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恋獄の鎖  作者: 瀬月ゆな
3/3

 ティエラディアナが家を飛び出してから、シェラフィリアはぼんやりと日々を過ごすようになった。

 抜け殻のような身を案じ、エバンスやアンナがよく話しかけてくれるが、何と言っているのかは良く分からず、まともな返事も出来ないでいた。


 そして三日目だろうか。ミハエルが家に戻って来た。

 顔を見るのは何日振りのことか。陽の差し込む明るいリビングで見る顔は、相変わらず優しげで……底冷えのする表情だった。


「――これを」


 ミハエルは帰宅の挨拶も何もないまま一枚の薄い紙を差し出す。

 ソファーに座ったままのシェラフィリアは、それがまるで汚らしいものであるかのように親指と人差し指だけでつまんで受け取る。そして一瞥すら与えずに投げ捨てた。


「嫌よ」


 確認するまでもなく分かっている。どうせ署名済みの離縁願いだろう。

 ミハエルは顔色を変えるでもなく床に落ちた紙を拾い上げ、ガラステーブルの上に置いた。


「このまま結婚生活を続けていたとして、僕も君も幸せにはなれない。それはもう何年も前から君だって分かっているはずだ」

「何年も前から、ですって?」


 シェラフィリアは笑みを浮かべた。


「おかしなことを言うものね。それくらいのことは結婚した時からずっと分かっているし、知っていたわ」

「分かっていながら、何故」


 ――それでもあなたを愛しているからよ。


 ミハエルの目を挑発的にのぞきこみながら、シェラフィリアは喉まで出かかったその言葉を口にすることはできなかった。

 間違いなく、直接言える機会はこれが最初で最後だっただろう。

 けれど今さら告げたところで何になると言うのか。人に愛を伝えたことのない、気位の高いシェラフィリアが伝えることを許さなかった。


「分かっていたところで、わたくしにも矜持と意地がある。それだけのことよ」


 我ながら可愛げのない言葉だ。

 彼の愛した女性ならきっと……こんな時は弱々しく泣き崩れ、可愛らしく縋るに違いない。

 だがシェラフィリアが自らの矜持と意地を捨ててまで告げる言葉に、何の意味と価値があるだろう。シェラフィリアでなくても言える言葉であれば、シェラフィリアが言う必要はどこにもない。


 たとえ目の前の相手が、どれほどその言葉を聞きたいと渇望していたとしても。


「――そうか。最後くらいは笑って別れを告げたかったけれど……残念だな」


 それ以上を話し合うこともなかった。まがりなりにも二十年以上の月日を夫婦として過ごしたのに、終わる時はあっけないものだ。

 あるいは普通の夫婦なら、まだ話すことは色々とあるのかもしれない。

 だがシェラフィリアとミハエルは、決して普通の夫婦と呼べる関係ではなかった。作り物の、夫婦に似た何かの終わり方には相応しい幕切れとも言えた。


 ミハエルの出て行った扉を眺め、それからブレスレットにそっと指先を這わせる。


 ミハエルが欲しかった言葉をシェラフィリアが言えなかったように、シェラフィリアが言って欲しかった言葉も、最後まで言ってはもらえなかった。

 シェラフィリアが身につけているブレスレットは初めて出会った時に自分が直したものだということを、ミハエルは覚えてはいないのだろう。それどころか気がついているのかすら疑わしい。

 初めて出会った日のことだとは言え、そんな些細な出来事を覚えているのはあの時すでに心を奪われていた自分だけなのだと今さら思い知った。


 ミハエルから愛を囁かれる日など来ないことは最初から知っていた。

 もう終わりだと別れを告げられても一粒の涙すらこぼれないのは、手に入れてはいないからだ。

 手に入れていないものを、失うことは決してない。


 それでもせめてブレスレットには気がついていて欲しかった。

 らしからぬ少女めいた淡い幻想も、しかしたった今、ミハエルの手で粉々に砕かれた。

 あの日の夜会でミハエルが作り上げた鎖はシェラフィリアの右手首に絡みつき、彼女だけを今もなお縛り続ける。




 ティエラディアナが母親である自分ではなく初めての恋人の手を取り、ミハエルは妻である自分でも、あんなに愛していたはずの初めての恋人でもない女の手を取ったことで、シェラフィリアは一人きりになった。


