3.差し出された手
要塞都市アルトナから、ヴェステンベルク帝国の帝都アウレリアへは馬車でおよそ五日の道のり。
その間、夜ごと野営を挟みながら進むしかない。
聞くところによると大公ロデリック・フォン・ヴェステンベルクは、本来ならば戦後処理に当たるべき立場にありながら、勝利を収めた直後、その任を副官たちに任せ帝都へ向けて一足早く発ったという。
──囁き交わされる兵たちの噂。
その耳に届いた内容から察するに、理由は「捕虜」として連れられたダリル自身にあるらしかった。
皮肉な思いを胸に押し込める。
火の粉が、静かに夜空へ舞った。
野営地は木立に囲まれた小さな広場に、簡素な天幕がいくつも張られている。
粗末な黒天幕の中、ダリルそんなことを考えながら浅い呼吸を繰り返していた。
体が熱い。
拙い発情の名残と、傷口の痛み。
熱は下がる気配を見せなかった。
毛布に包まれたまま、銀鎖に繋がれた身体を動かす力は、ほとんど残っていない。
銀鎖が手首に絡みついたまま。
自由も、誇りも、命さえも、どこか遠くにあるようだった。
意識は、途切れ途切れに浮かんでは沈んでいく。
天幕の外で、かすかな足音がした。
「……閣下、捕虜……いえ、ダリル様の容態が思わしくありません」
聞き覚えのある低い声──ロデリックの副官、エドガー。
──様。
その言葉に、ダリルはかすかに耳を動かした。
久しく聞くことのなかった、敬意の響き。
けれど、すぐに悟る。これは敬意ではない。ただ、自分を取り巻く利害が変わっただけだ。
(……俺自身ではなく、価値に向けられた言葉だ)
重いまぶたを閉じながら、ダリルは胸の奥に、静かに針を刺すような痛みを覚えた。
「熱が下がっていないようです。……医官を呼びましょうか?」
短い沈黙。
答えたのは、あの男だった。
「……俺がやる」
低く、抑えた声。
その響きに、ダリルはかすかに眉を寄せた。
(……何故だ)
命令ではない。
義務でもない。
その声には、ただ一縷の、静かな決意だけが宿っていた。
天幕の幕がわずかに揺れ、ロデリックが中へ入ってくる。金の髪が、焚き火の光を受けて鈍く煌めくのが見えた。
無言で、ダリルの側まで来ると膝をついた。
冷えた手が、そっと額に触れた。
ダリルは、反射的に身を捩ろうとした。
だが、身体は上手く動かない。
「動くな」
それ以上、何も言わない。
ロデリックは、無骨な手つきで包帯を外し、
新しい消毒液を布に染み込ませると、丁寧に傷口を拭った。
熱で感覚が鈍っているはずなのに、ダリルは、その手が荒々しさのかけらもないことに気づいた。
優しさなどではない。
ただ、命を守るためだけの、必要最小限の手当て。
銀鎖がかすかに鳴る。
弱々しく拳を握りしめながら、ダリルは必死に睨み返した。
(……屈しない……)
それだけが、かろうじて彼を支えていた。
しかし、ロデリックは、その視線に答えなかった。
睨み返すことも、押さえつけることも、しない。
ただ、静かに傷を塞ぎ、包帯を巻き、そしてそっと手を離した。
「……水だ」
短い言葉とともに、革袋が差し出された。
ダリルは迷った。
この水を受け取ることは、負けることだろうか。
それとも──生きるために、必要な選択だろうか。
揺れる視界の中、ダリルはわずかに唇を開き、差し出された水をかすかに受け取った。
喉を通り抜ける冷たい感触が、乾ききった身体に染み渡っていく。
ひと口、ふた口――冷たい水が喉奥に広がる感覚に、もっと欲しいと微かに求めるような衝動が胸を突いた。
ふいに、もう一つ、小瓶が差し出された。
「熱冷ましの薬だ。飲め」
短い命令。
ダリルは躊躇った。
この薬を飲むことで、自分はこの男に生かされるのだと思うと、全身を焼くような悔しさがこみ上げた。
だが、拒めば、倒れるだけだ。
ダリルは、わずかに眉を寄せ、唇を開いた。
薬瓶の縁が触れる。
微かに苦い液体が喉を滑っていった。
その間、ロデリックは何も言わず、ただじっと見下ろしていた。
その視線は支配するでも、慰めるでもなかった。
※
夜明けの光が、遠く地平を染めていた。霧を纏った馬車は、ゆるやかに坂を登っていく。
ダリルは、かすかに頭を持ち上げる。
まだ身体は重い。
薬のおかげで高熱こそ脱したが、力が入らない。肌の下で疼く熱と、傷の痛みが、じわじわと身体を蝕んでいる。
銀鎖が手首で軋んだ。
その重さが、捕虜である現実を嫌でも突きつけてきた。
車輪が、ゴトリと大きな石を乗り越えると視界が開ける。
眼前に広がっていたのは、巨大な白壁だった。
ヴェステンベルク帝国の心臓──帝都アウレリア。
朝焼けに照らされ、漆喰の城壁は淡く金色を帯びている。高くそびえる城門には、巨大な紋章が掲げられるのは金の獅子と銀の剣。それは、この帝国が誇る武と栄光の象徴だった。
巨大な鉄門の前で、馬車は一度だけ速度を緩める。
門衛たちが馬車に近づき、手早く視線を走らせた。
質素な作りの馬車。
軍装の護衛も最小限。
一瞬、門番たちが警戒を強めたのが伝わった。
だが──控えめに掲げられた軍旗を目にした瞬間、彼らの表情が一変した。
雷鳴を纏う獅子の紋章。
それを確認した門番たちは、慌てて最敬礼を取った。
この馬車は、皇家の血を引く「大公」ロデリック・フォン・ヴェステンベルクのものだ。
道が即座に開かれる。
誰も、馬車に一言も問いを発することなく、ただ頭を垂れる。
ダリルは、銀鎖に縋りながら、その様子を黙って見つめていた。
質素な車体など、誰も見ていない。
見ているのは、──そこに刻まれた「血」の証だけだった。
(……ここでも、名がすべてだ)
喉の奥で、乾いた苦笑が生まれた。
誇りも、意志も、ここでは何の意味も持たない。
この帝都では、血筋と権威だけが、絶対だった。




