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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第5話 オーク衆

「おい、聞いたか? 西の街道で商隊が丸ごと消えたってよ」


「ああ……『オーク衆』だろ。最近じゃ、街のすぐ側まで来てるらしいぜ」


 酒場の隅、脂ぎった熱気と煙の中で、荒事師たちの不吉な囁きが耳を叩く。

 濁った酒を指先で弄びながら、俺はわざとらしく大きな欠伸を噛み殺した。


「軍隊並みってわけじゃねえが、奪った得物を手当たり次第に振り回す連中だ。あの雑多な武装が、かえって実戦じゃ厄介なんだよ」


「騎士団は何をやってやがるんだ。……ああ、躍起になって追ってはいるらしいがな。空回りして、尻尾一つ掴めてねえって話だ」


「はっ、騎士様たちは甲冑を磨くのに忙しいのさ。F級の俺たちが心配したところで、銅貨の一枚にもなりゃしねえよ」


 隣の席の男が吐き捨てるように笑う。

 その下卑た笑いに合わせ、俺も力なく肩をすくめ、自嘲気味に口角を上げた。


「まったくだ。俺にゃ手負いの猪を仕留めるのが関の山さ」


 だが、会話に混じった「象徴」が脳裏にこびりついて離れない。


『奴らのシンボルは、赤く塗られた二本の猪の牙だ。見たら最後、逃げ場はねえ』。


 それが酔っ払いの法螺話にしては、妙に生々しい予感を連れてくる。


「……猪の牙、か。よりによってな」


 俺は杯を置き、気配を消して音もなく席を立った。


「おい、どこへ行くんだ?」


「酔い覚ましだ。寝覚めの悪い夢を見たくねえからな」


 背後の笑い声を捨て、酒場の重い木扉を押し開ける。

 外の冷たい夜風が、最悪の結末を予感させるように俺の頬を撫でて通り過ぎた。

 その瞬間、昼間の忌まわしい光景が鮮明にフラッシュバックする。

 市場で花売りの少女に絡んでいた、あの醜く肥え太った三匹の「豚」どもだ。

 身なりの汚い服をはち切れんばかりに膨らませた、中心の男。

 フードも被らず晒したその左頬には、深く歪な二条の裂傷があった。

 ……まさに、今聞いたばかりの「猪の牙」そのものの形だ。


「……あの野郎、ただのチンピラじゃなかったか」


 俺が少女を助けた際、あの傷だらけの男が浮かべた底冷えする憎悪。

 去り際に吐き捨てられた言葉が、呪詛のように耳に蘇る。


『――おい、ツラは覚えたぞ。地獄を見せてやる』


 あれは小悪党の虚勢などではなく、獲物の死期を確信した捕食者の宣言だったのだ。

 俺が買った恨みと『オーク衆』の噂が、最悪の形で結びつく。


「……騎士団が手こずるわけだ。あいつら、鼻が利く」


 俺は懐に隠した、一本の「先割れスプーン」を指先で確かめた。

 俺の唯一の得物だ。フォークの鋭さとスプーンの重みを持つこの鉄塊が、これまで数多の喉笛を音もなく掻き切ってきた。

 だが、今の俺を突き動かしているのは、暗殺者としての仕事の義務感じゃない。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間に助けたあの花売りの少女の、震える小さな肩だ。


