調査者
記録は、残っているはずだった。
確かにそこにあったという前提だけが、先に揺らいでいる。
読もうとするたびに、その前提の方が崩れていく。
***
書庫は、静かだった。
石造りの壁に囲まれたその空間には、外の音はほとんど届かない。積み上げられた書物と記録が、空気そのものを重くしているようだった。乾いた紙の匂いと、長く閉ざされていた埃の気配が、わずかに混ざっている。
騎士は棚の前に立ち、一冊の記録を手に取った。
目的ははっきりしている。
王都で起きた、とある“事件”の記録。正式に残されているはずのものだ。
表紙を開けば、紙の擦れる音が小さく響く。
最初の数行は、問題なく読めた。
日時、場所、概要。
整った形式で書かれている。内容も理解できるし、記録としての体裁も整っている。
だが……ある一文で、思考が止まった。
(……?)
今、確かに読んだ。
そう認識している。
だが、その内容が頭に残っていない。
もう一度、同じ行に視線を戻す。
文字は読める。
意味も分かる。
文章として成立している。
──それなのに。
読み終えた瞬間、その意味だけが抜け落ちる。
(……おかしい)
小さく息を吐く。
読み飛ばしたわけではない。
理解できなかったわけでもない。
ただ、“残らない”。
もう一度、ゆっくりと読む。
今度は、意識して一語ずつ追う。
それでも結果は同じだった。
読めている。
なのに、繋がらない。
一文として成立しない。
(……記録の、はずだろ)
呟きは、音にならなかった。
指で紙をなぞればインクの感触はないが、そこに書かれていることは確かに分かる。
だが、その“内容”だけが、どこにも残らない。
騎士は本を閉じた。
一度目を閉じ、息を整えて別の記録に手を伸ばす。
同じ事件を扱った、別の報告書だ。
開くと今度は、問題なく読めた。
内容も理解できる。流れも自然だ。
けれど。
(……違う)
さっきの記録と、微妙に一致していない。
記述の順序が違う。
細部の描写が違う。
何より──“結論”が、違っている。
思い出そうとする。
さっきの記録に、何が書かれていたのか。
だが、それが思い出せない。
違和感だけが残る。
内容そのものは、もう掴めない。
(……なんだ、これ)
視線が落ちる。
ページの上の文字は、変わらずそこにある。
だが、それが何を示しているのかが、掴めない。
騎士はもう一冊、別の記録を取り出した。
同じ事件を扱ったもの。年代の違う記録。
開いて読み進める。
──今度は、最初から引っかかった。
文章が、連続していない。
文としては成立している。
けれど、その流れがどこかで途切れている。
因果が繋がらない。
(……飛んでる?)
一瞬、そう思う。
だが、抜けているわけではない。
ページも、文章も、欠けてはいない。
すべてが“揃っている”。
それなのに──繋がらない。
(……いや)
首を振る。
自分の理解力の問題かもしれない。そう考える方が、自然だ。
騎士は本を閉じ、棚に戻した。
代わりに、別の資料を取り出す。
簡易的な年表だった。
事件の流れを時系列でまとめたもの。
視線を落とし、日付を追う。
出来事を確認する。
(……)
指が、止まる。
日付が合わない。
さっきの記録と、微妙にずれている。
どちらが正しいのかは分からない。
だが、一致していないことだけは確かだった。
(……こんなことがあるか?)
思考が、わずかに揺れる。
記録は、事実を残すものだ。
複数あれば、多少の差異はある。
だが。
ここまで噛み合わないのは、おかしい。
騎士は顔を上げた。
書庫の中は、相変わらず静かだった。
誰もいない。
自分だけが、この空間にいる。
(……俺の方がおかしいのか?)
その考えが、浮かぶ。
すぐには否定できなかった。
──確認するべきか。
わずかに迷ってから、騎士は書庫の奥に視線を向けた。
「……少しいいか」
声をかける。
奥の机で作業をしていた書記官が、顔を上げた。
「この記録なんだが」
手にしていた資料を差し出す。
「少し、内容が噛み合わない気がする」
曖昧な言い方だった。
何がどうおかしいのか、自分でも説明しきれない。
書記官はそれを受け取り、目を落とす。
数秒。
紙をめくる音。
そして──
「……?」
ほんの一瞬、動きが止まる。
だが、それだけだった。
「特に問題はありませんが」
あっさりと、そう言った。
「問題、ないのか?」
思わず聞き返す。
「ええ。記述も整っていますし、内容も自然です」
迷いはない。
違和感もない。
「どこか引っかかる部分でも?」
問い返される。
騎士は、言葉に詰まった。
何がおかしいのか、説明できない。
「……いや」
小さく首を振る。
「気のせいかもしれない」
そう言うしかなかった。
書記官は軽く頷き、資料を返す。
「記録に不備があれば、もっと明確に出ますから」
当然のように言う。
それが“普通”であるかのように。
騎士は資料を受け取り、再びページを開いた。
そこに書かれている文字は、変わらない。
だが。
さっきまであったはずの違和感だけが、わずかに薄れている。
(……いや)
それでも。
完全には消えない。
確かに、何かがおかしい。
それだけは、消えずに残っている。
もう一度、最初の記録を開く。
さっき引っかかった一文を探す。
視線を滑らせる。
けれど。
どこだったのか、分からない。
同じページのはずだ。
同じ記録のはずだ。
それなのに、さっきの場所が特定できない。
(……そんなはずは)
焦りが、わずかに混じる。
ページをめくる。
戻る。
また探す。
──見つからない。
そもそも、何を探しているのかが曖昧になっていく。
さっき確かに違和感を覚えた。
その“何か”だけが、抜け落ちている。
騎士は、手を止めた。
呼吸が、わずかに浅くなる。
静かすぎる空間の中で、その変化だけが妙に際立っていた。
(……落ち着け)
小さく息を吐く。
もう一度、冷静に考える。
記録はある。
文字もある。
読める。
ただ、一致しないだけだ。
それだけだ。
(……それだけか?)
思考が、止まる。
そのそれだけが、説明できない。
もう一度、年表を見る。
日付。
出来事。
流れ。
──繋がらない。
途中で、何かが欠けている。
だが、それが何なのかは分からない。
欠けているという感覚だけがある。
騎士は、ゆっくりと視線を落とした。
指先で、紙の上をなぞる。
そこに何かがあったはずだと、分かる。
なのに、それが何かは分からない。
(……あった、はずだ)
その確信だけが残る。
記録は、残っている。
そう思っていた。
けれど。
残っているのは、形だけなのかもしれない。
内容は、どこかで失われている。
あるいは──最初から、なかったことになっている。
騎士は、顔を上げた。
誰もいない書庫。
静かな空間。
変わらないはずの場所。
それでも、どこかが噛み合っていない。
(……何かがおかしい)
その言葉が、今度ははっきりと浮かんだ。
だが、それ以上は続かない。
何がおかしいのか。
どこがずれているのか。
それを説明することができない。
理解には、至らない。
ただ。
違和感だけが、残る。
騎士は、本を閉じた。
乾いた音が、小さく響く。
その音だけが、やけにはっきりと耳に残った。
***
書庫は、静かなままだった。
だがその静けさは、どこかで連続していない。
同じ空間のはずなのに、さっきまでと同じ感覚で捉えられない。
何かが、抜け落ちている。
それが何なのかは、分からないまま。
ただ──その“欠け”だけが、確かにそこにあった。




