第29話 子ぎつねランの、初めての家出 2
赤い車は、ランを乗せたまま、小学校の駐車場まで突っ走った。
赤信号でも止まらない。
ランは、必死で車上に、へばりついた。
冷たい夜風がビュウビュウ吹いて、何度も吹き飛ばされそうになる。
「やっと着いた」
女が、車から降りると、ランは、ふらふらと立ち上がって、よろけそうになりながらも、助手席側へ飛び降りた。
女は、一瞬で屋上まで飛んで行った。
「風の妖怪かな?どうしよう」
とりあえず、跡を追うことにした。そうする他ないのだ。
母さん狐は、昔から何度も何度も、ランに言い聞かせた。
『もしも、言い付けを破った時は、自力で試練を乗り越えなさい。こちらへ戻る方法は、一つです。頭上に乗ってしまった人間の悩みを解決しなさい。期限は、二日です』
ランは、教室の窓枠から窓枠へ、飛び移りながら頂上を目指した。
銀色の尾っぽが夏の夜風になびいて、星のようにキラキラ輝いた。
「わたし、秋が良かった。せめて朝が良かった」
ランは、ぶつくさ文句を言いながら、真っ暗な教室に目を走らせた。
今にも何かが飛び出しそうだ。
こんな不気味な光景を見たのは初めてで、恐ろしく思った。
ランは、身震いして、ぽつりと呟いた。
「家出なんて、しなきゃ良かった」
天辺に到着すると、先客がいた。
屋上の入口の傍に、大きな段ボール箱が六つほど積まれているのを見つけて、ランは、急いで身を隠した。
そして、そおっと首だけ覗かせて、猫背の老婆を窺った。
老婆は、胡坐を組んでいたので、青黒い横顔しか見えなかったが、深い深い傷のような皺を見つけて、ランは、戦慄を覚えた。
「どうしよう、やっぱり妖怪だ。妖怪の車に乗っちゃった」
ランは、ぶるぶる震えながら様子を見た。
猫背の老婆は、皮をはぐ手を止めると、真っ黒い前歯を見せて、蜜柑にかぶり付いた。
「うん!こりゃ、いいお供えだ。隣の墓のも、持ってくりゃ良かった。ありゃ、老舗の菓子だったね」
何とも罰当たりだ。蜜柑の次は、林檎を丸かじりしている。
あいた方の手には、小ぶりだが、夕張メロンとスイカを持っていた。
それは、先の葬儀で、くすねて来たものだった。
「奉公屋は、人間の仕事が出来ない。妖怪の血が、混ざってるからね。それでも、普通の奉公屋は、ベースが人間だから、良い方さ。好きな依頼を選べる。あたしなんか、本物の妖怪だから、選べも出来ない」
長身の女が、満月を仰いで、溜息をついた。
眩しい月明りが照らすのは、漆黒の留袖だった。
奉公屋と聞いて、ランは、思わず目を見張った。
(もしかしたら、おねえさまの知ってる奉公屋さんかもしれない。妖怪で、奉公屋さんって珍しいから、多分おかあさまも知ってる)
ここが、どの町の何という小学校なのか、さっぱり分からない。
ただ一つ分かったのは、屋上で会話しているのは、妖怪と、天代と繋がり深い奉公屋なのだ、しかも妖怪の……奉公屋の過去に、来てしまったのである。
「奴らの為に、エサをまくのが仕事なのに、このところ上手くいかないんだ」
女は、苦り切った顔をして、腹立ち紛れに、思いきり右足を蹴り上げた。
すると、赤い高下駄は、ほんの一瞬宙に浮き、静止したかのように見えたが、すぐさま落下して消えた。
「子供たちが怖がってくれないと、意味がない。縮み上がって貰わなきゃ、困るのさ。近頃は、ちっとも子供が集まらない。今の子は、怪談なんか、本気で信じないからね。テレビアニメの世界だと思って、バカにしてるのさ。夜、学校へ忍び込む子供がいないんだ。このままじゃ、苦情が増える一方さ」
