1話 紫魔女
パシン……っと、頬を叩かれる音が響き渡る。
「……この部屋には入るなと言っただろう」
「……すみません、お父様」
父ジェイクの鋭い眼光に睨まれ、レティシアは頬を押さえたままうつむいた。
「きなさい」
強く手を引かれ、屋敷の奥の自室へと押し込まれる。
ジェイクは部屋に置かれていた縄を手に取ると、レティシアを椅子に縛りつけた。
「いいか。あの部屋は亡き妻のものだ。お前のような不吉な存在が入っていい場所ではない」
「……はい、申し訳ありませんでした」
「しばらくここで反省していろ」
ジェイクの足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。レティシアが息を吐いた瞬間、頬にじんと痛みが走った。
「……いたた」
「……レ、レティシアお嬢様……大丈夫ですか……?」
そっと家令が部屋に入ってくる。
「すみません。私が、お嬢様に御使いを頼んだせいで」
「ううん。私がドジ踏んだだけ」
家令に頼まれ、亡き母の部屋から文書を持ってこようとしたところを、ジェイクに見つかってしまったのだ。
「……今、外しますね」
家令が縄に手をかける前に、はらりと縄が外れた。
「ふふ。見て。この前、庭師のマルが縄抜けの方法を教えてくれたの」
そう得意げに笑う。
「……お嬢様」
家令が切な気な表情でレティシアを見つめる。
「ひどいです、侯爵様は。まだ幼いお嬢様に対して、こんな扱いを……」
レティシアは立ち上がり、壁に掛けられた鏡を見た。
「しょうがないわ。……だって、不吉だもの」
そこには、紫の髪と瞳を持つ少女の姿が映っていた。
――ユハディーア王国の南地に領地を持つフローレス侯爵家。
指折りの名家であり、王家からの信頼も厚い。当主ジェイクは、勤勉で清廉潔白な貴族として評判も高かった。
だが、その次女であるレティシアは、ジェイクに疎まれ育った。
理由は単純だ。彼女がこの国で「不吉」とされる紫の髪と瞳を持って生まれたから。
食事をジェイクと共にすることも許されず、使用人たちに交ざり、料理や掃除、小間使いのような雑務をこなしていた。その生活は、一般的な貴族令嬢のものとはほど遠い。
「マーヤ。これ、こっちに運んでおけばいい?」
「はい、ありがとうございます。お嬢様」
「お嬢様、こちら孤児院への寄付品リストですが、どうでしょうか?」
「これから暑くなるし、薄手の着替えを増やしたほうがいいわ。あと、虫除けのお香も入れてあげて。薬草入りの軟膏も」
「お嬢様、この料理、夕食の新メニューに加えようと思っているのですが、試食をお願いします」
「美味しい! ……でもちょっとだけ味が濃いかも。お父様、最近お疲れみたいだから」
当初こそその見た目と立場から距離を置かれていたが、レティシアは何事にも懸命に取り組み、すぐに仕事を覚えた。今では家令や料理長からも頼りにされる存在となっていた。
♢
「侯爵様……。レティシアお嬢様が、体調不良で床に伏せっております。医者をお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「またか……。放っておけ」
ジェイクは面倒そうに言った。
レティシアはしばしば体調を崩して寝込んでいた。
以前、一度医者が来てレティシアを診たことがある。
「お嬢様は……魔力持ちですね。幼い身では膨大な魔力をうまく処理できないのです」
「なんと……!」
ジェイクが目を見開く。
「すぐに診断書を作成しますので、国に報告してください。……しかも、この子の魔力は、魔力持ちの中でもかなり高い」
医者は興奮を抑えきれない様子だった。
この国では魔力を持って生まれる者は極めて稀であり、重宝される存在とされている。
「いや、報告はしない」
ジェイクが硬い声で告げた。
「な、なぜですか……? お嬢様は確実に宮廷魔術師になれる素養が……」
「分からないのか」
そう言って、ジェイクはちらりとレティシアに視線をやる。
「……あ……で、ですが……」
その意味を悟り、医者は狼狽える。
「王家がこのような不吉な存在を認めるわけがないだろう」
「し、失礼しました」
「この家の次女が魔力持ち……及び紫の髪と瞳を持つということは、一切口外するな」
