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4.気付いた男は我が道を行く。


 綺麗なものを見たんだ。

 あの、溶けることのない雪のただ中で。


 こぼれるしずくは、とても、かけがえのないものだと。





 頬を撫でられている感触に、思わずすり寄った。手は思いのほか驚いたのか、ぴくりと震えて動きが止まる。

 ゆるりと首を振って頬をその手にすりよれば、苦笑が聞こえた気がした。また、そっと撫でられて、一度浮上した意識は再び沈んでいく。


「……いい夢だ」


 思わず、小さく呟いた。


 だって、ここは雪の止まぬ国だというのに。

 こんなにも、あたたかいから。

 だから、これは、とてもいい夢。





 温かで、穏やかな気持ちで、この屋敷での生活の日々は過ぎていった。

 入れ替わり立ち替わり交代の激しい医者たちは、相変わらずエレオリアの身体を診察し、医学大国だというからきたのに、良くなることはなく。かといって悪くなることもないまま、気がつけば、エレオリアは男と多くの時間を過ごしていた。


 寒さの厳しいある日に、エレオリアはいつもの寝室を移動して、大きな暖炉のある部屋へと居場所を移していた。

 暖炉の目の前に陣取り、本をめくるエレオリアの隣には、男が当然のような顔をして、不向きな手元でありながら、本を下敷きになにか紙に書き付けている。

 男はいつだってそんな風にしながら、なんでもないことのように様々な話題をエレオリアへと投げかけた。


「恋……?」


「そう、君は、恋をしている? それとも、していた? かつて婚約者だったという人への恋心は、今、どこにあるのかな」


 男の問いかけに、エレオリアは目を伏せる。エリオローウェンとの間柄を、名前を付けて人に説明するのはひどく難しい気がした。説明したとして、納得させることは。

 それに、あの人との思い出で、男に話すことは何もない、とも。


「そうだな」


 顔を上げて、めぐらせて、男の背中側。窓の外を見る。

 雪が風とともに吹きすさび、分厚い窓はがたがたと揺れていた。外は真っ白だ。遠くの山々も見えやしない。

 窓の枠に積もっていく雪は、当然のように、白かった。


「恋は、している」


 ひどく静かな気分で呟く。

 男の書き付けの手が止まった。とろりと澄んだあの瞳が、じっとエレオリアにそそがれる。さぁ、この男。未だにエレオリアがエリオローウェンに未練を残している、などと思い違いでもしているのだろうか。


