第11話 はじめての子
身体の芯がごわごわと音を立てる。ちっちゃな震えが振動になって、骨を伝わる。握りしめていた左手が汗ばんでいる。呼吸が早くなって、液晶がくもりガラスになった。
「わたしが……」
行く必要なんてない。こんな子一人助けてなんになる。誰か他に親切な人が助けに行くかもしれない、こなくても朝になれば電車が来る。そしたら帰れる。わたしはどこにも帰れないかもしれない。行けない、行っちゃだめだ、絶対に駄目だ。
絶対に。
「この子、変なやつがきたらどうする気なんだろ、悪い男とか……」
ダメだ、ダメだ、ダメだ、やめろわたし、やめろわたし、なに考えてる、なに、なに考えてる。飛ぶなんて、外に出るなんて、ありえない、そんなことしちゃいけない。
汗が吹き出す。目の周りが地鳴りのようにうごめいている。ふくらはぎに力が入って、足が固くなった。
「わたしが……わたしにしか……」
だめ、だめはるか、みんなのことを考えろ、芽衣ちゃんのことを考えろ、家族のことを、他の人のことを、だけど、だけどだけど「わたしは」
背筋が伸びた。いつの間にか身体を起こしてベッドに座っていた。気づかなかった。
黒いテレビの画面。写る自分、光る鈴。パジャマを着て、のんべんだらりと座っている。
あの子は泣いてる。誰かに来て欲しいって思ってる。
正義の魔女。わたし。
師匠なら、こんなときどうするんだろう。
決まってる。
お尻を離すと、ベッドがぎぎぎと鳴いた。
魔法で留め具を壊して、鈴を耳から外した。
開けた窓から風が吹いてきて、髪が後ろへとなびいた。
急いで着替えたシャツとスカート、右手には箒。窓枠の中が分厚い壁に見える。身体は唸りを上げるエンジンのように熱を宿している。ぞくぞく、ひりひり、わたし、興奮してる。
胸に手を置いて、深く息を吸って吐いた。振り返って、二段ベッドの下段を見る。
「行ってきます」
夜間でも寮の周辺では監視カメラが動いている。わたしの部屋を直接向いていたわけではなさそうだったけど、どこに目があるかわからない。その対策、消える魔法――ステルスを発動させる。一瞬意識が遠くなる。
学校を脱出するまでに一分はかかる。時間がもったいない。躊躇なんてせずに、行こう。
窓枠に足をかけて、高さにゾッとしたけど、そのまま思いっきり踏み切った。
重力に引っ張られる感覚があって、でもすぐに浮き上がる。夜風が耳の穴を抜けて、枷などないんだよとわたしに言った。
仰角四十五度で上昇、カメラの範囲外まで飛び上がる。空は高く、地面は遠い。校舎も寮もあっという間に小さくなっていき、わたしはもう後戻りできないところまで舞い上がっていた。そこまで来てからステルスを解除した。
ぱっと視界が大きくなって、雲一つない夏の夜空が無限に広がった。
風が冷たい。空気が澄んでいる。馬鹿みたいにおっきな満月がわたしを見下ろしている。星々が空に瞬き、夜空を野鳥が駆け、遠くに飛行機の赤いランプが見えた。
やっちゃった、ほんとうにやっちゃった。わたしって馬鹿だなあ。
でもね、そんな馬鹿な自分は大好きだよ。
胸に満ちたドキドキはきっと、恐怖ではなく高揚感だった。
その女の子が待っていたのは、周りに民家もろくにない無人駅だった。暗がりにぽつんと浮かんだ電灯に照らされる頭を見つけて、わたしはゆっくりと降下していった。
胸がバクバク鳴っている。そっーっと背後に降りて、なぜか忍び足で近づいた。
女の子は足を組んでベンチに座り、片手でスマホを弄っていた。あれ、バッテリーないんじゃなかったっけ。別人かな。んー、……でも他にいないし。
「こんばんはー、えっと、あなたが困ってるって子?」
女の子は顔を上げて、のっそりとこちらを向いた。明るい髪のベリーショートで目は思っていたよりも強気に見える。
「ん、あんた誰? 迷子?」
「いや、迷子はそっちのはずじゃ……ていうか、バッテリーもないって聞いてたんだけど」
「ああ、あれ見てマジで来てくれたんだ。嘘じゃないよ、モババあっただけ」
それは嘘だと思う。まあ、いいや、困ってるのには変わりないだろうし。
「えー、嬉しい、朝まで退屈だーって思ってたんだよね。車で来てくれたの? 近くの人?」
「……まあ、乗り物で来たんだけど。一応聞いておくけど、どうしてこんなところにいたの?」
「推しのライブ参加してたんだけどさ、うっかりね、電車逆じゃん、って。降りるときに気付いた。マジウケるよね」
「うわー、予想してたよりずっと自業自得。もっとかわいそうな感じだと思ってた」
女の子は悪びれる感じもなく、小さく笑った。
「でもそういうことあるっしょ」
「まあなくはないかも……」
女の子はなにか……というか車を探すように首を振った。
「ま、細かいことはいいじゃん? 送ってってくれるんでしょ、どこ止めてんの?」
間違いなく期待を裏切ることになる。そりゃ魔法は最高だって思ってるけど、理解してくれるかって言ったらどうかっていうか、いやいやいや普通は絶対受け入れらんないよね、わたしのこと変人だと思うだろうし、気持ち悪がられるかも、やっぱり帰ろうかな、帰る、かえ、帰れない。ええい、これがわたしのスタイルじゃい、文句あるかいな。不満があるなら置いていくぞ。
握りしめていた箒を突き出す。女の子は無感動そうにそれを見ている。
「これ、これで行くから。後ろに乗ってね。車なんかよりもずっと速いんだよ」
「……それギャグ? マジなやつ?」
女の子の視線は、超冷たかった。




