第7話 三箱の行方
リーヴェ商会からの返答は思ったより早く届いた。
菓子箱の数について商会側は最初から九箱で手配を受けたと主張している。王妃の手元に残る確認書では十二箱、商会の控えでは九箱。どちらの書類にも印はありどちらかが完全な偽物というわけではなかった。
リュシアンはマルセルが持ってきた報告を机の上に広げた。
「確認書が二つあるのか」
「はい。王宮側の控えは十二箱。商会側の控えは九箱です」
「誰が書き換えた」
「現時点では不明です。ただ商会側の担当者によると最初に王宮へ提出した下書きでは十二箱。その後納品担当へ渡る段階で九箱になっていたと」
「都合がいいな」
リュシアンは紙を指先で叩いた。下書きは十二箱、納品は九箱。
その不足を茶会でエレノアが報告し王妃が困り王子に意見が求められる。
こちらが申し出れば美談になる。申し出なければ王子の器量を測られる。どちらでもエレノアには損がない。
よくできている。よくできすぎている。
「グレイヴ嬢はいつ不足を知った」
「茶会当日の朝です。王妃陛下付きの侍女から物品一覧を渡されその場で控えの差異に気づいたようです」
「本当にその朝か」
「記録上は」
「記録上は、か」
リュシアンは笑った。エレノアは記録を使う。それは分かった。
記録に残ればそれは正しいものとして扱われる。だが記録は最初に作った者が強い。誰がいつ何を書いたか。どこに印を押したか。その順番を握れば後から見る者はそれを事実として受け取る。
前世で残された記録もそうだった。
黒瀬美緒が誰に何を言ったのか。どこで会ったのか。金はどう動いたのか。証言を一つずつ集めて紙へ残していた。美緒はそれが嫌だった。言葉はその場で動かせる。泣き方も黙る間も相手に合わせて変えられる。だが紙は残る。
だから奪おうとした、歩道橋の上で。リュシアンは記憶を振り払うように息を吐いた。
「殿下」
マルセルが声をかける。
「この件は王妃陛下の管理下で確認が進んでおります。殿下が独自に動かれる必要は」
「必要がある」
「なぜでしょうか」
「母上は慈善市の運営上の混乱として処理するだろう。私は誰がその混乱を利用したかを知りたい」
「グレイヴ嬢が利用したと?」
「違うと言い切れるか」
マルセルは答えなかった。答えられない。リュシアンはそれ以上の返事を待たずに紙へ視線を戻した。
「商会に直接聞ける者を用意しろ」
「王宮の正式な確認とは別に、ですか」
「ああ」
「それは王妃陛下のご意向に反します」
「私の名前は出すな」
「殿下」
「王宮の者ではなく外の者を使う」
マルセルの表情が硬くなった。
「私的な使いをお使いになるおつもりですか」
「問題があるか」
「あります。侯爵家と商会の件に王子殿下の私的な使いが関われば後で説明がつきません」
「説明が必要にならないようにやれ」
「殿下」
マルセルの声に初めて強い制止が混じった。リュシアンは椅子から立ち上がらず彼を見た。
「お前は最近、私に命じるようになったな」
「命じているつもりはございません」
「では何だ」
「お止めしております」
「誰のために」
「殿下のためにです」
また守るという言葉だ。リュシアンにはそれが相手の行動を縛る言い訳に聞こえた。
このままではあなたが誰かを壊す、と。あなた自身も壊れる、と。あの男もそんな顔で美緒の前に立った。守るという言葉ほど相手の行動を縛るのに都合のいいものはない。
リュシアンは机の紙を一枚取り上げた。
「私は王子だ。王宮に不審な混乱があれば調べる責任がある」
「正式な手順でなさるべきです」
「正式な手順ではエレノア・グレイヴの名前は出ない」
「出す必要がまだありません」
「だから出せる材料を探す」
マルセルは黙った。リュシアンはその間を了承と受け取った。
「セドリックを呼べ」
マルセルの顔がさらに険しくなった。
「セドリックを、でございますか」
