5.生きろと言った
──静かな日々が続いた。
離れの小棟。
窓には鉄格子。
扉の前には常に衛兵。
食事は用意され、薬と水差しが毎朝、机の上に置かれていた。
けれど、誰も、話しかけない。
ダリルは、ただ銀鎖に繋がれたまま、静かに時の流れに耐えていた。
──ある夜。
扉の外から、低い声が聞こえてきた。
外を歩く靴音が、かすかに聞こえてきた。
「……やはり、遅咲きのΩだったようだな」
「遅咲きのΩは血による契約の力が強いと聞く……」
「奇跡だよ、今さら発情を迎えるとは。しかも敵国の士官……」
「いや、利用価値は十分ある。古代伝承では、神に選ばれし媒介者と……」
「……番契約さえ操れれば、皇帝派への交渉材料にもなる」
「個人の情など、帝国の前には塵に等しい……」
ぼそぼそと交わされる小声が、夜の静けさにかすかに響いていく。
聞き取れたのは、ほんの断片だった。
けれど、ダリルにはそれだけで十分だった。
ダリルは、静かに目を閉じた。
──やはり、そうなのだ。
ここでは、命も、誇りも、感情も、取引の道具にすぎない。
ゆっくりと、拳に力を込めると銀鎖が、軋んだ。
夜は、静かに深まっていた。
薄暗い部屋、鉄格子越しに見えるのは帝都の冷えた星空。
ダリルは、寝台に腰掛けたまま、じっと拳を握り締めていた。
耳にこびりついた、あの夜の言葉──
『利用価値は十分ある』
『皇帝派への交渉材料にもなりうる』
『個人の情など、帝国の前には塵に等しい』
胸の奥で、黒い苦さがじわじわと広がっていく。
──それでも。
誰のものにもならない。
誰にも誇りを奪わせない。
必死に、そう自分に言い聞かせる。
そのときだった。
ギィ、と。
重い扉がわずかに開き、ダリルは反射的に顔を上げた。
薄闇の中に、金色の髪が浮かび上がった。
──ロデリック・フォン・ヴェステンベルクだった。
無言で、ただそこに立っている。
外套を纏い、影のような存在感をまとって。
ダリルは、条件反射で睨みつけた。
この鎖も、この檻も──お前の所為だ、と。
だが、ロデリックは一歩も近づかない。
代わりに、手に持っていた小さな包みを、机の上に静かに置いた。
革に包まれた細身の剣は簡素な造だった。
だが、手に取ればすぐに分かる実戦に耐える、本物だ。
ロデリックは、短く言った。
「……生きたければ、使え」
それだけ。
命令でも、強制でもない。ただ、静かに。
ダリルは、硬直した。
(──何故だ)
問いかけたくなる喉を、必死に抑えた。
銀鎖が、震えた手首に冷たく絡む。
ロデリックは何も言わないまま、ゆっくりと背を向けた。
扉の外へと向かう。
机の上に、革に包まれた細身の剣。
ダリルは、それを見たまま、かすかに口角を吊り上げた。
「……こんなものを渡して、俺が自害しないとでも?」
かすれた声だった。
嘲りでも虚勢でもない、ただ、剥き出しの本心だった。
ロデリックは足を止め、静かに振り返り、黄金の瞳が影の中からダリルを射抜く。
「俺は生きろ、と言った」
揺るがない声音。
押しつけでも、哀れみでもない。
ダリルは、しばらく無言でその背を見つめる。
扉が静かに閉じられ、部屋にはまた静寂が戻った。
机の上に、革に包まれた細身の剣。
ダリルは手を伸ばした。
銀鎖が微かに鳴る。
革を解き、剣を抜く──細身の剣。
飾りもなく簡素だが、いい造りだった。
なにより手にした瞬間この剣は恐ろしいほど彼の手に、身体に馴染んだ。
いままで握ったどの剣よりも。
まるで、最初からダリル・エティエンヌ・ド・ヴァレールという存在だけのために鍛えられたかのように。
手のひらに、しっくりと吸い付く重み。
振れば、身体の延長のように軌道を描く。
傷だらけの身体が、自然に剣を受け入れる。
(……これは──)
驚きに、微かに目を見開く。
そして、静かに深く息を吐いた。
握り締めた剣の柄から、じわりと温もりが伝わる。
ダリルは、ゆっくりと剣を鞘に納めた。
あいつの言葉は関係ない、ただ、誰のためでもない。
俺は、俺のために生きる。
誇りを、この手から離しはしない。