10.彼が皇太子になったのは
栗毛の侍女は、名をルティーカと言った。歳は十六で、エレオリアの一つ下。それなのにずいぶんものを知った風な振る舞いをするのは、事実よく頭の回る賢い娘であるのと同時に、この城の侍女も学ばざるを得ぬ環境であるということ。
そう察して、エレオリアは重くため息を吐いた。
「……あなたは、こんなことをして罰せられないのか」
わたくしは良いのです、とルティーカはにっこりとした。
「何をしたところで、旦那さんがかばってくださいますから」
絶対の信頼のもと告げられた言葉に、エレオリアが瞬いた。なんだか、栗毛の彼女が、エレオリアにはまぶしかった。
ヴェニエール帝国皇太子。その名を、レオンセルクという。
彼は暴君の元に産まれた。暴君といえど、国を動かすにあたって問題を起こしたことはない。ただ、帝国皇帝は、気まぐれにその手で官や侍従、侍女を打つのだ。
殺された、などという前例はない。
周りがかばおうとそれを咎めることもない。そのかわり、誰かは必ず打たれることとなる。
ただひたすら、気まぐれに、皇帝は手を上げるのだった。
子どもの所行であれば、それは阻まれた正されるべき悪癖だったかもしれない。しかし、皇太子時代は実によくできた青年であったのだ。王位を継いだ、大の男が、何を思ってか突然手を上げるようになったのだ。
輝かしい未来が見えていた王の変化に、全ての者がおののき、身動きが取れなくなっていたのだった。
レオンセルクの他にも皇女や皇子はいたが、彼らは皆、皇帝から隠されるようにして育てられた。どのような経緯でレオンセルクが皇太子として立つこととなったのかは定かではない。
ただ、レオンセルクは学問か武術を選ばされ、学問を取り、そして、没頭していくうち気付かぬままその道の権威に見初められ、優秀だと評価されたに過ぎなかった。
帝王学など、学んだこともなかった。アカデミー在学中に王に呼ばれ二言三言言葉を交わしたかと思えば、翌日レオンセルクが皇太子だと宣言がくだされていた。
才がある、といわれたのだ。
意識もせずに、人を従わせる才が。
「……知ったことじゃ、ないんだけどね」
意識が一瞬跳んでいたらしい、レオンセルクは机の書類向かった状態で、頭を振った。深く椅子に座り直し、大きな息を吐く。
自室であってよかった。執務室でこんな失態を演じれば、新皇帝教育に熱中している者たちから、どんな言葉が跳んでくることか。
かつて皇帝と言葉を交わしたとき、大したことは言わなかったはずだった。レオンセルクは皇帝を軽蔑していたし、かといってあの男の暴力が他者に向かうことのないよう、そつなくこなして対面を終わらすことばかり考えていたはずだ。
それなのに、あの男は楽しそうに笑ったのだった。気に入った、と。才に溢れている、と。
そうして、皇太子に指名されたことを、翌日宰相から聞かされた。
指名されてからは尚更学問に打ち込んだ。義務を見ない振りして、かといって学んでいる医学によって誰かを救うことに熱中するわけでもなく、ひたすら、先人が積み上げた知識をなぞって吸い取り新たな可能性を模索する。
欲しいものなんてなかった。
ようやく欲しいものを見つけた。
学問よりも、地位よりも。
だから、レオンセルクは今、ここにいる。
ため息を吐きながら書類を整える。そろそろ、侍女だか侍従が香草茶を持ってくるはずだった。
昼間口にするお茶でも良いのだが、どうせなら深く眠れるものが良い、と庭園で庭師をしている男に頼んだのが始まりだった。中庭の世話も頼むようになった為、気を利かせてかエレオリアの部屋の花も侍女に持たせてくれる。
あの庭師が若い頃、腕を見込んだ皇帝が、城に招いたと聞いた。
皇帝は軽蔑に値する男ではあったが、けれどあの男、人を見る目は確かなのだった。
寝支度をすませて、寝台横の椅子に腰掛け書類の文面を追っていると、いつもとはどこか違った扉を叩く音に、疑問符を浮かべる。
けれども視線は書類に落としたまま、いつもの癖で入室を許可してしまう。
おずおずと入ってくる人影に、手があかなくて新参の侍女でもきたのかと、レオンセルクは何気なく顔を上げた。
そうして、ばさばさと手に持った書類が落ちていく音を聞きながら、揺れる長い金髪を目にし、可憐なその顔を凝視した。
「エレオリア」
名前は呼んだものの、まだ疑っていた。なぜこんなところに。そもそも夜は冷えるというのになぜそんな薄着で。その白い服は厚手とはいえそれでも夜着ではなかろうか。
疑問と同時に湧き出た憤りをそのままに、レオンセルクは立ち上がり目を伏せたままこちらを見ないエレオリアの手から香草茶がのった盆を取り上げた。なぜ盆を持っているのだという疑問は湧かず、とりあえず部屋の隅にあるテーブルの上に置いて、寝台下から城下に降りる際使っている地味な外套を引っ張りだして、エレオリアの肩にかける。ここでようやく、ほっと息をついた。
ふと、エレオリアを注視すれば、彼女は深い海の色をした瞳をまんまるにして、レオンセルクの方を見上げている。
思わず眉を下げて、それでも笑ってみせた。
「どうしたの」
聞きたいことはたくさんあったけれど、その前にこのエレオリアの思い詰めた表情をほぐしてやることが先だった。
「……香草茶を」
小さな声で告げられて、あぁ、と隅のテーブルによけた盆と香草茶を振り返った。そういえば、なぜエレオリアが、と内心で首を捻る。
じゃなくて、とエレオリアがさらに小さな声で続けた。
「謝りに、きたんだ」
「そっかそっか……?」
思わず軽口を叩いて、なにを、とレオンセルクが続けて問う前に、エレオリアが深く頭を下げた。ちょっと、とレオンセルクが慌てるのも構わずに、深く深く、エレオリアはレオンセルクに頭を下げる。
「すまなかった」
ちょっと待ってくれないかな、とレオンセルクは言うが、エレオリアは頭を下げたままなおろうとしない。ああもう、とレオンセルクはエレオリアの背中に手を添え、寝台横まで導くと、毛布の一枚をエレオリアの肩へかけた。外套をかけて息を吐いたのもつかの間、それでも落ち着かなくなり、すっぽりとエレオリアの姿を完全におおったのだった。
エレオリアを毛布でくるんだレオンセルクのその手を、彼女は掴んだ。重ねて謝罪を口にする。
「あなたは、嘘をついてなどいなかった」
同じだよ、とレオンセルクは言うのに、エレオリアは認めない。
「あたしが、勝手にそう思い込んで、勘違いして、裏切られた気持ちになっただけだ。あなたにしたのは、ただの八つ当たりだった。もうしわけない」
そんなことない。と、レオンセルクは首を振る。
「聞かないことをいいことに、勘違いしていると知りながら訂正しなかった。君は、もっと怒っても良いんだ」
僕を、怒っても良いんだよ。謝らなくちゃいけないのは、言わなくてはならないことを口に出来なかった僕だ。誠実さに欠けた、僕が悪いんだ。
うなだれるエレオリアに、レオンセルクは努めて明るい声を出す。
「それにしても、この間といい今といい。エレオリアは思いがけないことをするね。びっくりした。突拍子もなさ過ぎて、全く予想が出来ないな」
どうしたんだいまったく、と肩をすくめる。
「寝たきりは退屈になった? それとも、僕を好きにでもなったの?」
なんてね、と笑いかけたレオンセルクの顔めがけて、枕が宙を舞った。
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