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「だとしても、瞳はしばらく希さんから離れた方がいい」
「どうして?」
希のことを話していると、今すぐにでも希に会いたいと思った。彩瀬の家族の人にお礼を言って、あのアパートに戻ろうと決意した矢先だった。
「どうしてって、当たり前じゃん。また瞳が傷つくかもしれない」
「希は一人だと碌に生活できなくて、誰かがそばにいなきゃ」
今朝の、生気がなくなり人形のようになっていた希が心配だ。あの状態で食事や水分補給は行っているだろうか。いや、している気がしない。
あのままでは希の生活が崩壊するのは目に見えていた。私と同居する前の状態に逆戻りだ。
「じゃあ私もついて行く」
「彩瀬が?」
「ラブラブの同棲生活を送りたい気持ちはわかるよ。でも瞳が潰れちゃ私も希さんも悲しむでしょ」
希をダシにするような、こんな言い方はずるい。説得力には申し分ないし、実際に私がいなくなったら彩瀬は悲しむとは思うけど。
希はどうだろう。最初のうちはボロボロだろうけど、彼女だったらギリギリの状態で生き延びて、別の誰かと暮らし始めるかもしれない。
儚さと危うさと愛おしさ。彼女の魅力に惹かれた別の誰かが。
私の代わりなんかいくらでもいる。それこそ彩瀬でも……
焦燥が脳を支配し、不安でいてもたってもいられない。別の誰かと共に過ごす希の幻覚が視野を奪っていく。
「ダメ!」
自分の居場所が、積み上げたものが奪われてしまう!
彩瀬の方が優しいし思いやりがある。生活力や人間力といった曖昧な概念を含め、すべての点で私よりも優れている。
「瞳は一人で行かせない」
「そんなのダメ。私を選んで!」
「は?」
会話がちぐはぐだ。
なぜなら私は目の前の相手ではなく、脳内にいる幻想の希に話しかけているのだから。
私の目を見る彩瀬の目。焦点が定まらない私の目。
一刻も早く希のもとへ行って、私を必要としてほしい。私が人形になったっていい!
凝縮された意識の中で目に入ったのは、ちょうど彩瀬の後方にあるダイニングと廊下とを仕切る扉だった。
ふらふらと立ち上がって扉のそばへ移動する。清潔感のある白の板にアンティーク調の黒のドアノブがついていて、鍵穴のレプリカが装飾されている。
ずっと穿いたままのスカートのポケットに手を入れると、私たちのアパートの鍵が確かにあった。金属が擦れ合って音を立てる。
振り返ると彩瀬も立ち上がっていて、私の行動をやや不審そうに見守っていた。
「彩瀬」
「なに?」
どうすれば希が手に入るのかずっと考えていた。
今日は朝陽を浴びながら私を傷つけたという罪悪感に付け込むのはどうだろうかと案じていた。
たった今思いついた、彼女の永遠を手に入れる術。
「私は、いや私たちは放っておいてほしい」
希や、希の母が『そう』した気持ちを少し理解した。
再びポケットの中のふたつの鍵に指を絡めて、その存在を確かめる。
「私は瞳が心配で!」
「ありがとね」
焦燥、不安、劣等感、罪悪感、そして期待。爆発した感性がたった一人のともだちを拒絶する。
「だけど、今はプライベートな所に入ってこないで」
彩瀬は息を呑み、顔が歪んでいく。
やがて両手で顔を覆いつくし、隠された口元からは泣き声が漏れていた。
「……っ……うぅ……」
私は彼女の目の前に立ち、その両手に自分のを重ねた。
「希との関係は、帰ってきたら説明するよ」
腕に力を入れて彩瀬の顔から引きはがし、彼女の顔をあらわにする。
中性的なその頬に、何滴もの涙が蔦っていた。
彼女の両肩を支えにして背伸びをする。
首を伸ばして、彩瀬の涙を私の舌で舐め取る。そして彼女の頬に口づけをした。
「それじゃ」
「瞳!」
既に私は振り向いていて、彼女の表情は分からない。見るまでもないのかもしれない。そしてきっともう見ることもない。
「もう少し早く出会ってたら、私たち付き合えたかな」
彩瀬は私と希との関係が露呈しても、お花見部は辞めずクラスでも私と一緒にいた。
彼女の私に対する特別な感情には、私なんかを選ぶはずはないと都合のいい様に解釈して、見て見ぬふりをしていた。
「どうして私なの?」
「ねぇ、瞳はどうして自分が嫌いなの?」
「それは……」
物心がつく前。私が私であるという自覚がないうちに積み重なった何かが、私にズレをもたらしたのだろう。原始的に自分が嫌いだったのなら、今頃私はこの世にいない。
「わからない」
「じゃあ一緒だ。瞳は瞳が嫌いでも、私は好きだよ」
―――
一歩外に出ると、居心地の悪い湿気と暖気を纏った夜が私の身を包んだ。
深森家に向かってお辞儀をした。もうこの閑静な住宅街に私の居場所はない。
目指すのは、希の待つ場所。治療と休養のおかげで朝よりも痛みがなく、まるで飛び立てそうなほどに体が軽い。
生活の灯りから遠ざかると、夜空から光輝くお星さまが那由多に広がり私を見下ろしていた。




