33話 百年前②
「……あ」
エレノアがマチルダと共に王宮から帰るとき、広い廊下の向こう、従者を従えたリックが歩いてくるのが見えた。
二人は立ち止まり、廊下の端に寄って礼をした。久しぶりに見たリックは、学生時代の面影を残しつつも、年齢を重ねて威厳を増し、強いオーラをまとっていた。
リックはマチルダに「ザリバン家当主就任、おめでとう」と声をかけた。
ザリバン辺境伯である父が先の戦争で戦死したことで、マチルダは当主となった。女性が貴族の当主になる前例はなかったが、反対する者はいなかった。それほどに、彼女は優秀だった。
(もし、女性の当主が普通だったら、旦那様もあんなに私を責めないのに……)
そんなことを考えたが、すぐにあり得ないことだと自嘲した。
「ありがとうございます、陛下。今後ともこの国に尽力し、辺境伯家当主としての責務を果たす所存でございます」
マチルダがリックに礼を言った。
……エレノアは、この姉がリックにあまり良い感情を抱いていないことを知っていた。
エレノアがまだ伯爵家に嫁ぐ前、幼いオースティンに向かってリックの暗君ぶりを嘆いているのを目撃したことがある。
リックは即位後、戦に強い王として知られていた。表向きは、外敵から国を守るための防衛を掲げていた――だが実際には、自ら火種を撒き、戦を引き起こしていた。戦で利益を得る者もいる一方で、多くの民が苦しんでいた。
父が戦死したのも、リックの失策によるものだ。国境地帯の小競り合いを拡大させ、補給も整わぬまま冬季進軍を強行した結果、多くの兵が飢えと寒さで命を落とした。部隊の指揮を任されていた父もまた帰らぬ人となったのだ。
エレノアは父を嫌っていたため何とも思わなかったが、父と仲が良かったマチルダは違うだろう。
リックはマチルダと軽い言葉を交わしたあと、エレノアの方へ視線を向けた。その瞬間、エレノアの心臓は大きく鼓動を打った。十年以上の時が流れたが、かつては愛し合った仲なのだ。平静ではいられなかった。
しかし、リックはエレノアを一瞥しただけで、その場を通り過ぎていった。
(……!)
全身に冷たい水を浴びせられたような感覚が走った。リックに対する思いはもう消えているはずなのに、エレノアの心に暗い影が差した。
ザリバン家に帰ったあと、エレノアの暗い表情を見たマチルダは、心配そうに声をかけた。しかし、その言葉はエレノアの耳にはほとんど届かなかった。
(……なぜ、お姉さまは私をわざわざ王宮に誘ったの?)
エレノアは男の子を産めなくて悩んでいる。それなのに、王宮へ誘われ、かつてのライバル――喉から手が出るほど欲しかった王妃の座に収まった女が、男の子を懐妊したと聞かされた。さらに、昔愛したリックも、エレノアを無視した。
それらすべてが、マチルダの嫌がらせなのではないかと、エレノアは疑いたくなった。
マチルダは、エレノアが嫁ぎ先でそのような扱いを受けているとは知らないだろうから、そんなはずはないと理解しているのに、疑心暗鬼に陥ってしまう。
そもそも、私がこんなに苦しんでいるのは、あんな男と婚姻話をまとめたお姉さまのせい――
元は平民で、度々問題を起こしていたエレノアが伯爵家に嫁げたこと自体、本来は身分不相応だ。それでもこのときの彼女は、マチルダがなんだか少しだけ憎らしくなっていた。
マチルダは結婚こそしていないが、弟子のオースティンと共に暮らしている。おそらく二人は良い仲なのではないかと、エレノアは勘繰っていた。
(何で、私だけ……。同じ父の子供なのに、お姉さまは辺境伯家の当主で、国民の憧れ……あんなに若くてかっこいい恋人までいて……)
その夜、エレノアはザリバン家の地下室に忍び込んだ。そこには、藁で作られた人形や、用途のわからないステッキ、鈍く光る宝石を散りばめた指輪など、さまざまな物が並べられていた。
その大半は呪具だった。放浪癖のあるオースティンは、国内外を旅しては土産を持ち帰る。それをマチルダに贈っていることを、エレノアは知っていた。マチルダはこうしたいわくつきの品々が大好きで、観賞用としてコレクションしているのだと笑っていた。
エレノアには、理解できない趣味だった。
「……これだ」
エレノアは一冊の分厚い本を手に取った。
王宮のお茶会で、マチルダが言っていたことを思い出す――
♢
「弟子が、面白いものを持ってきたのよ。古今東西の魔界生物を召喚できる本、魔界図鑑」
「魔界図鑑?」
カミーラもエレノアも目を丸くした。
「ええ。オースティンが東国を放浪したときに、未開の村で祀られていたものらしいわ。村で起こった事件を解決した礼に譲り受けたそうよ」
「魔界生物って? 魔獣とかかしら……?」
カミーラが尋ねた。
「魔獣、魔虫、魔植物、魔人……なんでも召喚できるらしいわ」
(魔人……?)