 かつては”可憐な白百合”と呼ばれて大勢の人間に囲まれ、持て囃されていたことが嘘のようだ。

 夜会に顔を出さなくなって久しいが、列席さえすればいつだって当時と同じかそれ以上の称賛は得られるだろう。

 けれど今はもう、見てくれだけは華やかな時間を求めて夜会に一人繰り出す気には、全くなれない。


 その代わりと言うわけでもないが、眠る前にアルコールを口にするようになった。

 最初の夜は白ワインを開け、次の夜は赤ワインを開ける。元々、医者からアルコールの摂取を禁止されている身だ。だからこれまでは夜会に参加しても最初の一口に付き合う程度だった。

 別にアルコール自体に弱いわけではないのだと思う。だが飲み慣れないせいか、グラスの三分の一ほどを開ける頃には気を失うように眠ってしまい、そんな状態はわずかに眠りが深くなった気がした。


 日増しにアルコールの摂取量の増えるシェラフィリアを見かね、せめて量はもう少し控えるようエバンスとアンナが嗜める回数も増える。

 実の娘のように心配してくれているのは分かっていた。分かってはいるが、シェラフィリアはアルコールの摂取をやめることは出来ない。


「主人であるわたくしの言うことが聞けないと言うのなら、あなたたちは使用人失格よ。今すぐ辞めて新しい主人を探せばいいわ」

「奥様……!」


 瞬時にして顔色を変える二人に、シェラフィリアは冷酷に言い放った。


「それとも、こう言えばいいのかしら? あなたたちはたった今を持ってクビよ。不法侵入者として警察に突き出されたくなかったら、さっさとこの家を出て行くことね」


 こんな脅しの言葉など彼らにとって何の効果もないだろう。

 そこで一度口を閉ざすと、ただ青ざめながら女主人の言葉を聞くしかない二人に聖母のように微笑んでみせる。


「――ああ、どうしても出て行きたくないのであれば、退職金代わりに差し上げるわ。わたくしが出て行くから好きに使って下さって結構よ」


 そうまで言われてはエバンスとアンナは出て行くしかなかった。主を屋敷から追い出すことなど従順な執事夫妻に出来るわけがない。

 シェラフィリアの説得も無理な話なのだ。それが出来るくらいならミハエルとの結婚も止めることが出来た。


「奥様……私ども夫婦はいつまでも、奥様とティエラディアナお嬢様の味方です。もし何かありましたらお申しつけ下さればいつでも馳せ参じます故」


 そして誰よりも長い時間傍にいてくれた執事夫妻すら、シェラフィリアの前からいなくなった。



 静まり返った屋敷は、まるで巨大な鳥かごのようだ。

 シェラフィリアという哀れな鳥を閉じ込める為の、無機質で空っぽな何もない箱がただそこにある。

 けれどもシェラフィリアはとうに翼を失って飛べやしなかった。いつ翼を失ったのか、あるいは最初から翼など持ってはいなかったのか。それさえも自分では分からない。そうでなくとも手首に細く重い鎖を繋げられ、どこにも行けやしないのだ。


 このまま自分は、一人孤独に果ててしまえばいい。

 それは決して、リザレットとミハエルを無理やり引き裂いたことへの罪悪感に駆られて思ったわけではなかった。そんな殊勝な考えは持ち合わせていないし、何よりも自らの矜持にかけて持つつもりもない。


 何を手に入れたところで、欲しいものがなければ何もないのと変わらないのだ。

 今のシェラフィリアにはもう、欲しくないものをそうと気づかずに貪欲に欲しがり、抱え込むだけの力はない。

 ならば、手の中には何一つなくて良かった。


 しかし愛情らしいものをまるで注いでやれなかった娘と、長年仕えてくれていたのに理不尽に切り捨てた老執事夫妻は戻って来た。


 シェラフィリアにとって、愛情は与えるものではなく与えられるものだ。

 だから娘であるティエラディアナと、使用人であるエバンスとアンナが戻って来るのは当然とも言えた。

 だけど、誰かが傍にいてくれる。

 その事実だけで泣きたくなるのは何故だろう。死を間近にすると人は、人の考えは変わるのか。

 理由は分からなくても、シェラフィリアの心は穏やかだった。




 ようやく――いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない――心の安寧を得たシェラフィリアは、自分を取り巻く状況の整理をはじめた。