「……あの野郎、あの子にまで『地獄』を見せるつもりか」


 奴らがただの野盗なら、真っ先に金目の物がある場所を狙うはずだ。

 だが、『オーク衆』は執念深く、受けた屈辱を倍にして返すことで知られている。

 あの踏みにじられた花は、あの子への「次の標的」という宣告に他ならない。

 俺は目を閉じ、視覚以外の全ての感覚を研ぎ澄ます。

「嫌な予感」という名の羅針盤が、闇の奥へと意識を誘導した。


「……見えた。三つ目の角、その先の死角か」


 賑やかな大通りを離れ、闇の澱む路地へと吸い込まれるように足を速める。

 辿り着いた廃倉庫に、扉を蹴り開ける必要はなかった。


「……ちっ、もぬけの殻かよ。逃げ足だけは速い豚どもだ」


 倉庫の中には、まだ微かにあの脂ぎった体臭が立ち込めている。

 中央の床に目を落とすと、そこにはあの子が売っていたはずの花々が、泥と煤にまみれて散乱していた。


「……間に合ってくれよ」


 奴らはつい先刻までここにいた。

 だが、今はもう別の場所へ――あの子の家か、あるいは人目のつかない袋小路か――移動している。

 壁に残された、あざ笑うような「猪の牙」の紋章が、俺の焦りを煽る。


「重てえ体で歩き回った跡は隠せねえ。あの子の泣き声が聞こえる前に、必ず追いつく」


 俺は暗殺者の視覚を研ぎ澄まし、わずかに残された「移動の痕跡」を追う。

 一刻の猶予もない。あの子の命の灯が消える前に、このスプーンを奴らの喉笛に突き立ててやる。



 闇の奥から、肺を抉り取るような鋭い悲鳴が響いた。

 夜の静寂が、一瞬で切り裂かれる。

 俺は反射的に屋根の縁を蹴った。

 瓦を粉々に砕く勢いで、その方向へと身体を躍らせる。

 風を切る音さえもどかしく感じた。

 一刻も早く、コンマ一秒でも早く。

 地を這う影のように駆けたが、無情にもその一歩は届かなかった。

 少女の家の扉は、暴力の痕跡を刻むように無残に蹴り破られていた。

 傾いた蝶番が、断末魔のように軋む。

 室内には男たちの脂ぎった笑い声と、重苦しい死の気配が充満していた。

 床には、病で伏せっていたはずの母親が倒れていた。

 冷たい板の間の上で、物言わぬ骸となっている。

 その瞳は開かれたまま、もう二度と最愛の娘を映すことはない。


「……あ、あぁ……お母さん……っ。嘘、嘘よ……起きて……お願いだから、目を開けてよ……!」


 少女の虚ろな声が、冷え切った部屋の隅々まで染み渡る。

 彼女の目の前には、一人の男が立っていた。

 左頬に猪の牙で裂かれたような、醜い傷を持つ男だ。

 男は返り血を浴びたナイフを指先で弄んでいる。

 その顔には、隠しきれない残虐性を孕んだ下卑た笑みが浮かんでいた。


「おいおい、そんなに泣くなよ。せっかく苦しい病気から解放してやったんだぜ?」


「薬代もかからなくなった。むしろ俺たちに感謝してほしいくらいだなぁ」


「なあ、お前らもそう思うだろ?」


 男の問いに、背後の二人が下劣な笑い声を重ねる。

 肥えた影が、錆びた斧や棍棒を威嚇するように床に打ち付けた。

 奴らは、騎士団すら手を焼く野盗集団『オーク衆』。

 だが、頬に「牙」の傷を誇示するように刻んでいるのは、まだ序列の低い端くれである証拠だ。

 今ここにいるのは、その群れの中でも特に品性の欠片もない出来損ないの三匹に過ぎない。


「……ひどい……どうして……お母さんは、何もしてないのに……っ」


「返して、お母さんを返してよ!」


「どうしてだと? 決まってんだろ。俺に恥をかかせたあのドブネズミへの見せしめだよ」


「あいつが余計な正義感を出して、俺たちの邪魔をしなければ、ババアも死なずに済んだんだ」


「いいか、全部あいつのせいなんだよ。お前が恨むべきは、俺たちじゃなくてあいつだ」


 男は脂ぎった顔を少女に近づけた。

 泥に汚れた太い指で、彼女の細い顎を乱暴にしゃくり上げる。


「やめて……汚い手で触らないで……っ!」


「ははっ、いい声だ。恐怖で震える喉笛を鳴らして、もっと泣き叫べよ」


「お前の大好きなあの『ヒーロー』を呼んでみろ」


「どうせあの臆病者は、今頃どこかの酒場で震えてるだろうよ」


「俺たちの影に怯えて、安酒に溺れてるさ。助けに来る度胸なんて、ありゃしねえんだ」


 男の仲間たちが、獲物を追い詰めた快楽に肩を揺らす。

 さらに少女を、逃げ場のない壁際へと追い詰めていく。


「おい、まずはその綺麗な目から潰しちまうか?」


「それとも、お前が大切にしてたあの花みたいに、全身ぐちゃぐちゃに踏み潰してやろうか?」


「どっちから壊されるのがいい? 選ばせてやるよ。俺たちは優しいからな」


「お願い……もうやめて……誰か、誰か助けて……! おじさん、助けてよ……!」


 少女の絶望に満ちた叫び。

 男はそれを、耳障りな嘲笑で無慈悲にかき消した。