「ああ」
「彼は王宮の者ではありません」
「だから使う」
セドリックはリュシアンが個人的に使っている情報屋だった。
元は商会の帳簿係だったらしいがいくつかの店を渡り歩き、今は金で細かな調査を請け負っている。王宮の正式な人間ではない。だからこそ貴族家や商会の裏事情を探りやすい。上品はないが役には立つ。
「殿下。王妃陛下に知られれば」
「知られる前に終わらせろ」
「私が呼ばなければ別の者を使われるのですね」
「分かっているなら話が早い」
マルセルは深く息を吸った。反対したいのに止めきれない。そんな顔をしていた。
「……承知しました。ただし私が同席します」
「好きにしろ」
リュシアンは椅子へ座り直した。マルセルは礼をし部屋を出た。扉が閉まった後リュシアンは菓子箱の報告書を見下ろした。
九箱と十二箱。差は三箱。
たったそれだけのことだ。だがこういう小さな差こそ使える。
前世で美緒もよく使った。金額のずれ時間のずれ言葉の一部の違い。相手が説明しなければならない場所を作る。説明が長くなれば相手は疑われる。
今回は自分が説明させられる側になりかけた。それが気に入らない。
夕方、セドリックが王宮へ来た。
薄い茶色の髪を後ろで結んだ三十前後の男だった。服装は地味だが靴だけはよく手入れされている。商人にも役人にも見える。どこにでも紛れられる顔だった。
「リュシアン殿下。お呼びと伺いました」
「リーヴェ商会を調べろ」
挨拶もそこそこに言うとセドリックは軽く頭を下げた。
「菓子箱の件でございますね」
「もう知っているのか」
「王宮の慈善市に関わる商会の話は王都の商人たちも気にしておりますので」
「なら話は早い。九箱と十二箱、どこで数が変わったか、誰が変更を指示したか、グレイヴ侯爵家とリーヴェ商会の間に接触がなかったか調べろ」
セドリックはちらりとマルセルを見た。マルセルは表情を変えない。
「どこまで踏み込んでよろしいので?」
「相手が気づかない範囲で」
「商会の帳簿係に酒を飲ませる程度なら?」
「やれ」
「金は?」
「必要なだけ」
「承知しました」
セドリックは一礼した。その軽さがマルセルには不快だったらしい。
「セドリック」
マルセルが口を挟んだ。
「殿下の名は出さないように」
「もちろんでございます。私は口が軽い商人ではありませんので」
「それを自分で言う者を私はあまり信用しません」
「手厳しい」
セドリックは笑った。リュシアンはそのやり取りを止めた。
「セドリック。もう一つある」
「はい」
「それとグレイヴ家に出入りする主だった者の名も拾っておけ」
セドリックの目が細くなった。
「使用人まで、ですか」
「令嬢のそばにいる者が何を知っているかは見ておいた方がいい」
「名簿程度でよろしいので?」
「それでいい。例の執事の名も念のため控えておけ」
「承知しました」
「深入りはするな。今は菓子箱と商会の流れが先だ」
「心得ました」
セドリックはすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
マルセルの視線がリュシアンへ向く。リュシアンは見返さなかった。セドリックが去った後マルセルはすぐには口を開かなかった。扉の方を見たまま、手袋の指先を一度だけ直した。
「殿下」
「何だ」
「使用人の名までまで拾うのは菓子箱の件とは別です」
「同じだ」
「どこがでしょうか」
「エレノア・グレイヴにつながる」
「お嬢様付きの執事ですからつながるのは当然です」
「お前はグレイヴ嬢を見たか」
「夜会で一度だけ」
「どう思った」
「落ち着いていると思いました。袖の件があった直後とは思えないほどに」
「それだけか」
「はい」
リュシアンはそこでマルセルをじっと見た。本当に何も感じなかったのか。あの令嬢の目を見ても。
前世を知らないマルセルにはこちらの恐れなど分からない。当然だ。
