9.触れないでくれ
夜の帳が降りた離れの小棟。
ダリルは寝台に仰向けのまま、額に腕を乗せただ天井を見ていた。
今日は──疲れた。
着飾り、晒され、そして……過去と向き合わされた。
元婚約者と、獅子殿下の顔が思い浮かぶ。
静寂を破るように、扉が二度、控えめに叩かれた。
ダリルは返事をしなかった。
だが、扉はゆっくりと開く。
姿を現したのは──ロデリック・フォン・ヴェステンベルク。
彼は言葉を発さず、部屋の奥へと進むと無言で椅子に腰を落とす。
テーブルの上には、温め直された食事が置かれた。
ダリルはちらりと見やったが、そのまま身体を起こすつもりはなかった。
「……なあ、もし俺が番じゃなかったら、役に立たなかったら、獅子殿下、あんたはどうした?」
ぽつりと、そんな言葉が出た。
言ってしまってから、舌打ちしたくなった。
答えなど、初めから要らないはずだった。
でも、問いかけずにはいられなかった。
ロデリックは顔を上げた。
そのまなざしには、確かに、言葉にするよりも多くの感情が揺れていた。
その沈黙が──答えだった。
ダリルは静かに笑った。
冷たく、ひどく静かな笑いだった。
「……やっぱりそうなんだな」
ダリルは重い身体を起こした。
「誰も俺を俺として見ない。王国も、家族も、アンリ(あいつ)も。あんたも同じだ。Ωだから番だから欲しい。番だから守る。……だったら、最初から優しくするな」
机の上の銀の鍵が、揺れた。
「……だったら、最初から──触るなよ」
声が震えた。
けれど、涙は見せなかった。
「──俺は誰かの番になるために、生まれてきたわけじゃない」
ロデリックは、しばらく黙っていた。
「俺はお前が番ではないという事は考えた事はない」
やがて、静かに立ち上がる。
その歩みは重たく、どこか迷いを滲ませていた。
彼はダリルの前で、足を止める。
そのまま、ダリルの拳を見つめ──そっと、手を伸ばした。
乱れた黒髪に、指がふれる。
「……ダリル」
その声は、これまでのどんな声よりも、柔らかかった。
ただ、その名を呼ぶだけの声。
その手はそのまま銀鎖の絡んだ手首へ、そっと指先を添えた。
ダリルは目を見開いた。
息を呑む。
ロデリックの手が、まるで熱を帯びているようだった。
冷たい鎖の上から、確かに温もりが伝わってきた。
思わず、ダリルはその手を払おうとした。 だが、手首が震えるだけで、力が入らなかった。
「……やめろ……」
囁くような声。
ロデリックの手が、そっと頬に触れた。
反射的に身を引こうとする。
だが、それよりも先に、ダリルの身体が動けなかった。
「お前が、番でなかったとしても──」
言葉が続く前に、ダリルは声を上げた。
「やめろって言ってんだろ!!」
強い叫びだった。
感情が限界まで膨れあがっていた。
ロデリックはそこで動きを止めた。
しばしの沈黙。
そして、ほんのわずかに視線を伏せ、頷く。
そっと立ち上がる。それでも、ひとことだけ残した。
「……わかった。だが、俺は諦めない」
その言葉を最後に、ロデリックは部屋を後にした。
扉が閉まる音が、妙に遠く響いた。
ダリルは、ぽつりとひとり残され、拳を握りしめた。
胸の奥が、どくどくと熱を持って疼いていた。
それは怒りではない。
悔しさでも、羞恥でもない。
ただ、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、あの手の温もりに──絆されそうになった。
それが、恐ろしかった。
だからこそ、全身で拒絶した。
ダリルは、唇を噛み締めた。
けれど、銀鎖の冷たさが、焼けつくほど痛かった。