 まず手をつけたのはやはり離縁願いだった。

 それはミハエルが一方的に署名して残して行っただけで、法的な権限は今のところまだない。

 このまま何もせず手元に置いておけば、今まで以上に形だけは夫婦として体面を保っていられる。もしミハエルがあの舞台女優と再婚を願ったとしても、シェラフィリアの手元に離縁願いがある限りは叶わない。


 薄氷に似た家庭を象徴するような一枚の紙切れが、今この場において何よりも強固な鎖としての役割を担っている。

 ミハエルはそこにも気がついていたのだろうか。

 気がついていたなら、シェラフィリアにその場で署名させて自分で離縁願いを提出するだろう。そうしなかったと言うことは気がついてはいなかったのか。

 最早真実を知る術もない夫の行動を不可解に思いつつ、シェラフィリアは自分が記入すべき欄に名を記した。


 離縁願いの提出も含め、後のことは全て、兄に任せることになっている。


 兄も分かっているのだろう。

 シェラフィリアはもう長くはない。


 一人になった時、急性の中毒になるほどアルコールに溺れなかったら、多少の猶予はあっただろう。

 けれど、それで数年生き永らえたところで何になるのか。

 決して長くはない、だがシェラフィリアにとって短くはない時間を凛として生きて行ける自信はどこにもなかった。


「それとお兄様、いちばん最後にどうしても聞いて欲しいことがありますの」

「……何なりと言ってみなさい」


 いちばん最後。

 その言葉に兄の顔が悲しげに歪んだ。シェラフィリアはあえて見なかった振りをして”最後の願い”を兄に伝える。


「分かった、必ずや責任を持って我が最愛の妹君の最後の願いを叶えよう」

「ふふ。お願い致しますわ」


 少し疲れてしまったとベッドに横たわれば、兄はまた見舞いに来ると言って部屋を出て行く。

 シェラフィリアは目を閉じた。

 つい今しがた兄に頼んだばかりの願いに思いを巡らせる。


 ――ねえお兄様。もし……もしわたくしの死から一年経ってもリザレットの息子がティーナを忘れられずに居場所を知りたいと訪ねて来たら、その時は二人を引き合わせて差し上げて欲しいの。


