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F級暗殺者――社会の害虫を退治する低ランク暗殺者のおっさんと少女の物語。  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第33話 火花

 男の荒い呼吸がアジトに響く。

 俺は先割れスプーンを構え、喉元を狙う。

 その殺伐とした空気の中で、俺はアヤメは今頃どうしているかと、ふと考えた。

 その頃、フランチェスカの屋敷にある広大な大浴場は、沈丁花の香油が混じった甘く柔らかな湯気に満たされていた。


「ねえ、アヤメちゃん。そんなに隅っこにいなくてもいいのよ? もっと近くにいらっしゃい」


 大理石の縁に白くなめらかな腕を乗せ、フランチェスカがゆったりとした口調で呼びかけた。

 彼女が身じろぎするたび、湯面に浮かぶ豊かな双丘がゆらりと揺れ、真珠のような滴を弾いて波紋を広げる。

 十歳のアヤメにとって、目の前の圧倒的な「大人の女性」としての曲線美は、直視するにはあまりに刺激が強く、眩しすぎた。

 アヤメは耳の付け根まで真っ赤に染め、あぶあぶとお湯の中に口元まで沈み込み、激しく泡を立てていた。


「は、はい……。あ、あの、その……フランチェスカさん……。すごすぎて、なんだか……その……っ」


 心臓の鼓動が耳元まで響いているのか、アヤメは消え入りそうな声で、たどたどしく答えるのが精一杯だった。

 その幼くも懸命な反応を、フランチェスカは慈しむような、それでいて少し悪戯っぽい眼差しで見つめていた。


「ふふ、本当に可愛い子。そんなに緊張しなくていいのに。あなたは私の大切なお客様なのだから」


 フランチェスカは片手ですくった湯を撫でるように自分の肩にかけ、その仕草一つで辺りの空気を優雅に変えてしまう。


「アヤメちゃん、昨日から王立魔法学院に通い始めたのでしょう? 初めての学院生活はどうだったかしら。貴族の子息も多い場所だから、苦労していないか心配していたのよ」


 フランチェスカの穏やかで包容力のある問いかけに、アヤメは少しだけ肩の力を抜き、水面から顔を出して小さな吐息を漏らした。


「……はい。昨日……すごく、緊張しました。……建物がどこも立派すぎて、自分がどこにいるか分からなくなって……。危うく、迷子になりそうでした」


 アヤメは言葉を一度切り、掌でお湯をすくっては、その温もりを確かめるように見つめた。


「魔力の測定とか……授業も、まだ難しくて。……周りの子たちが、みんな凄く立派に見えて、圧倒されちゃいました。私、上手くやっていけるのかなって……」


 少しだけ伏せ目になったアヤメの細い肩に、フランチェスカは優しく声をかける。


「大丈夫よ。焦る必要なんてないわ。何か、アヤメちゃんが心惹かれたものはなかった?」


「……図書室が、すごかったです。見たこともないような本が、天井までぎっしり並んでいて……びっくりしました。……あんなに大きなお部屋、初めて見ました。明日も、迷わないように頑張ります」


