プロローグ~全て王妃の掌の上
一ヶ月ほど前から王宮の居候になっていたセーラは、王妃であるオリヴィエからの呼び出しに応じ、彼女の私室に出向いた。
「セーラ。いよいよ明日は、お前がグレンバル辺境伯領へと旅立つ日だ。準備と覚悟はできているな?」
オリヴィエと向かい合ってソファーに座り、挨拶もそこそこに問われたセーラは、落ち着いた様子で答えた。
「はい、王妃様。私などのために諸々の手配を整えていただき、誠にありがとうございました」
心からの感謝と共に、セーラは神妙に頭を下げた。しかし、オリヴィエは僅かに不満そうな顔で言い聞かせる。
「己を卑下するようなことは口にするな。共に過ごしたのは一ヶ月の短い期間ではあったが、お前はれっきとした私の娘で、この国の王女である。その誇りを忘れることは許さん。分かったな?」
「肝に銘じておきます」
口調は厳しくとも、修道院で暮らした年月を含めて、長年、自分を慈しんでくれたオリヴィエに対し、セーラは感謝の念を新たにした。すると、オリヴィエが話題を変えた。
「ところで、あの《《未熟者の神もどき》》は、この結婚について何か言っていたか?」
皮肉交じりにそう尋ねられたセーラは、困ったように言葉を返した。
「この縁談について、王妃様が書いた手紙が修道院に届いた日の夜に、たまたまアルス様がいらっしゃいました。それで、簡潔に手紙の内容をお伝えしたところ、『これで修道院を出て、普通の生活が送れるな』と、大層お喜びになっていました。ですが、その後はいらしていないので、詳しいことについてはお話ししておりません」
「そうか。相も変わらず迂闊な奴だな」
「王妃様……。アルス様は、私に加護を授けてくださった方なのですから、未熟とか迂闊などとは仰らないでほしいのですが……」
両者から多大な恩を受けていると認識しているセーラは、控えめにオリヴィエに申し出た。しかし、オリヴィエは、そんな願いを一蹴した。
「お前が親から絶縁されて修道院送りになったのは、元はと言えば《《あれ》》のせいだろうが。未熟者を未熟者といって何が悪い」
「王妃様も、私の両親をろくでなしだと仰っていたではありませんか。そうであれば、そのような方々と縁が切れたのは、私にとって幸運なことです。それに修道院での暮らしは、私にとって必要な試練を神が与えたものだと思っております。ですからアルス様を責めるつもりはございません」
本気でそう思っているセーラを目の当たりにしたオリヴィエは、呆れ顔になったものの、気を取り直して話を進めた。
「相変わらず、お前はお人好しだな。それが少しばかり心配なので、王家からの祝いとは別に、私から個人的にお前に結婚祝いを贈ろう。アニー、こちらへ」
オリヴィエからの呼びかけに、壁際に控えていた二十代半ばと思しき侍女が、ソファーまで足を進めた。彼女がソファーの横で軽く一礼すると、オリヴィエが淡々とセーラに告げる。
「セーラ。このアニーを辺境伯家に連れていけ」
「え? あの、でも……」
いきなりの話に、セーラはオリヴィエとアニーの顔を交互に見ながら戸惑った。そんな彼女に、オリヴィエが言い聞かせる。
「アニーに家族はいないし、グレンバルへ赴くのも了承済みだ。それにお前の教育が終わっていないので、向こうでお前の身の回りの世話をしながら、その不足を補わせる予定だ」
それを聞いた途端、セーラは真顔で尋ねた。
「そうなのですか? それは、どのようなものなのでしょうか?」
「セラフィーナ様。これでございます」
すかさずアニーが両手で差し出したものを目にしたセーラは、初めて目にするそれに、困惑の色を深めた。そこで、正直にオリヴィエに尋ねた。
「王妃様。物知らずで申し訳ございません。アニーが手にしているものは何でしょうか?」
「鞭だ」
「そうでございますか。それで鞭とは、どのような用途で使うものですか?」
セーラは恐縮しながら問いを重ねた。するとオリヴィエが重々しい口調で語り始める。
「お前は教養を習得していても、人の上に立つには決定的に欠けているものがある。それは威厳だ」
そう言われたセーラは、硬い表情で頷いた。
「威厳、ですか……。確かにそうだと思われます。そして、辺境伯夫人となるからには、それが必要不可欠なのですね……。その点には考えが及んでおりませんでした。お恥ずかしい限りです」
「恥じることはない。完璧な人間など、世の中に一人もいないのだからな」
「そうでございますか? 王妃様は、私から見ると完璧な女性だと思われるのですが」
セーラは心底不思議そうに、常日頃から思っていることを口にした。彼女が本気でそう思っているのが分かったオリヴィエは、笑いを堪えながら話を続ける。
「嬉しいことを言ってくれる。だがお前に分からないだけで、私にもれっきとした欠点があるのだ。しかし、それを認識し、常にそれを克服する努力を怠らないようにしている。だからできればお前にも、そうしてほしいと願っているのだ」
「私も王妃様を見習って、努力を惜しまないつもりです」
決意に満ちた表情で、セーラは深く頷いた。それを見たオリヴィエは、いかにも満足そうに笑う。
「お前ならそう言うだろうと思っていた。アニーは鞭の使い手でな。お前の威厳を高める手段として、鞭の習得が効果的なのだ。だから向こうに着いて落ち着いたら、アニーに教えを乞うように」
「王妃様。身に余るご厚情、ありがとうございます。どのようなものかは分かりませんが、鞭の扱い方を完璧に身につけてみせますわ。アニー、これからよろしくお願いします」
「はい、お任せください」
アニーとセーラが挨拶を済ませると、オリヴィエはそれから和やかにいくつかの話題を出し、セーラとの会話を楽しんだ。
楽しいひと時を過ごしたセーラが、名残惜しげに別れを告げ、与えられた部屋に引き上げていく。そんな彼女を見送ったオリヴィエは、含み笑いを浮かべながらアニーに声をかけた。
「そういうわけだ。くれぐれもよろしく頼むぞ」
どう見ても面白がっているとしか思えない主人の姿に、アニーは思わず自分の立場を忘れ、渋面を浮かべてしまった。
「本当によろしいのですか?」
「当たり前だ。人目につくところで修練をさせて、辺境伯家の連中の度肝を抜いてやれ」
「了解しました」
気の毒に、あの女性は平穏な結婚生活など送れないだろうと、アニーは密かに同情した。そこでオリヴィエは、改めて彼女に命じる。
「何か事が起こったら辺境伯領を脱出して、セーラを無事に王都に連れ帰れ。分かったな?」
「畏まりました」
深く頭を下げた腹心の部下であるアニーを眺めながら、オリヴィエは一人満足げな笑みを浮かべた。