「それ、危なくないのかしら」
「そうね。でも大丈夫よ。召喚方法は魔界文字で書かれていて、人間には読めないものなの」
「……魔人って、どんな能力を持っているの?」
エレノアは気になり、問いかけた。
「高位魔人ともなると、召喚者の大事なものと引き換えに、何でも願いを叶えてくれるのだって。……でもまあ、胡散臭いわよね。誰も読めない文字なのに、どうしてそんなことがわかるのかしら」
マチルダはおかしそうに笑った――
♢
その夜、エレノアはその本を盗み、翌日、何食わぬ顔でザリバン家を後にした。
帰り道の馬車の中で、魔界図鑑を開く。しかし、やはりマチルダの言った通り、本の中身は見たこともない文字で書かれていて、さっぱりわからなかった。
気落ちしたままアシュフォード伯爵家へ戻ったエレノアだったが、屋敷には見慣れない女性がいた。
「え……旦那様、今なんとおっしゃいましたか?」
エレノアの目の前で、夫であるアシュフォード伯爵は、リーシャと呼ばれた女性の肩を抱いていた。さらに、エレノアの部屋からは、使用人たちによって彼女の私物が運び出されており、ホールの隅にまとめられていた。
目の前の光景が理解できず、エレノアは呆然と立ち尽くした。
「申し訳ない。慰謝料はいくらでも払う。この離婚届にサインをしてほしい」
「そんな……理由を教えてください!」
「わかるだろう? 跡継ぎが必要なんだ。女しか産めないというのは、私としても困る」
「……でも、その女性は? 必ず男子を産めるという保証があるのですか?」
エレノアは額に汗をにじませながら、リーシャへと視線を向けた。
伯爵は「大丈夫だ!」と自信満々に笑った。
「実はリーシャはもう私の子を身籠っている。……占い師によると、男子だそうだ」
「――」
その言葉が耳に入ると同時に、エレノアの心は凍りついた。
強引に離婚届にサインをさせられ、彼女は伯爵家を追い出されることとなった。
その晩、エレノアはアシュフォード伯爵家にナイフを持って忍び込んだ。寝室で眠るリーシャへと、静かに近づいていく。リーシャの腹を目掛けてナイフを突き刺そうとした瞬間、隣で寝ていたアシュフォード伯爵が気づき、それを防いだ。
「ふざけるな、貴様!!」
エレノアは激昂した伯爵に、半殺しにされるほどの酷い暴行を受けた。伯爵が衛兵を呼んでいる間に、彼女は隙を見て這いずるように窓から逃げ出した。
全身血だらけになりながら、その日に借りていた宿へ戻る。宿の主人から「ど、どうしたんですか?」と声をかけられたが、彼女は構わず自分の部屋に入った。
室内に入ると、部屋の隅であの魔界図鑑が不気味な存在感を放っていた。エレノアはゆっくりとその本に近づいた。手に取り開くと、彼女の血がぼたぼたとページに落ちた。その瞬間、本がぱあっと光り輝いた。
「……!?」
光が収まると、まるで読めなかった文字がしっかりと読めるようになっていた。
(まさか、本に血を吸わせると読めるようになるってこと……?)