「助け? 来ねえよそんなもん。あいつはただの落ちこぼれだ」


「今さらここへ来る度胸なんて――」


「……あいにくだが、度胸じゃなくて執念深さで生きてるもんでな」


 一歩、静かに敷居を跨いだ。

 俺の足音は、死神の歩みのように微かな音も立てない。

 男たちの背中に、俺が現れる予測など微塵もなかった。

 無防備に晒されたそのうなじを見据える。

 手の中の「先割れスプーン」を、肉を裂く感触を予見するように強く握りしめた。

 冷たい鉄塊が、俺の怒りと復讐の熱を帯び、指先に深く食い込んだ。


「……遅かったか」


 俺の低い、地を這うような声。

 三匹の「豚」が驚愕に目を見開き、弾かれたように振り向いた。


「なっ……てめえ、何でここにいやがる! どこかへ消え失せたんじゃなかったのか!」


 左頬に傷を持つ男が、顔を歪ませて叫ぶ。

 母親を殺し、少女の心を無残に壊した奴らだ。

『オーク衆』の鼻がどれほど利こうが、俺の殺意の速度には、奴らの鈍い感覚など及ばない。


「地獄を見せてやるんだったな。安心しろ、今から案内してやる。出口のない、とっておきの場所だ」


 俺は気配を消すのをやめた。

 抑え込んでいた殺気が、濁流となって室内を支配する。


「……まずは、お前のその汚い口からだ。もう二度と、くだらない口がきけないようにしてやる」


 俺に誇りなど、最初から持ち合わせてはいない。

 ただ、この手の中の鉄塊を、奴らの脂ぎった肉に沈めたい。

 その魂ごと、抉り抜かずにはいられない。

 一瞬の、静寂を切り裂くような踏み込み。

 一人目の喉笛を、先割れスプーンの歪な先端で抉り抜いた。

 刃物のような鋭さはない。

 だからこそ、その鈍い金属が無理やり肉を噛み、気管を潰しながら引き千切る。

 粘り気のある鮮血が俺の顔を、服を、真っ赤に染め上げた。

 二人目が抜刀する暇も与えず、その顔面にスプーンの腹を叩きつける。

 鼻梁を砕き、そのまま眼窩を抉るようにして側頭部を粉砕した。

 脳を直接揺さぶる重い感触が、掌に伝わってくる。

 残るはリーダー格の男一人。

 俺はスプーンを奴の胸元へ深く突き立て、肺を、そして心臓の端を無慈悲に掻き回した。

 男は口からどろりとした血を吐き出し、膝をついた。死は免れない。

 もはや息を吸うことさえ叶わぬ末路だ。

 だが、その朦朧とする意識の底。

 執念か、それともただの足掻きか。

 男は血に濡れた手で、隠し持っていた爆薬を掴み取った。


「……あ、が……道連れ、だ……!」


 導火線が火花を散らし、断末魔と共に爆炎が吹き荒れる。

 凄まじい衝撃が鼓膜を突き抜けた。

 爆圧が木造の家を内側から強引に引き裂き、四散させる。

 俺は咄嗟に部屋の隅で震えていた少女を抱き寄せ、燃え盛る梁を蹴り破って外へと飛び出した。

 背後で、少女の家が轟音を立てて崩れ落ちる。

 炎は飢えた獣のように天を焦がし、瓦礫の奥には、物言わぬ骸となった母親が取り残されていた。

 少女は俺の腕の中で、声も出せずに燃える我が家を見つめていた。

 その瞳が揺らめく火を映し、やがて大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。


「……お母さん、熱いよね。……痛いよね」


 震える小さな声。

 現実を拒絶するように、それでいて全てを悟ったような呟きに、俺は短く、だが断固として答えた。


「……もう、何も感じてはいない。俺がいる。来い」


 少女は俺の黒いコートの裾を、白く細い指で強く握りしめた。


「……どこへ? 私はどうなるの」


「行く当ても、育てる自信もない。だが、あんな連中にくれてやるよりはマシな生活をさせてやる」


「……わかった。私、もう泣かない。だから、置いていかないで」


 村を離れる暗い夜道、冷たい月明かりの下で、少女が泥に汚れた顔を上げた。


「……私の名前、アヤメっていうの。お母さんがつけてくれた、大事な名前」


「そうか、アヤメ。良い名だ。俺には名乗るような大層な名はねえ。好きに呼べ」


「じゃあ……おじさん。これから、ずっと一緒?」


「ああ。奴らが来ても、俺が追い払ってやる」


 この惨劇の背後には、まだ数多のオーク衆が蠢いている。

 奴らがこの地を荒らし、欲望のままに男たちを唆した元凶だ。

 だが、残りの連中がどこで何をしていようが、今の俺の知ったことではない。

 俺の正義は、俺の手の届く範囲にしかないのだから。

 だが、もし。

 もし奴らがこの先、俺やアヤメの平穏に、その汚れた土足で踏み込んでくるというのなら。

 俺は懐のスプーンを握り直す。

 安物の金属が、鈍く月の光を反射した。

 その時は容赦しない。

 その魂ごと、地獄の底へ抉り抜いてやるまでだ。

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