「下がれ」
「はい」
マルセルは礼をして去った。リュシアンは一人になり窓の外を見た。
夕暮れの庭に長い影が伸びている。王宮の庭は整っている。花壇も通路も噴水も、すべて人の手で管理されている。乱れは少ない。乱れがあればすぐに誰かが直す。
リュシアンはこの場所が好きだった。前世にはなかった場所だ。
金に困ることもない。誰かの部屋を転々とすることもない。男の顔色を読んで今日の金額を測る必要もない。今世の自分は王子で誰もがリュシアンを見る。
なのに今また前世の影が戻ってきている。エレノア・グレイヴ。
その影が自分の足元を崩そうとしているのなら、先にこちらが崩すしかない。
リュシアンはそう決めた。
一方その頃、グレイヴ侯爵家の王都屋敷ではエレノアが届いた報告を読んでいた。
王宮の茶会でリュシアン王子がリーヴェ商会の件に関心を持った。腕飾りの細工師へ王子側と思われる者が接触した。
夜会にいた令嬢たちの会話も探られている。どれも予想の範囲だった。だが使用人の名まで拾われていると知りエレノアの手が止まった。
「殿下がグレイヴ家の周囲まで見始めたわ。あなたの名も入るはずよ」
向かいに立つハーヴェイが頷いた。
「そのようですね」
「驚かないの?」
「お嬢様のそばにいる以上いずれは」
「それは私のせいね」
「そうとも言えます」
即答だった。エレノアは苦笑した。
「本当に遠慮がない」
「隠しても意味がございませんので」
「怖くない?」
「怖いです」
また正直に言う。エレノアは報告書を机に置いた。
「ならしばらく屋敷の奥にいて。王宮へは連れていかない」
「お断りします」
「また?」
「はい」
「理由は?」
「殿下が周囲を調べるならお嬢様から私を離すことも目的の一つになるかもしれません」
「あなたを?」
「はい。私がお嬢様の弱みになると見たなら」
エレノアは黙った。ハーヴェイには見えている。自分がエレノアの弱みだということを。
そしてエレノアも否定できない。
「あなたは弱みじゃないわ」
「そう思いたいお気持ちは分かります」
「本当に言うわね」
「申し訳ございません」
「謝りながら刺さないで」
ハーヴェイは頭を下げた。エレノアは椅子の背に体を預けた。
部屋には二人しかいない。屋敷の私室だ。夜の灯りは落とされ、机の上の小さな燭台だけが揺れている。外には侍女もいない。二人だけになれる時間は限られている。
ハーヴェイはいつもの執事の距離より近くに立っていた。エレノアは手を伸ばし彼の袖を掴んだ。
「今夜はここにいて」
「はい」
「執事としてではなく」
ハーヴェイは一拍置いてから答えた。
「承知しました」
その夜、彼は上着を椅子に掛けエレノアはほどかれた髪を彼の肩に流した。その間だけ王宮の視線は遠ざかった。だが完全には消えない。
ハーヴェイの体温を近くに感じながらエレノアは天井を見ていた。
「王子はたぶん止まらない」
「そうかもしれません」
「私が止まれなくしているのかもしれない」
「その自覚があるならまだ戻れます」
ハーヴェイの声は近かった。近すぎて、逃げにくい。
「あなたは戻してくれるの?」
「必要なら」
「それでも私が戻らなかったら?」
「止めます」
「またそれ」
「はい」
エレノアは目を閉じた。「止める」という言葉は怖い。
けれど今はわずかな安心にも聞こえた。ハーヴェイは前世のことを知らない。黒瀬美緒のことも知らない。
それでもエレノアが危うい場所へ行こうとしていることだけは見ている。だからそばにいる。エレノアは返事をしなかった。掴んでいた袖を離そうとして結局そのまま指を曲げた。
王子の調査にハーヴェイの名も混じった。もう彼を巻き込んでしまっているのだとエレノアは認めなければならなかった。
リュシアンが次に誰を使うかは分からない。
だが袖の件だけで終わるとは思えなかった。
エレノアは報告書を閉じた。