「祖国で感じた、暑いほどの日差し。この国で感じた、冷たい、空気。草原で身に受けた、爽やかな風。澄んだ水の流れる小川。雨。雪」


 恋を、している。


 手に入れることのできないものであるから。


 エレオリアにとってそれらは全て身を害すものであり、もう、こんなふうに、窓越しでしか見ることのできないものであるから。


「あたしを、いつもおいていくこの世界に」


 そして、と続けながら自嘲する。


「あたしが、いずれおいていくこの世界に」


 男が瞬くのがわかった。


「恋を、してるの? こんな世界に」


 ひどく乾いた声だった。いつだったか国を愛しているように思えた男は、しかし世界を愛してはいないようだ。

 エレオリアは目を細めた。視線は、窓の外へとやったままに。


「あたしはもう、長くないだろう」


 この男だって、医者の勉強しているのだから、わかるはずだ。エレオリアは、遠くない未来、もうここにいない。


「見れなくなるもの、いずれ、無くしてしまうものは、どんなものであっても、多分、惜しいのだと思う」


 伸びてきた手にひゅっと息をのむ。また、と思って、ほんとに一呼吸で男はエレオリアとの距離を詰めたのだと気付く。


「な」


 に、を、する。寄りかかっていた椅子に阻まれ、エレオリアはそれ以上逃げられなかった。膝の上においていた本も重い。

 男はエレオリアと目を合わせることはなく、どこを見ているのか、髪か、額か、耳か。見られている本人であるエレオリアに、男の視線を追うことはできない。


「さあ」


 男は呟いた。そして、その口元が弧を描く。


「なぜだろう。とても触れたくなったんだ」


 こめかみに指先が触れた。予期せぬ箇所への接触に、エレオリアはキュ、とめをつぶる。「だめだよ?」男が苦笑とともに囁いた。


「そんな風に、無防備に目を閉じるのは良くない。全て預けてもいい相手かな、僕は」


 それでも。エレオリアは短く息を吸って、吸った以上に言葉を吐いた。


「……そ、れでも。あなたは、医者だろう」


 勉強中、であったとしても。


「いい子だね、エレオリア」


 そういって、男はエレオリアの頭をぐいぐいと撫でた。なんなんだ、と目を開ければ、すぐ側に男の顔があった。


「いい子だね、エレオリア」


 もう一度。目を合わせて、言い聞かせるように男はエレオリアへと告げる。その笑みが、さらに深くなった。


「君の目、とても嫌いだよ」


 なぜだろう。その言葉はとても鋭く深くエレオリアの胸に突き刺さったというのに。


(死期が近い、と話したばかりだ)


 エレオリアは、傷ついた心でそんなことを考えていた。

 じきにいなくなる人間に、そんな言葉は不要だろうに、と。


 そんなエレオリアの心を読んだのかどうか。


 男のほうこそひどく傷ついた目をして、エレオリアの手を取り口づけた。


「ああけれど、そうだな。うん。嫌いだよ、君のそんな目は」


 同じ言葉を繰り返して、でもね、と笑った男の目の奥に、何か熱のような光が閃いた。


「なんだか君、とても綺麗だね?」


 予感させるには十分すぎるそれを。

 十六になったばかりのエレオリアは、きょとんと瞬いて首を傾げるのだった。




 そんな出来事を織り交ぜて、エレオリアの人生の最終章は綴られていった。


 そうして、エレオリアがここにきて二度目の、『寒さの最も和らぐ季節』が訪れる。






「エレオリア」


 柔らかな呼び声に、読んでいた本を膝の上に伏せる。呼びかけのあと少しして入ってきた亜麻色の髪の男は、相も変わらず毎日エレオリアの元に顔を出す。

 膝の上に本を伏せているエレオリアに気付いたのか、男はむ、と口を曲げた。エレオリアを注意深く見つめて、羽織っただけの白衣をはためかせながら寝台横の椅子に腰掛ける。


「起きてていいの? 辛くはない?」


 また少し体調を崩して数日寝込んでいたエレオリアは苦笑して、大丈夫、とうなずいた。


「昨日と比べてずいぶん調子がいいんだ。もう、あたしがここにきて一年と少しだろう。これから『寒さが和らぐ季節』だと、わかっているからだろうな」


 一番寒い時期は、正直眠ったまま死ぬんじゃないかと何度も思ったくらいだけれど。あぁ、男は苦笑する。火を絶やさないようにして、どうにか乗り越えた。体調を崩さなかったことも理由の一つにあげられるだろうか。屋敷が古いせいもある。そもそも、本来この屋敷は夏の間に使う別荘であって、年中通して暮らすには不向きなのだ。今屋敷の者があれやこれやと住みやすいようにしてくれているが、そんな手間をかけなくてもいいのに、とエレオリアは肩をすくめる。


「もう、一年か」


 男はぼんやりと呟いて、じーっとエレオリアを見つめる。どうした? とエレオリアも問い返すが、いや、と男は詳しいことを口にしない。


「……エレオリア」


「なんだ?」


「エリオローウェンは、どんな人だったの」


 久しく耳に入れていなかった名前に、エレオリアは目を見開いた。

 懐かしい。ふと呟いて、そんな過去のことでもないのに、と苦く笑う。もう、会うこともない雲の上の存在であることは確かだ。


「変わった人だった」


 言葉はするりとこぼれた。何の抵抗もなく。男になら、口にしても良いか、という気安さで。


「婚約者であるあたしを置いて、自由にたくさんの領地を見て回っていたな。土産話をたくさんしてくれた。まめに会いにきてくれて、手を引いて、庭を歩いて」


 そう、彼の隣にいると、お姫様になったような気分だった。エレオリアとて、伯爵家で大切に育てられた、貴族の姫君ではあったけれど。そういうことではなく、まるで、物語のお姫様。勇敢な王子様と結ばれる、そんなお姫様のような。

