欠けた歴史
王城の地下最深部にある記録保管庫は、ひどく静かだった。……いや、静かすぎた。
同じような石造りの廊下をいくつも抜けた先。逆に同じような通路が続きすぎて、先ほど通った場所と区別がつかなくなりそうな、方向感覚が曖昧になりかける空間。その奥、厚い扉の向こうにあるその部屋は、外の気配をほとんど通さない。
足音は吸い込まれ、衣擦れの音さえも壁に触れる前に薄れていく。
まるで音が消えているのではなく、“残っていない”ような静けさだ。そこにあるはずのものが、最初からなかったかのように──そう錯覚させる。誰かが息をするだけで、それが妙に目立つほどだった。
灯りはある。だが十分とは言えない。
高い位置に設けられた小窓から差し込む光と、壁際に置かれた燭台の揺れる火が、棚と棚の間に細い影を落としている。
──その影が、動かない。
火は確かに揺れている。けれど、影の方が遅れているようにも見えた。
文官は一歩、足を踏み入れる。
靴底が石に触れる感触は確かにある。
だが、その音だけがどこか遠い。自分の足で歩いているはずなのに、その実感がわずかに遅れてついてくる。
背後で扉が閉まる。
重い音だったはずなのに、その余韻が残らない。閉まった、という結果だけがそこにある。
「……ここか」
小さく呟く声は、確かに出ている。
だが、その響きが自分のものではないような感覚が残った。
視線を巡らせれば、棚には無数の書物が並んでいる。
年代も装丁もばらばらで、背表紙には細かな文字が刻まれているはずだった。
──はず、なのに。
視線を向けると、文字が読めない。
読めない、というより。
目で追っているはずなのに、その意味だけが頭に残らない。形としては見えている。だが、何と書かれていたのかを確認しようとした瞬間、そこが抜け落ちる。
もう一度、視線を戻す。
さっき見たはずの場所。
同じ背表紙。
だが──やはり分からない。
(……見えている、よな)
自分の視力に問題はない。
文字もある。消えているわけではない。
それでも──認識できない。
指先で一冊の本に触れる。
革の感触。
冷たく、乾いた手触り。これは確かだ。それだけは、はっきりと現実に繋がっている。
ゆっくりと引き抜く。
その動作は問題なくできる。重さも感じる。
だが、その一連の流れがどこか途切れがちで、ひとつの動作として繋がっていないような感覚が残る。
本を開く前に、わずかに手が止まる。
理由は分からない。
ただ、開いてはいけないような──そんな違和感があった。
だが、それを振り払うようにしてページをめくる。
紙の擦れる音がする。
それだけは、やけにはっきりしていた。
中身を確認する。
文字はある。
文章も並んでいる。
読める。読めるはずだ。
一行、目で追う。
(……え……)
内容が頭に入らない。
もう一度、同じ行を見る。今度は少し意識して、ゆっくりと。
それでも、同じだった。
読んでいるはずなのに、意味が結びつかない。
文章の形だけが目に残り、その中身がどこにも繋がらない。
(……なんだ、これ)
息が浅くなって、一歩後ろに後ずさる。わずかに指先に力が入る。
そのとき、違和感に気づく。
ページの途中。
不自然な“途切れ”があった。
そこだけ、文章が繋がっていない。
視線を落とせば、そこには──空白があった。
ただの余白ではない。文章が続いていたはずの場所が、途中で途切れている。
紙の端が、わずかに乱れている。
ゆっくりと、ページをめくる。
次のページも、同じだった。
──破れている。
明らかに、抜き取られている。
その跡は不自然だった。
丁寧に切り取られたようにも見えるし、逆に無理に引き裂いたようにも見える。古いはずの紙なのに、切り口だけが新しいようにも見えた。整っているのに、乱れている。どちらとも判断できない。
指でその部分に触れてみれば、ざらついた感触が伝わる。だが、その下に何かが残っている気がした。
なぞる。
そこに、文字があったはずだと分かる。
インクの痕はない。
だが、紙にわずかな圧が残っている。書かれていた“跡”だけが、触れた指に伝わる。
(……あった)
指先を止める。
なぞった場所だけが、わずかに浮いているように感じられた。
紙そのものは変わらない。だが、その部分だけが、他と違う重さを持っている。
もう一度、なぞる。
今度は、ゆっくりと。