 ジークハルトがティエラディアナの居場所を聞きに兄の元を何度か訪れていると聞いた。

 彼はティエラディアナがミハエルとシェラフィリアの間に生まれた娘だと知りながら、あの子を愛してくれたのだ。

 そして今も、これからも変わらずにずっと、ティエラディアナだけを愛してくれるだろう。


 ティエラディアナの想いも未だジークハルトにあり、やはり変わることはないと分かっている。

 他ならぬ自分の娘なのだ。初めての恋に執着しないわけがない。ましてや、ほんのひと時でも確かな実を結んでいたのだからなおさらだ。


 だがシェラフィリアが生きている間は祝福してやれそうにもない。

 いちばん欲しいものを手に入れられる娘に強い嫉妬の念を覚えてしまう。

 最後まで一人の女であることを選び、そうありたいと強く望むシェラフィリアは、母親にはなれない。

 それでも母として最初で最後の贈り物を、愛情を示してやることは一度たりとて出来なくても愛する娘に遺してやりたいと思ったのだ。

 兄には、それをティエラディアナに伝えないよう頼んでもある。もちろんジークハルトにも同様だ。


 一年後には、ティエラディアナは幸せに満ちた笑顔を浮かべているだろう。

 母親として見届けられないのは残念だ。


 でもやはり――女として、いちばん欲しいものを手に入れて幸せそうに微笑む姿は、娘のものでも見たくない。



 死の間際に見ていたい夢を自分の記憶から拾い集めて、大切に抱えた。

 彼女が選んだ幸せな記憶は、名門貴族の娘として何不自由なく育ったシェラフィリアを知る人間には、わずかに三つだけなのかと思われるだろう。


 ブレスレットを直してもらった夜会の日。

 ミハエルと二人、神をも欺く共犯者になった結婚式の日。

 そして――ティエラディアナが生まれた日。


 最初で最後の相手と初めて出会った日。

 最初で最後の相手と大きな罪を共有した日。

 最初で最後の相手との間に一人娘が生まれた日。


 これ以上の幸せがどこにあると言うのだろう。

 三つしかないのではない。

 三つもあるのだ。


 そしてただ命の炎が燃え尽きるのを待つだけの日々の中、ティエラディアナから一通の手紙を手渡された。

 シェラフィリアに見せてもいいものかどうか、エバンスやアンナと一週間も話し合ったと言う。何を大げさなと思いながら差出人の確認をすれば、記名された離縁願いだけを残してシェラフィリアの元を去ったミハエルからだった。


 その名を見ただけで、シェラフィリアの心は未ださざめく。

 本当は近くにいてシェラフィリアを見ているのではないかと思うようなタイミングだ。死を直前にして凪いだ状態の心を容赦なくかき乱して荒らす。


 熱烈な恋文だった。

 あのミハエルが、あの結婚生活の中で、シェラフィリアとの日々の中でそんなことを思っていたなんて到底信じられるものでもない。

 今さらすぎる熱情の数々を見せられたところで、誰が信じるというのか。シェラフィリアも理性ではそう突っぱねている。


 なのに。


 強い歓喜で、シェラフィリアの全ては満たされていた。


 優しげで誠実そうな仮面の裏に、誰よりも独善的でエキセントリックな本性を隠した男。この世でたった一人、シェラフィリアの思い通りにはならなかった男。


 だけどシェラフィリアは、そんな男を――そんな男だけを愛している。


 愚かだと思う。

 男なんてそれこそいくらでもいるのに。

 最期まで手に入らない男だけが欲しいだなんて。


 シェラフィリアは手紙を胸に押し当てた。


「……疲れたから、少し眠るわ」

「じゃあ手紙はしまっておくから。読み返したくなったら、いつでも言って」

「ええ、ありがとう」


 ティエラディアナに封筒を手渡し、横たわったシェラフィリアの表情は、初恋を覚えたばかりの少女のようにあどけない笑顔だった。



 それからというもの、シェラフィリアは比較的意識のしっかりしている時はいつもミハエルの手紙を読み続けた。

 短期間に何度も何度も繰り返し目を通したが為に、すでにもうその文面は完全に覚えていた。頭の中では、ミハエルの声がそれを読み上げてさえもいる。

 けれどミハエルの書いた文字が見たくて、飽きることなく眺め続けた。


 やがて起きていられる時間が日に日に減り、目も霞んで来ると、いよいよその時が近いと悟る。そしてより一層、ミハエルの全てを自分の身体の至る場所に焼き付けるのだ。



 目を閉じれば初めて出会った日のことが蘇る。

 出会わなければ良かったと後悔したことはただの一度もない。

 その代わり、出会えて良かったと思ったこともなかった。


 生まれ変わっても、再び巡り会えたとしても、絶対に愛してなんかやらない。

 手に入らない愛だけを求めて苦しめばいい。

 シェラフィリアの手首と繋がる細い鎖でがんじがらめになればいい。

 白百合に誘われ、白百合の毒でじわじわと弱って行く美しい蝶の姿を、いちばん近くで笑いながら見届けるのだ。


 来世なんてものが本当にあるのかすら、分からないけれど。



 ――今度はあなただけが、恋獄に落ちてしまえばいい。


 呪詛でもあり祈りでもある思いを胸に、そうして美しい白百合は散った。






-END-








本編である「ねえティーナ、知っていて?」が完結した時、いつか書きたいと思っていたシェラフィリア視点の話ですが、予想していたより早くに書き上げることが出来ました。

それでも本編完結から二か月空いたので、本編を最後までご覧になって下さった方のうちどれくらいがこちらにもお付き合い下さるのか全く分からないんですけど、少しでも本編の補完になっていましたら嬉しいです。

あと、個人的には後出しで「不器用なだけで実は良い人でした」という状況があまり好きではなくて、今回もそこに気をつけてはいたつもりですが、どうしても情が入ってしまったような気がします。

本編のシェラフィリアとキャラが崩れているように感じられる部分があったらすみません。


これでまたしばらくは「王子と半分こ」更新の通常活動に戻ります。

お付き合いありがとうございました!

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