4.誰のものでもない身体
馬車が進んだ先は、帝都アウレリアの心臓部──皇城へと続く区画の一角だった。
石畳を敷き詰めた貴族の屋敷が立ち並ぶさらにその奥。
高い鉄柵と白銀の門に守られた敷地。
その中心に聳えているのは、白亜の巨石で築かれた、飾り気のない建築。
鋭角な造形。
厚い城壁。
威容を誇る塔と、静かに揺れる大公ロドリックの軍旗。
それはもはや、単なる「屋敷」ではなかった──小さな要塞。
皇家の血を引く者だけが許される、帝国中枢に刻まれた、孤高の城。
ダリルは、微かな衝撃に目を開けた。
銀鎖が手首で冷たく音を立てる。
馬車の外には、整然と並ぶ兵たちの影が見えた。
黒の軍装。
金と銀の刺繍が、夜明け前の蒼白い光にぼんやりと浮かび上がる。
──出迎えの列。
扉が開く音と共に、冷たい朝の空気が馬車の中に流れ込む。
外に立つのは、黒い外套を纏ったロデリック・フォン・ヴェステンベルク。
金の髪を微かに揺らし、無言でこちらを見下ろしていた。
立てるか──否か。
助けを借りるか──否か。
そう問いかける様な視線。
助けるわけでもなく、押しつけようともしない。
ただ、「選べ」と無言で突きつけている。
ダリルは、震える手を銀鎖にかけた。
身体はまだ冷め切らない熱に蝕まれ、膝も震えている。
だが、歯を食いしばり、ダリルは銀鎖を引きずり、ゆっくりと馬車を降りた。
足元がぐらつく。
銀鎖に繋がれた捕虜として、兵たちの視線が突き刺ささった。
好奇、軽蔑、憐憫──ありとあらゆる感情が混ざった空気。
ダリルは静かに息を吐いた。
目を閉じると、否応なしに昔の記憶が浮かび上る。
子供の頃、貴族たちの舞踏会で「役立たずのΩ」と囁かれたあの夜。
貴族がひしめき合ったホール。
絹の凝った礼服。
仄かな香水の香り。
そして、遠ざかるひとりの少年の後ろ姿。
幼い頃、婚約を交わした名門αの跡取り。
だが、ダリルに発情が訪れないと知るや彼は何の感傷もなく、こう言い放った。
『仕方ないだろう? Ωとして欠けているのなら』
それきりだった。
誰も、ダリルを庇わなかった。
落ちぶれかけた名家──ヴァレール家を救うため、幼い彼に結ばれた婚約。
けれど、ダリルが発情を迎えなかったことで、その唯一の望みも破談となった。
家の再興を懸けたはずの子供はただ「失敗作」として、冷たく目を逸らされる存在になった。
家族さえも。
だからだ。
ダリルは十五になった時、家を飛び出し、軍隊に身を置いた。
貴族の肩書きではなく、自らの手で立ち、自らの力で生き抜くために。
それが愚かで無謀な選択だと笑われることはわかっていた。
けれど、誇りを支えるものは、それしかなかった。
──あの日からダリルの中にある、か細いその誇りだけが、かろうじて彼を支えるものになった。
どれほど欠けていようと、せめて最後の一歩だけは、自分の足で立つために。
案内されたのは、本邸の一角。
客人を滞在させるための、離れの小棟だった。
清潔な寝台。
小さな書棚と机。
窓はあるが、外には鉄格子がはめられている。
──牢ではない。
だが、自由もない。
扉の前には、衛兵が二人、無言で立っている。
ダリルは、部屋の中央でしばらく動けなかった。
誰かに価値を量られ、誰かに捨てられ、誰かに所有される。
──もう、そんなものには屈しないと誓ったはずだった。
遅効型のΩ?
番の刻印?
運命なんて冗談だ。
この身は、誰のものでもない自分のものだ。
そう言い聞かせ、戦場に立ち剣を握ってきたはずなのに──今また、鎖に繋がれ、ここに立っている。
身体の奥底から、黒く苦いものが這い上がってきた。
誇りを溶かし、心を蝕む絶望。
ダリルは、きつくきつく拳を握り締めた。