文字を読むように、順を追って。
──読めない。
だが、そこに“並び”があることだけは分かる。
言葉だったはずの流れ。意味を持っていたはずの配置。
それを知っているはずだという感覚だけが、先に残っている。
触れている指先には確かに残っているのに、頭の中では、何一つ繋がらない。
言葉だったのか、名前だったのか。
それは分からない。
だが──“何かが書かれていた”という確信だけが残る。
もう一度、指でなぞる。
読もうとする。
だが、その瞬間。思考が途切れる。
何を読もうとしていたのか、分からなくなる。
視線が滑る。焦点が合っているはずなのに、その意味が捉えられない。
気づけば、同じ場所を何度も見ている。
同じ行。
同じ空白。
同じ破れた跡。
ふと、視線を外す。
それだけで、さっきまで見ていたはずの場所が分からなくなる。
慌てて視線を戻す。
同じページのはずなのに、どこを見ていたのかが特定できない。行が、判別できない。
文字は並んでいる。
だが、それぞれが独立していて、繋がりを持たない。
“一行”として認識できない。
(……おかしい)
理解している。
異常だと、分かっている。
それでも──どう異常なのかを、説明できない。
(……読めてる、はずだ)
そう思う。だが、それ以上が続かない。
理解しようとするたびに、思考が外れる。集中しようとすると、その対象そのものが曖昧になる。
不意に、背筋に冷たいものが走る。
これは──偶然じゃない。
破れた跡。
残された圧痕。
読めない文章。
すべてが繋がる。
(……消されている)
誰かが、意図的に。
この記録から、“何か”を消した。
そう理解した瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。
ハッと振り返るが、そこには誰もいない。
最初から、誰もいなかったはずだ。
それでも、視線を戻すまでに、わずかな時間がかかる。
再び本に目を落として、そこに書かれていたはずの内容を思い出そうとする。
だが──思い出せない。
さっきまで読んでいたはずなのに。確かに、何かを理解しかけていたはずなのに。
その“何か”だけが抜け落ちている。
手の中の本を閉じる乾いた音が、小さく響く。その音だけが、やけにはっきりと残った。
しばらく、そのまま動けない。
何かを知ってしまった。
そんな感覚だけが残っている。だが、それが何だったのかが分からない。
言葉にしようとすると、途切れる。
思い出そうとすると、そこだけが曖昧になる。
(……何を、見たんだ)
答えは出ない。
そのとき、不意に足音が響いた。
振り返るとそこには、同じ部署の文官が一人、扉の前に立っていた。
「……どうした」
声をかけられる。
文官は、わずかに言葉を探す。
「……いや、この記録だが」
手に持った本を示す。
「一部が……抜けているように見える」
曖昧な言い方だった。
自分でも、何が抜けているのか説明できない。
相手は近づき、本を覗き込む。
一瞬だけ、視線が止まる。
だが──それだけだった。
「……問題はないように見えるが」
あっさりと言う。
「いや、だが……ここに何かあったはずだ」
指で、破れた跡をなぞる。
相手はその動きを目で追う。
だが、その反応は変わらない。
「ただの損傷だろう」
「古い記録だ。珍しくもない」
当然のように言う。
そこに、違和感はない。
「……そう、か?」
思わず、問い返す。
「何か、読めなかった気がしたんだが」
その言葉に、相手はわずかに首を傾げる。
「読めない?」
「……いや、違う。読めたはずなんだが」
言いながら、自分でも分からなくなる。
何を読んだのか。
何が引っかかっていたのか。
その輪郭だけが、曖昧に崩れていく。
「……疲れているんじゃないか」
軽く言われる。
否定する理由が、見つからない。
「……そうかもしれないな」
小さく頷く。
その瞬間。
さっきまであったはずの違和感が、わずかに薄れていく。
残っているのは、何かがおかしかった気がするという感覚だけだ。
それ以上は、思い出せない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
──ここには、“消された記録”がある。
それは、偶然ではないと分かる。
そして、それが何を隠しているのかだけは。
決して、思い出せない。