ジェイクは医者に、口止め料として金を渡した。それ以降、レティシアが体調を崩しても、医者が呼ばれることはなかった。
♢
「レティシア、久しぶりね」
「クレアお姉様!」
レティシアにはクレアという五歳上の姉がいる。
彼女は妹とは違い、ハニーブラウンの髪と瞳を持つ、美しい令嬢だった。現在は王都の貴族学園の寮に入っており、長期休みのときにしか侯爵家には戻らない。
「お姉様。今回はどのくらいいられるのですか?」
「二週間くらいよ」
「二週間……。もう少し伸ばせませんか? 私、もっとお姉様と一緒にいたいです」
「あらあら……。レティシアはもうすぐ十歳なのにまだまだ甘えたさんね」
クレアがふわりと笑った。
彼女はいつもレティシアを気にかけ、ジェイクの所業にも度々抗議をしてくれていた。 以前、レティシアを医者に診せるよう懇願したのも彼女だ。
レティシアは、この姉のことが大好きだった。
それに、彼女が帰省している間だけは、ジェイクの態度が幾分穏やかになる。だからレティシアは、その時間が少しでも長く続いてほしいと願わずにはいられなかった。
♢
レティシアが十歳になって間もないころのことだ。
「今度、王都で祭りがあるから、一緒に行こう」
「え……?」
レティシアは目を見開いた。ジェイクが、レティシアを誘ってきたのだ。
うっすらと微笑む父の姿に、戸惑いと喜びが胸に広がる。気難しく、いつも眉間にしわを寄せているジェイクが、こうして笑顔を見せるのは姉と話しているときくらいだった。
(もしかして……昨日の夕食にお出しした料理が上手くいったからかしら? それとも、先日お父様のご友人への見舞いの品……家令から相談されて私が選んだものだけど、そのことを知って、センスの良さに感心した……とか?)
レティシアはポジティブな性格だった。
王都の祭り当日。
ジェイクから茶髪のウィッグ付きの大きな帽子を被せられ、瞳の色がわからないようにカラーレンズの眼鏡を付けさせられた。
それでも、姉のお下がりの可愛いワンピースを着させてもらったレティシアは、意気揚々と侯爵家の馬車に乗り込んだ。
祭りはとても煌びやかで、ろくに外出したことがなかったレティシアは、はしゃぎ回りたい気持ちでいっぱいだった。
だが、貴族令嬢としてはしたないとジェイクに思われるのが怖く、なるべく落ち着いて行動するよう努めた。
大通りでは王族のパレードが行われていた。女王と王配、王妹、そして王女と王子が民衆に手を振っている。その華やかさに、レティシアは目を奪われた。
女王とその子供たちである王女と王子は、いずれも黒い髪に黒い瞳。遠くから見ても、彼らの端正な容姿が際立っていた。
「――お可哀そうに」
ふと、隣にいるジェイクがつぶやいた。レティシアは、彼がアンドレアス王子のことを言っているのだとすぐに察した。
「そうですね。王子殿下は確か、私と同い年のはず。殿下の運命を思うと……心が締めつけられます」
レティシアがそう答えると、ジェイクは意外そうに眉を上げた。
彼はこれまで、レティシアにろくな教育を施していなかった。
それでも、レティシアは使用人たちと仲が良く、時折帰省するクレアとも言葉を交わしていた。そのおかげで、この国の大まかな歴史くらいは理解していたのだ。
――百年近く前、強大な力を持つ悪い魔女によってユハディーア王家は呪われた。その呪いにより、王家の男子は皆短命であり、例外はない。現に、今の女王であるシャーロットの兄弟の全員が、成人前に亡くなっている。
アンドレアスは、あと十年も生きられないであろう。だが、彼は自らの運命を知っているだろうに、凛とした表情を崩さずにいた。
その姿に、レティシアの心は深く打たれた。民衆の中には、涙を浮かべる者たちも少なくなかった。
♢
日が暮れ、祭りの喧騒を楽しんだレティシアは、出店でジェイクに買ってもらったイカ焼きをかじった。彼から「少しここにいなさい」と言われ、人通りのない路地裏で、一人待つことになった。
しばらくすると、ニコニコと笑みを浮かべた老人が近づいてきた。
「お嬢ちゃん、おじさんについておいで」
そう声をかけられたが、レティシアはそれを無視した。
次の瞬間、老人は強引に彼女を抱え上げ、近くに停まっていた見知らぬ馬車に乗せてしまった。
(人さらいだ……!)