 それは、エリオローウェンが勇敢な王子様に思えただけかもしれなかったが。


「とても、とてもたくさん、優しくしてくれた」


 交わす言葉も、選ぶ話題も、何もかもが、若い貴族の令嬢に向ける為のものではなく、何でもない城下の様子だったり、農村の家畜の話だったり。

 それでも、エレオリアには楽しかったのだ。

 剣の腕はからっきしで、賢いわけでもない。ただ、自らの足で見て、考えて、実行する。何かをなそうという姿勢を大切にする人だった。


「あとは、そうだな。舞踏会に出たところで、令嬢たちと踊ることよりも、一人で舞うような、そんな、変わった」


 むぐ、と言葉が遮られる。男がエレオリアの唇に人差し指をおし当てていた。ゆっくりと離れて行く男の指に、エレオリアは首を傾げる。


「……なんだ?」


「なんだろう」


 男も困ったように首を捻っていた。まったく、またか。とエレオリアはため息を吐く。男の奇行は今に始まったことではない。突然エレオリアの頬や首、髪、喉、そんなとんでもないところに、たびたび触れてくるのだ。唇を指で塞いで言葉を遮るなど、序の口だった。

 まぁ、いい。とエレオリアは肩をすくめる。だって本当に、いつものことなのだ。


「そういえば、エリオローウェン様の話、前にも聞いたことがあったな。半年ほど前のことになるが」


 あのお方の、何がそんなに気になるんだ?

 エレオリアのその問いかけに、男は瞬いた。


「エリオローウェン……」

「あたしの元婚約者殿が、そんなに」


 気になるか、と言いかけたエレオリアの目の前で、男が勢いよく立ち上がった。なに、と首をすくませる娘を前に、男はその目を見開いていた。


「……」


 思わず、エレオリアは男の名前を呼びそうになった。


 そうして、男の名前を知らぬ自分に驚愕し、今の今まで知ろうともしなかったこと、そして今になって、知りたいなどと望む自分の気持ちに途方に暮れた。


「あぁ、なんだ。そっか、そっかそっか!」


 そんなエレオリアに気付くはずもなく、男は一人ごちる。何を閃いたのか、上気させた頬で、目を輝かせて、エレオリアに微笑んで。


「なんだ、こんな」


 あぁ、なんだ、と男は繰り返す。そして突然エレオリアに迫り、ぎゅ、と一度長い腕をまわして抱きしめたかと思えば、身を翻し退室しかけていた。


「待て!」


 やっとの思いで呼び止めたけれど、続く言葉がない。男は晴れやかな笑顔で、待ってて、と告げた。


「数日、待ってて。すぐ戻るから」


 そうして、扉の外へ出て行って、扉が丁寧に閉じられる。



 それから数日。

 毎日のようにきていたはずの男は、姿を見せなくなった。









 何日かぶりに顔を出した男は、部屋に入るなりエレオリアを抱きしめた。


「良い知らせがあるよ」


「……良い知らせ」


 男の奇行は今に始まったことではないので冷静に、「なんだ、それは」とエレオリアはただ眉を寄せた。男はにこにことエレオリアからはなれ、寝台脇の椅子に腰掛ける。そうして娘がすれば可愛く見えるような仕草で、人差し指を一本立てて、指揮者のごとく振り出した。


「僕が、君の病気を治してあげる」


 は、と問いつめそうになった言葉は、さらに続く言葉によって霧散した。


「だから、君の残りの人生を僕にちょうだい」


 目を見開くエレオリアに、男は表情一つ変えずに、更なる要求を突きつけた。


「そのかわり、君は死んでしまうけれど」


 ね、と、振り回していた人差し指を、何とも可愛らしく口元に添えて。


 男は幸せそうに笑ったのだった。




読んでいただきありがとうございます。

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