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10.沈黙の刃、微笑の毒

 朝靄にけぶる帝都の空。

 薄灰色の空気は、庭園の木々や芝生を朧げに包み込んでいた。

 離れの小棟の鉄扉が、かすかな軋みをあげて開く。

 冷たい冬の風が頬を撫でていった。

 ──中庭への外出が初めて許された。

 とはいえ、常に視線を感じる。

 護衛の目は決して途切れず、見えない束縛として彼を取り囲んでいる。

 鉄柵の向こうには人気はなく、静かな石畳と霧露を帯びた芝だけが、朝の冷気に濡れている。

 ダリルは無言で歩を進めた。

 現在、帝国内には三つの大きな派閥が存在していた。

 講和の場で交わされた言葉、屋敷内で交わされる使用人たちのささやき。

 ダリルは、それらの断片を繋ぎ合わせ、今この帝国がどれほどの緊張に包まれているのかを、嫌でも悟らされていた。

 皇帝派。王家を頂点に置き、伝統と血統を重んじる者たち。

 宰相派。実利と法、経済を握り、皇帝をも牽制する有力貴族たち。

 そして、大公派──ロデリックを中心とする軍閥。武力と現場の統率で帝国の膨張を支えてきた一派。

 その大公派の長であるロデリックが、敵国のΩを私邸に置き、番契約を結ぼうとしている。

 しかも、遅咲きのΩ。

 帝国では「遅咲きΩの番契約」は歴史的に例が少ないため、時に儀式的、象徴的な意味が強調されるらしい──笑えるほど滑稽だ。

 これで火の粉が降りかからないはずがない。

 ダリルは奥歯を強く噛んだ。

 銀鎖が冷たく乾いた音を立てる。

 その音に混じって蘇るのは、昨夜の出来事。

 あの低く静かな声、どこか優しく触れたあの手。

 ほんの一瞬、自分の心が揺らいだこと

 それを認めることができないまま、胸に押し込めている感情が今もなお、くすぶっていた。

(……俺は、何をやってるんだ)

 かすかに苛立ちを覚えながら、中庭の片隅に立ち止まった。

 ダリルは静かに剣を抜く。

 一呼吸おいて、鋭く空を切る。

 ひと振り、またひと振り。

 精確さを意識しようとしても、いつもの冷静さが保てない。

 その剣筋には、隠しきれない焦燥がにじみ出ていた。

 力みすぎて鎖が軋み、鈍い痛みが手首を走った。

 それでも剣を振ることをやめるわけにはいかなかった。

(揺れてたまるか。俺は──こんな感情に振り回されるほど弱くない)

 胸の奥に生まれたこの感情は、自分でもよくわからない。

 怒りではない、羞恥だけでもない。

 だが、それが確かに自分自身に向けられた激しい叱責であることは理解できた。

 濃密な霧のように胸を満たす感情を振り払おうと、ダリルはただ無言で剣を振り続けた。



 帝都アウレリア・中央官庁の一室。

 宰相派と呼ばれる重鎮たちが集う灰色の石造りの広間には、絹の椅子と銀盆に並んだワインだけがかろうじて貴族らしい装飾だった。

「……このままでは、大公殿下は個人の情で帝国を揺るがしかねない」

 初老の男が低く呟いた。帝国議会の元老議員であり、宰相派の筆頭格であるファーレン公爵。

「元、とはいえ敵国のΩに番契約……それが真実ならば、陛下の権威すら揺らぐ。何より、国民が黙っていましょうか」

「噂は既に街にも出ています。『戦勝の立役者が、捕虜の色香に惑わされた』と……」

「発情したΩに国家が翻弄されるなど、前代未聞ですな」

 誰かが鼻で笑った。

 笑いに混じるのは、軽蔑でも、驚きでもない──恐れだった。

 そのとき、白い手袋をつけた若い男が、優雅に杯を置いた。

「……それならば、私にお任せいただけませんか」

 アンリ・ド・グレイユ。

 王国からの使者にして、レーベンハイトの名門貴族。そして、かつて──ダリルの婚約者だった男だ。

「ダリル・エティエンヌは王国にとっても過去の人間です。ですが、帝国にとって危険物であるのなら、いっそ処分するより回収した方が美しいでしょう?」

 淡く微笑みながら、毒を含んだ言葉を吐く。

「元・婚約者として再契約を申し出ましょう。番契約には至っていないのでしょう? 形ばかりの再縁であれば、帝国としても面目が立つのでは?」

 宰相派の間にざわめきが走った。

「……つまり、大公殿下を政治的敗北者として沈めるために?」

 アンリは微笑を崩さなかった。

「私情などありませんよ。ですが、獅子が牙を鈍らせたのなら……」

 その言葉の先を、誰も口にはしなかった。

 

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