その瞬間、レティシアは逃げ出そうとしたが、馬車は急発進し猛スピードで走り出してしまった。
レティシアは隣に座る老人に手首を縄で拘束された。
逃げられないと悟ると、窓からの景色をじっと見つめてこの馬車がどこに向かうのかを確認し続けた。
数時間後、馬車はようやく止まった。
彼女が降ろされた場所は、王都から遥か遠く離れた辺鄙な村だった。その林の中に、ひっそりと小屋が建っていた。
室内には、彼女と同様に手首を拘束された子供たちが三人いて、皆不安そうな表情を浮かべていた。
人さらいの大人たちが「明日、アジトに連れていくぞ」と話す声が聞こえた。
その夜、レティシアはこっそり他の子供たちにどこから来たのか尋ねた。
三人とも、この村からそう遠くない、同じ村の出身らしい。たまたま村から外れた場所で遊んでいたところ、男に攫われてしまったという。
小屋の中には、レティシアを連れ去った老人がいて、子供たちの様子をじっと見守っていた。玄関の外には、屈強な体格の仲間が一人、見張り役を務めていた。
レティシアは、手首の縄を老人に見つからないようにこっそりと外したあと、他の子供たちの拘束を解いた。
そして、老人に声をかける。
「おじさん、この子、苦しそうだけど、大丈夫かしら?」
子供の中の一人がうずくまり、呻いていた。
老人は、せっかく売る商品に瑕疵があってはまずいのか、容態をうかがうようにその子の前に腰を落とした。
「今よ!」
レティシアの合図で、他の子供たちが一斉に老人へと襲い掛かった。
「いて! いてて、やめろ、こら……」
二人が床に老人を押さえつけ、レティシアともう一人は、自分たちを縛っていた縄で老人の体をぐるぐると縛り、動けないように拘束した。
「何してやがる!」
外で見張りをしていた男が、小屋の中に飛び込んできた。
その男に首根っこをむんずと掴まれたレティシアの体が、宙に浮いた。
彼女は、隠し持っていたイカ焼きの串を、男の手の甲に勢いよく突き刺した。
「痛えっ!」
男は痛みに声をあげ、レティシアを床に投げつけた。尻餅をついたレティシアは、「早く逃げて!」と他の子供たちに叫んだ。
子供たちはバタバタと小屋から飛び出していく。
「あっ、待ちやがれ……!」
男は追いかけようとしたが、突然動きを止めた。
「……まあ、いいや。お前だけで儲けもんだからな」
レティシアを振り返ってニヤリと笑った。
「……私が、高値で売れると?」
「そうだ。お前みたいな上玉の娘はそうそういないからな」
真っ白な肌に、零れそうに大きな瞳、つんと尖った鼻、小さな唇。
レティシアは確かに、顔の造作だけなら、完璧な美少女と言っても過言ではないほど、整った顔立ちをしていた。
「……どうかしら。こんな不吉な見た目をしているのに、わざわざ手元に置きたい奇特な人がいる?」
レティシアは自嘲しながら、帽子と眼鏡を取った。紫の髪と瞳が露わになる。
「おお、おお。見事な『紫魔女』だな。大丈夫、この世にはモノ好きの変態金持ちがたくさんいるさ。……そうそう、貴族というのは世間体を大層気にするらしいな。お前の父親は、お前のような娘は薄気味悪いからいらないって言っていたぜ。二束三文で俺たちに売り払ったんだ」
男は下卑た笑みを浮かべながら言った。
レティシアは、まるで後頭部をガツンと殴られたかのような衝撃を受けた。
「う、嘘よ……」
「嘘じゃねえよ。煮るなり焼くなり好きにしろ、とのことだ」
その瞬間、男の手の甲に刺さったままだったイカ焼きの串が、ぼうっと燃え上がった。
「えっ、な、なんだ…!?」
炎は勢いよく男の手や腕に広がっていく。
それはレティシアの魔法が、初めて発動した瞬間だった。
「うわあああ!」
絶叫する男から逃げ、レティシアは小屋を飛び出した。
(嘘……嘘よね、お父様……)
父からいくら冷たくされても、まさか裏の人間に頼んでまで自分のことを処分しようとしていたとは思いたくなかった。
数日かけて、レティシアはフローレス侯爵家へと辿り着いた。
