7.娘の抱くその思い込みが、油断であって命取り。
色々な選択肢があったのだろう。
彼には、見えているものがたくさんあったに違いない。しかし、その選択権はエレオリアの手に委ねられることはあり得なかった。
彼は、彼の都合がいいように、選んだのだ。他にもあった選択肢を、エレオリアに見せることなく切り捨てて。
その都合を、エレオリアは知らないのだ。
案内された新しい住居は、屋敷、というには広すぎた。もはやお城というべきであるような豪華な内装に酔いそうになりながら、与えられた部屋の調度品をあれこれさげさせ、ようやく落ち着いて数日。いや、十数日。何ヶ月も経っていないはずだけれど、環境の変化から寝込んだり治療で忙しくしたりしているうちに日付がさっぱりわからなくなっていた。外の景色は相変わらず雪景色で、無闇に言葉を交わすななどと言われているのだから、当然である。
唯一の会話相手である男の訪問は、さすがに毎日というわけにはいかなくなったようで、それでも三日とあけずにエレオリアの顔を見に来る。同じ屋敷に住んでいるはずなのに、感覚的な距離があくというのも変な話だ。
「エレオリア……?」
ノックと名乗りのあと、ひと呼吸置いて部屋に入るなり、男は空の寝台の前に立ち尽くしている。
エレオリアは男の後ろ姿を見ながら、苦笑した。
「こっちだ」
窓際の花に水をやっていたエレオリアは、振り返った男に抱きすくめられ、思わず水差しを取り落としそうになった。
「……どうしたんだ」
あの片田舎にいたときもそうだが、ここに移ってから、男は顔を合わせるとエレオリアを抱き寄せるようになった。最初の数回は驚き抵抗もしたが、言ってもやめない上に避けられないので、今ではエレオリアも諦めている。彼の背中を軽く叩くほどの余裕を持って、エレオリアは男の様子を伺った。
(……顔を、見せようとしないな)
それをそうと、手に持ったままの水差しをどうしようかと視線を巡らせる。きちんとしまりきっていない扉の向こうの、恐らく通りすがりだろう栗毛の侍女と目が合ってしまった。主の奇行には慣れているのか、侍女とエレオリアはそろって気まずげに笑った。ひとまずエレオリアは水差しを軽く掲げると、あ、と侍女は気がついたようですぐさまうなずいた。物音一つたてず扉に触れずに部屋に滑り込み、エレオリアから水差しを受け取る。彼女はそうして一礼し、やはり無音で退室していった。
さすがだ、と感心しながら、さて、とこの大きな子どもをどうするべきか、と意識を戻した。
「何があった」
抱きしめてくる腕に、力がこもる。何かはあったのだろう。それを、エレオリアに言うことはあるはずないが。情報も何もないエレオリアには、察することさえできない。
時々、この男はこんな風にエレオリアに縋る。弱音を吐くでもなく、何か求めてくるでもなく。何も言わず、ただ、エレオリアに顔を見せようとしない。
エレオリアには、このとき、男が泣いているように思えるのだ。何があったのかは知らない。ただ、この人は傷ついたのだと何となく感じとる。
名前を呼べたら、もっと励ませただろうか。もっと、近くに行けて、力になれたのだろうか。
過った思考に、無意識に唇をかんだ。唇の痛みに戸惑いながら、けれどなぜと考える余裕はなかった。
ただその背中を撫でるだけで、エレオリアはかける言葉を探す。
「ゆっくり休むといい。時間なら、たくさんある」
言った途端、ぐい、と乱暴に両肩をつかんで引きはがされた。咄嗟のことでエレオリアは硬直する。つかまれた肩の痛みに、顔をしかめた。
「何をする」
言って、すぐに口を閉ざした。ようやく見せた男は、ひどい顔で。
口を閉ざしたのに、言葉をかけずにはいられなかった。
「なんだ、その。……情けない顔は」
今にも泣きそうな顔、と言い換えてもいい。何があったんだ。エレオリアに言ってもなんにもならないだろうから、先ほど告げた言葉を繰り返すことはできなかった。
「時間が……」
ないんだ、と続ける声は消え入った。泣きそうな顔で、何をそんなに焦っているのだろう。エレオリアは、刻一刻と落ちていく砂をただ眺めるばかりだというのに。
大丈夫だ、とエレオリアは男に微笑みかける。
エレオリアの笑みに、男はさらに途方に暮れたような表情になった。目を見開いて、泣きそうで。出会った当初、食わせ物かと思ったのに。それなのに、この男はこんなにも、情けない。
それでも、彼の医者としての治療は、確かな結果を生んでいる。
「ここに移ってから、調子が良くなったぞ。こうして日中動いても辛くなくなった。この花だって、あたしが育てている」
だから、あなたはそんな風に無力を嘆くような顔をしなくていい。
窓辺に置いてある花に、男は視線を向ける。寒い地域でも小さな白い花をつける、強い花だ。
「うん……。綺麗だ」
やっと男が穏やかな表情に戻った。エレオリアの肩を掴んでいた手も、優しく添えられるだけとなっている。
綺麗といえば、と続けながら、エレオリアをまた抱きしめた。
「その衣裳」
耳の近くでぽつりと囁かれ、うん? とエレオリアは自身の身につけている衣裳を思い返す。紺色の飾り気のない簡素なものだ。頻繁に体調崩す為、ゆったりとした部屋着で、本来人前に出て良い姿ではない。ましてや異性の前になど。
しかしエレオリアと男はどこまでも患者と医者であり、それ以上ではありえなかった。
エレオリアとエリオローウェンの関係と同じだ。それ以上でも以下でもない、定まった関係。変化などない。だからエレオリアは、
「うーん」
男はじーっとエレオリアの衣裳へと視線を落とし、何が不服なのか首を捻った。
「……なんか、違うなぁ。その衣裳は違うよ、エレオリア」
「似合っていない、か?」
意図が汲み取れず、問いかければ、うん。と男はうなずいた。
「そうだね。似合ってない」
そういわれても、とエレオリアは困惑する。衣裳など、着れればそれで良いではないか。エレオリアの生活の、いったいどこに着飾る必要性があるというのか。
「君には他に、とびきり似合う色がある気がするよ」
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