「ふふ、そうね。あの学院の広さには、大人でも驚くもの。でも、あなたのその素直な感性があれば、きっと楽しいことがたくさん見つかるわ」


 フランチェスカが花が咲くように優しく微笑むと、アヤメは嬉しそうに頷いた。

 その瞳には、十歳の少女らしい可憐さと、新しい世界への期待が宿っていた。


「……はい。学院で、たくさん勉強して。……いつか、おじさんのことを、私が、ちゃんと支えられるように、なりたいんです」


 二人の穏やかな笑い声が、天井の高い浴室に反響し、心地よい余韻を残して消えていく。



「……さて。お喋りの時間はもう終わりだ」


 俺は地を這うような低く冷徹な声を吐き出し、一瞬にして自らの存在感を周囲の景色へと霧散させた。

 肺の中の空気を静かに抜き、筋肉が立てる微かな軋みさえも意識の底で殺す。

 影そのものと化した俺の身体は、月明かりの届かない床を滑るように移動し、敵リーダーの完璧な死角へと音もなく潜り込んだ。

 一歩、また一歩。

 間合いを盗むその足運びは、長年の実戦で練り上げられた歩法そのものであり、熟練の暗殺者であってもその接近を捉えることは困難なはずだった。

 経験に裏打ちされた精密な動きによって、俺は男の背後、まさに心臓が跳ねる鼓動さえ聞こえる距離へと至る。

 手の中に隠し持った先割れスプーンの切っ先が、男の無防備に晒された頸動脈を確かに射程に収めた――。

 勝利を確信し、指先にわずかな力を込めたその刹那、静寂を暴力的に切り裂くような男の怒号が部屋全体を震わせた。


「――舐めるなよ、貴様ァッ!」


 男は、知識や鍛錬を超越した、生き物としての野性的な直感だけで俺の接近を察知したのだ。

 脊髄反射に近い驚異的な反応速度で男は身をよじり、致命の一撃を回避する。

 必殺を期したスプーンの刺突は、わずかに男の肌をかすめるだけで空しく虚空を切り、空振りの鈍い衝撃が掌から手首へと伝わった。

 それと同時に、男の手元で鋭利な銀光が閃光のように走った。

 回避行動によって生じた身体のひねりをそのまま威力に転じ、逆手に握られたナイフが、俺の予測を上回る速度で右腕を狙い打つ。


「くっ……!」


 焼けつくような熱い痛みが走り、上着の袖が鮮血に染まって無残に裂けた。

 俺は即座に床を強く蹴り、翻る影となって数メートルの距離を取る。

 再びスプーンを低く構え直して対峙するが、傷口から伝わる痺れが、敵のリーダーという地位が伊達ではないことを物語っていた。

 一方、その頃のアジト外の広場では、俺が指揮官を釘付けにしたことで、盗賊たちの連携に決定的な乱れが生じ始めていた。

 だが、賊の側もただ無策ではなかった。

 乱戦の最中、後方に控えていた数人の賊の魔術師たちが、獲物を追い詰めた獣のような残忍な笑みを浮かべ、一斉に杖を突き出した。


「死ね! 冒険者どもッ! 跡形もなく消え去れ!」


 その絶叫とともに、毒々しい紫色の炎を纏った凶悪な火球が「赫耀たる星辰」に向かって放たれる。

 さらに大気を引き裂く石の弾丸が雨あられと降り注ぎ、カイルたちの足を止め、その命を刈り取ろうと荒れ狂った。


「セリナ! 援護を頼む!」


 カイルが後方へ叫ぶ。

「分かってるわ! 星の盾よ、我らを護れ!」

 セリナが瞬時に展開した多層の防御結界が、敵の魔法攻撃を火花とともに弾き飛ばす。

 魔法と魔法が衝突し、辺りに凄まじい衝撃波が広がる。

 だが、魔法を防ぎきったその一瞬の隙を、この重戦士が見逃すはずもなかった。


「魔法使いごときが、調子に乗るんじゃねぇ! 邪魔だッ!」


 バルガスが地面を爆砕するような勢いで猛然と突っ込んだ。

 凄まじい風切り音とともに、「どけぇ! 雑魚どもがッ!」という地鳴りのような咆哮が夜の空気を震わせる。

 巨大な戦斧を旋回させながら放たれた渾身の一撃は、魔法の壁ごと敵の術者をなぎ倒し、圧倒的な膂力によって敵陣のど真ん中に巨大な空白地帯を作り出した。

 吹き飛ぶ賊たちの叫び声が、夜の静寂をかき消すように響き渡る。

 そのわずかな隙間を縫うようにして、再びセリナが杖を高く掲げた。


「逃がさないわよ……星よ、我が敵を貫け!」


 彼女が紡ぐ高速の詠唱とともに、杖の先から放たれた高密度の魔弾が、夜空を彩る流星群のように降り注ぐ。

 それらは統率を失い右往左往する賊たちの足元を正確に爆砕し、あるいは逃げようとする背中を冷徹に射抜いて、次々と再起不能の深手へと追い込んでいった。

 カイル、バルガス、セリナ。

 三人は、俺が作り出した好機を逃さず、若さゆえの鋭さと勢い溢れる連携で戦場を支配していた。

 実戦の中で磨き上げてきた瑞々しいチームワークは、今や完全に主導権をその手中に収めている。

 次々と無力化されていく部下たちの気配を背後で感じながらも、目の前の男はそれらをゴミのように切り捨てるように鼻で笑った。

 仲間への情など微塵も見せず、ただ自分の計算を狂わせた「イレギュラー」である俺を排除することにのみ、どす黒い怒りを燃やして目を血走らせている。

 俺は腕の傷から滴る血を気にも留めず、静かに、それから深く腹の底で息を整えた。


「悪いな。あんたが頼りにしていた部下たちは、あいつらが全部片付けてくれるさ。あんたの描いた傲慢な物語も、ここで幕引きだ」