女は、悔しそうに、もう片方の下駄も放ったので、一瞬で暗闇へ呑まれた。
「学校での【妖怪肝試し】は、昔の遊び、もはや流行らない。あたしが生まれる前は、大勢いたらしいね。この樊籠小学校には、勇敢で無謀な、愚かで命知らずな子供たちが。だけど大昔の話さ。面倒なのは、妖怪の寿命だよ。昔を懐かしがるから、質が悪い。子供の怯える顔が見たくてたまらない奴らは、不機嫌なのさ。奉公屋を止めるつもりはないけど、一遍でいいから、人間からの依頼を受けてみたいね。妖怪の奉公屋は、妖怪の依頼しか受けられないんだから、不公平だよ」
老婆は、メロンもスイカも一口で飲み込んだ。
流石は口裂け女の末裔。まだまだ現役である。
「嘆きなさんな。これも時代の風潮さね。近代は物騒な事件が多いと聞くよ。もっとも、昔から物騒だったがねえ。すこうしばかり、人の意識が変わっただけの話さね」
腹がふくれたのか、老婆は、屋上の中央へ歩いた。
そして伸びをすると、曲った腰を拳で二、三回叩いた。
女は、煙のように音もなく、老婆の前へ移動した。
「ねえ、おばば。子供が、面白がって、それでいて怖がる話を知らないかい?」
先達て葬式から拝借した酒を、女は瓶ごと差し出した。
銘柄『粋魂』、妖怪の好む美酒である。
老婆は、老いた顔を綻ばせて受け取った。
「仕様が無い子だねえ。エサやりは、自分の仕事だと言っておいて。けどまあ、今宵は望。気分も良い。酒の肴代りに、一つ聞かせてやるかねえ」
しめたとばかりに、女の金目が輝いた。
「うんと面白がって、怖がるヤツを頼むよ」
「そりゃいいが、おまえさん、あれも貢物かね」
老婆のデコボコした、古木の枝のような人差し指が、すっと段ボール箱を示した。
「最近は菜食主義になっちまったけど、変わらず肉も好物でね。貢物なら、ピーマンの肉詰めにしようかねえ」
女が、ハッとして振り向いた。
「本当だ。キツネの匂いがする」
ランは、ぎゅっと目を瞑った。
(わたし、食べられちゃう)
しかし、女の声音は、柔らかだった。
「こっちにおいで」
ランが、そっと両目を開けると、女が、目の前に立っていた。
(あれっ?この人、ことりお兄ちゃんと、そっくりだ。髪が長いだけで、お兄ちゃんが大人になったみたいな顔)
ランが、不思議に思っていると、女が、老婆に振り向いて声を張り上げた。
「おばばー!子ぎつねだよ。喰っちまうのは、かわいそうだ」
女が、ランに向き直って尋ねた。
「おまえ、どこから来たの?」
ランは、カラカラになった喉の奥から声を振り絞って答えた。
「わたし、過去に来たの」
「過去に?へ~、大したもんだ。子ぎつねが逞しい。歳は、十くらいだね?」
ランは、必死に首を縦に振った。
「子ぎつねだって?」
老婆が、眉を顰めた。
「おばば、見逃してやってよ。喰うには早いさ。それに、ちょうど、助手が欲しかったんだ。人間の子供は、大抵、子ぎつねが好きだからね。誘き寄せるに役立つよ」
「得体の知れない狐を使うって?静花、おまえさんも変わった子だねえ。まあ、いい。好きにしな」
老婆は、酒瓶をあっと言う間に空にして、夜空に放った。
すると、電光のようにピカっと光って、一瞬で消えたのだ。
ランは、びっくりして息を呑んだが、はっと思い出した。
(これ、知ってる。カティお兄さまが教えてくれた。手品っていうのよ!)
「おまえ、化け狐だね」
老婆は、ランを見据えてにんまりした。
「名を教えて貰おうかねえ」
老婆のお歯黒に怯えて、ランは、静花の後ろにそそくさと隠れた。
そして、蚊の鳴くような声で答えた。
「天代 鸞」




