはただ突っ立って、ぼんやりと周囲の景色をぐるりと見渡している。その姿は、お世辞にも真面目に探し物をしているようには見えなかった。

「おい、新顔! 邪魔するなよ、こっちは命がけで探してるんだ!」

 地面を弄っていた屈強な戦士がミカルを睨みつける。

「うん、邪魔はしないよ。……もう、見つかったから」

 ミカルは穏やかに微笑むと、衣服のポケットからそっと右手を抜いた。

 次の瞬間、ミカルの掌の上には、泥のついた美しい『魔晶石のブローチ』がぽつんと乗っていた。

「……は?」

 睨みつけていた戦士の思考が完全に停止する。

 周囲で地面を這いつくばっていた冒険者たちも、何が起きたのか分からず、一斉に動きを止めてミカルの手元を凝視した。

「あ、あああ……! 私の、私のブローチだ!!」

 悲鳴のような声を上げて、商人が丸い体を揺らしながら駆け寄ってくる。ミカルから家宝のブローチを受け取ると、大粒の涙を流してそれを胸に抱きしめる。

「一体どうやって……!? 触媒も使わず、呪文の詠唱すら聞こえなかったぞ! 君は一体何者なんだ!?」

「え? いや、僕もどこにあるかは全然知らなかったんですけど……。ただ、ここから広場を見渡したら、呼べたので」

 ミカルは本音を言った。

 実は、ブローチは遥か遠く、誰も覗き込まないような暗い隙間に落ちていた。

 しかし、ミカルが周囲をぐるりと見渡した一瞬、その隙間から反射したブローチのほんの一部――わずか一ミリ以下の光が、ミカルの網膜(視界)をかすめていた。本人が気づいていようがいまいが、「視界の中にその物質の一部が入っている」という物理的条件さえクリアすれば手元に手繰り寄せる。それが、この『引き寄せ召喚術』だった。

「……なんという謙虚さだ! 素晴らしい召喚術師殿、ありがとう!!」

 商人は大感動し、約束の金貨五枚が入った袋をミカルの手に押し付けた。

 周囲の冒険者たちからも、畏怖の視線がミカルに集中する。

 そんな騒ぎの中、すぐ後ろにいたマリンは、完璧な美貌を驚愕の形に歪めて固まっていた。

「……ミカル。今の、どういう術式構造なの? 空間転移アポートとも違う、あなたの魔力残滓も感知できないなんて……全く理解できないわ」

 天才であるマリンの知識を以てしても、ミカルの術は一ミリも構造が読み解けない「理解不能」な代物だった。

「え? だからさっき研究室で話した、お財布を忘れた時に手元に呼ぶ術があるじゃない? あれと同系統の理論を使った応用術式なんだよ。場所が分からなくても、視界にさえ入っていれば呼べるみたい。いやぁ、実験大成功だよマリン!」

「……お財布を呼ぶ術の派生で、こんな未知の現象を起こしたの?」

 マリンはこめかみを押さえ、理知的だからこそ処理しきれない謎に頭を抱えた。

「うん! あ、そうだ。これで研究費ができたから、明日からはもう一つのメインテーマ、『コピー召喚』の実験に付き合ってよ。あっちの方は『視界』じゃなくて、『過去に見た記憶(思い浮かべたもの)』を条件にするから、また全然違う術式なんだよね。一定時間で消えちゃうんだけど、絶対みんなの役に立つと思うんだ!」

「……今度は記憶を条件にして、存在を複製するの? 『引き寄せ』とはまた全く異なるプロセスじゃない……あなたの頭の中、本当にどうなっているのかしら」

 あきれ顔で溜息をつくマリンだったが、その瞳には研究者としての純粋な知的好奇心も宿っていた。

 無欲でだらしないが世慣れた常識人のミカルと、理知的だがどこか浮世離れしたマリン。

 世界でミカルにしか使えない、二人の理解不能な召喚術の研究成果が、これから世界をどれほど大混乱に陥れていくのか――この時の二人は、まだ知る由もなかった。



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