そのころには、可愛いワンピースはすっかりボロボロになり、顔も体も薄汚れていた。
門番二人に声をかけると彼らは訝し気な表情を浮かべた。
しかし、レティシアだと気づくと、驚いたように顔を見合わせた。
「少々お待ちください」
そう言って、一人が慌てて屋敷の中へ駈け込んでいった。
しばらくして戻ってきた門番が、申し訳なさそうに告げた。
「すみません。入れられないと侯爵様が仰っています……」
レティシアは言葉を失い、呆然としたあと、トボトボと侯爵家を後にした。
――レティシアは知っている。
今から百年近く前、この国には有名な魔女、マチルダがいた。
彼女は紫の髪と瞳を持ち主で、当時の辺境伯、ザリバン家の当主だった。彼女は王家に強い恨みを抱き、呪いをかけたと伝わる。
王家を呪った事件によってマチルダの評価は地に落ち、辺境伯家も没落してしまった。
彼女と同じ容姿の特徴を持つ者は、「マチルダの生まれ変わり」や「紫魔女」と揶揄され、徹底的に畏れられるようになった。その結果、紫の髪と瞳は不吉の代名詞となってしまったのだ。
こんな話がある。
マチルダが王家に呪いをかける、少し前のことだ。
レティシアの生家のフローレス家では、当時の当主と夫人の間になかなか子供ができなかった。
そんなとき、当主はエレノアという平民の女性と、関係を持った。
彼女が当主の子を妊娠すると、当主はその子供を奪い、世間には自分と夫人との子として育てることにした。
もちろんエレノアは納得できず散々騒いだため、フローレス家の所業は世間に知れ渡っていたが、皆知らないふりをした。
結局、立場の弱い彼女は泣き寝入りするしかできなかった。
ところで――そんなエレノアの腹違いの姉が、あの魔女マチルダだったのだ。
つまり、マチルダはレティシアにとって高祖伯母にあたる。
遠いが血縁関係にあるので、レティシアに髪と瞳の色が受け継がれてもそう不思議ではない。
しかし、由緒正しいフローレス侯爵家にとって、マチルダとの繋がりは忌むべきことであり、マチルダの遺伝子が色濃く出ているレティシアの存在を、父のジェイクは許せないのだ。
♢
フローレス家を去ったレティシアは、泣きながら街を歩いた。
貧民街に辿り着き、しばらくの間、孤児の子供たちと共に暮らしていた。
しかし、レティシアの髪と瞳の色を嫌悪する大人が、彼女に冷たい態度や暴力を振るうようになった。
最終的には、貧民街で起きた窃盗事件の犯人に仕立て上げられ、殺されそうになったところを命からがら逃げ出した。
こうして、レティシアは再び次の住処を求めてさまようことになった。
街には人の目がある。
そこで、レティシアは人目につかない場所で自給自足の生活をすることを思いついた。
近くには、カトレア森と呼ばれる大きな森がある。
レティシアはその森の中に足を踏み入れた。木々が生い茂り、日の光がほとんど当たらず、陰鬱な雰囲気が漂っていた。
この森の奥深くでは昔、非業の死を遂げた女たちの怨霊が出る――そういう噂を街で聞いたことを思い出した。
迷ったら二度と出られなくなってしまうのではないかと、レティシアは身震いした。
森に入ったことを少し後悔しながらも、しばらく歩くとふと川のせせらぎが聞こえた。
音のする方向へ足を進めると、川のそばに一軒の家を見つけた。さっきまで暗かった森の中に、そこだけ光が差し込んでいるかのようにキラキラと輝いている。
空き家だろうか。それとも、こんなところに人が……?
へとへとになりながら、その家の玄関まで辿り着き、ノックをした。
しかし何の応答もない。
扉には鍵がかかっており、開かなかった。
数日間何も食べておらず、体力も限界に達していたレティシアは、そのままそこで気を失った。
そこは、この国の伝説的な魔導士――オースティンが最近住み始めた家だった。
帰宅したオースティンによって拾われたレティシアは、彼の弟子となり、魔法を学ぶことになる。
――初めて覚えた魔法は、髪と瞳の色を変える色彩魔法だった。