 俺は再び、血と脂に汚れた安物の先割れスプーンを、名剣にも劣らぬ気迫で正眼に構えた。

 死神が纏うような、冷たく静かな殺気を全身から放ちながら、じり、と一歩、勝利への距離を詰めた。


「……さて。お喋りの時間はもう終わりだ」


 俺は地を這うような低く冷徹な声を吐き出し、あえてリーダーの真正面へと一歩を踏み出した。

 これまで徹底して気配を殺し、影から影へと潜ることで男を翻弄してきた俺が選んだのは、あまりにも「暗殺者らしからぬ」堂々とした正面突破だった。

 その不自然なほどに大胆な挙動は、百戦錬磨であるはずの敵リーダーが培ってきた研ぎ澄まされた攻撃予測能力に、致命的な計算違いを生じさせた。


「なっ……! 正気か……っ!?」


 男は喉の奥で詰まったような声を漏らし、反射的に手元のナイフを鋭く突き出す。

 だが、俺はその刃が届く直前に、身体をわずかに捻ることで最小限の動作で回避し、逆転の勝機を掴んだ。

 手の中にある安物の先割れスプーン。その先端にあるわずかな「割れ目」を、男が握るナイフの根元に強引に噛み込ませたのだ。

 テコの原理を利用し、全体重を乗せて手首を鋭く捻り上げる。金属同士が嫌な音を立てて軋み、暗がりに激しい火花が散った。


「な、なんだと……!? 俺のナイフが、そんなガキが使うような食器に……っ!」


 男が屈辱に顔を歪ませるのを置き去りに、俺は強引にその武器を跳ね上げ、防御を無効化した。

 がら空きになった胴体へ、俺は全力を込めた膝蹴りを叩き込む。

 男が「がはっ」と息を詰めてひるんだ隙に、俺はスプーンの切っ先を男の喉元へと滑らせた。

 コンマ数秒、わずか数ミリの差。

 喉を貫く一歩手前で、俺は動きを止めた。勝負は、完全についた。


「……ぐ、ああああああッ!」


 男が敗北感とともに膝から崩れ落ちるとほぼ同時、アジトの奥深くから耳を劈くような爆発音が響き渡った。

 壁際の松明が不自然に揺れ、そこから走った火が床に撒かれていた可燃性の油に引火する。

 炎は瞬く間に壁を伝い、乾燥した木材や資材を飲み込み始めた。

 不利を悟れば、機密保持のために証拠ごとすべてを焼き払う。

 最初からこのアジトに仕組まれていた、卑劣な自爆装置が作動したのだ。


「おい、クライドさん! 無事か!?」


 黒煙を切り裂くようにして、血気盛んなカイルたちが部屋になだれ込んできた。

 外の賊たちを片付けた彼らの目にも、急速に広がる炎の恐怖が映っている。


「深追いはなしだ! 金目のものは諦めろ、手近な証拠品だけ掴んで脱出するぞ!」


 俺の鋭い指示に、三人は即座に動いた。

 バルガスが卓上にあった重厚な帳簿を力任せに奪い取り、セリナが散らばった怪しい書状の束を風の魔法で手元へ引き寄せる。

 天井が焼け落ちる轟音が響く中、俺たちは炎の舌を潜り抜け、命からがらアジトの外へと脱出した。

 燃え上がるアジトを背にしながら、俺の胸中には拭い去れない懸念が渦巻いていた。

 敵が即座にアジトを燃やして証拠を消そうとした――その迷いのない徹底したやり口を見て、俺は直感したのだ。

 今回壊滅させたのは、あくまで連携している数ある盗賊団の一つに過ぎないのではないか。

 あるいは、これら複数の集団を裏で束ね、意のままに操る巨大な黒幕組織が別に存在しているのではないか――。

 そんな想像が頭をよぎり、背筋に冷たいものが走る。

 翌日の夕方。

 オレンジ色の夕闇が差し込む冒険者ギルドの酒場で、報告を済ませた「赫耀たる星辰」の三人は、俺の座るテーブルを囲んでいた。


「クライドさん、あんた本当に何者なんだ!? あの絶望的な状況で、あいつを真正面から捻り潰しちまうなんてよ!」


 カイルが心底感銘を受けたといった様子で、俺の肩を何度も叩く。


「……正直、クライドさんのことを見くびっていたわ。あの冷静な判断力と戦術眼、私たちにこそ必要なものよ」


 セリナも真剣な眼差しでこちらを見つめ、バルガスが重厚な声で言葉を継いだ。


「なあ、クライドさん。俺たちのパーティに入ってくれないか? あんたという参謀がいれば、俺たちはもっと高みへ、それこそ英雄の座にだって手が届くはずだ」


 若く才能溢れる三人の、嘘偽りのない懇願。

 一介の「便利屋」に過ぎない俺にとって、これほど名誉で心揺さぶられる誘いは他にないだろう。

 だが、俺の脳裏を過ったのは、フランチェスカの屋敷に預けている十歳のアヤメの顔だった。

 不安定な冒険者の暮らしにどっぷり浸かれば、いつかあの子を本当の危険に巻き込むことになるかもしれない。

 血生臭い依頼の連続ではなく、あの子と一緒に過ごす穏やかな食卓。

 それを守ることこそが、今の俺にとって最も優先すべき「仕事」だった。


「……ありがたい話だが、お断りさせてもらうよ。今の俺には、守らなきゃいけないささやかな『日常』があるんでね」


 俺は少しだけ名残惜しさを感じながらも、冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がった。

 不安定な栄光よりも、あの子を迎えに行き、共に小さな家へ帰ること。

 それが、今の俺にとっての勝利の形だった。

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