そのページには、左に魔人の絵が描かれ、右には、その魔人の召喚方法が記されていた。
召喚方法――血で魔法陣を描き、その中央に召喚者の髪の一部と両手の全ての爪を捧げ、呪文を唱える。
エレノアは、そのページに載っている魔法陣を見よう見まねで、自身の滴る血を使って床に描いた。上手く行くかはわからないが、藁にもすがる思いでただ必死だった。
魔法陣を完成させ、髪を切り、歯で自分の爪を剥ぎ取り、記されている呪文を読み上げた。途端に、魔法陣が強く光り、凄まじい轟音が響き渡った。
『何百年振りだ……? 我が名はスコルプレー。人間、願いを叶えよう』
目の前に現れたのは、長身で二足歩行の、黒牛のような姿の魔人だった。その体躯は威圧感を放ち、特徴的な両耳には大きなフープピアスが輝いている。空気が変わり、彼の出現によって世界がゆがんだかのように感じられた。
エレノアはがちがちと歯を震わせた。恐ろしいものを召喚してしまったというのは、エレノア自身もわかっていた。
だが、意を決して彼女は口を開いた。
「……ス、スコルプレー様。私はエレノアと申します。……私は、今の夫に嫁ぎ、女の子を二人産みました。しかし、男の子が欲しかった夫は、他の女を妊娠させ、私を追い出しました。その女はどうやら男の子を授かっているようです……。こんな仕打ち、許せません。私は命懸けで子供を産んだのに……!」
喋りながら、脳裏には、学生時代の婚約破棄の失敗や、フローレス家に子供を奪われたことも過ぎった。
これまでの人生を思い返す。いつもいつも、エレノアは裏切られ、奪われてばかりだった。
涙が止めどなく頬を伝った。
心の奥深くに溜まっていた憎しみが、湧き上がってくる。
「この国の王妃カミーラも、王子を二人も産み、今もまた男子を身籠っています。そのことを、男の子を産めない私に、まるで自慢するかのように教えてきました」
今のエレノアは、自分が被害者であるという思いしかなかった。
「わかった、可哀想なエレノア。お前の望みは復讐だな? お前を傷つけた奴らへの……」
そうなのだろうか。エレノアは、自分が何を望んでいるのかわからなくなっていた。頭の中にはもやがかかり、思考が混乱している。
しかし、混濁した意識の中で彼女は、「そうです」と答えた。
♢
目を覚ますと、そこはアシュフォード伯爵家のベッドだった。
「エレノア、おはよう」
横に寝ていた伯爵が、柔らかな声で挨拶をした。
「……旦那様?」
エレノアは自分の体を見下ろした。あれだけの怪我を負ったはずなのに、傷跡ひとつ見当たらない。信じられない光景に、エレノアは戸惑った。
「……あの女、リーシャは……どうしたのですか?」
「……すまなかった、エレノア!!」
伯爵はベッドから降りると、勢いよく土下座をした。
「エレノア、もうあの女とは手を切った。だから許してくれ……」
「…………」
状況を理解できないエレノアは言葉を失った。
混乱を抱えたまま、彼女はベッドから出る。
従者の中に見慣れない顔があった。長身で、美男でもなければ醜男でもない、特徴のない顔立ちの男だった。だが、その耳に大きなフープピアスが光っているのを見て、エレノアは直感した。あの魔人だ、と。
伯爵がその従者へ「スコル」と声をかけるのを聞いて、その直感は確信に変わった。
スコルは昔からこの伯爵家に仕えていたことになっており、伯爵や他の使用人たちも皆、当たり前のように彼に話しかけていた……。




