2.番という名の檻
ダリルはかすかな揺れで、目を覚ました。
頭が重い。
身体の芯がまだ熱を持ったまま、じわりと鈍痛を訴えている。
目を開けると、暗い天蓋が見えた。
いや、木板張りの天井──揺れている。
馬車だ。
次に気づいたのは手首に残る冷たい重み、銀鎖。
身体を動かそうとすると、微かに痛みを覚え手が肩口に伸びる。
触れた指先に、布の感触があった。
包帯──手当ての跡。
昨晩の出来事を思い出した瞬間、鈍い怒りが生まれた。
(……施しなど、求めた覚えはない)
ダリルは身を起こそうとした。
だが、馬車の振動が揺らぎ、バランスを崩す。
その時だった。
目の前に、黒い手袋をはめた無骨な指が無言で差し出されていた。
ダリルは、その手を見た。
触れもせず、ただそこに差し出されているだけ。
奪うのではなく、ただ差し伸べられているだけ。
だが、ダリルは睨み返すだけだった。
その手を借りることは、自分を裏切ることだと思った。
無言の拒絶に、男──ロデリックは何も言わず、手を引っ込めた。
馬車の中には、微かな革の軋みと、車輪の音だけが満ちている。
向かい側の席。
ロデリックは無言のまま、外套を肩にかけ、ただ目を閉じて座っていた。
その口から、短く、必要最低限の言葉だけが落とされた。
「帝都へ向かう。お前は、俺の監護下に置かれた」
ダリルは一瞬、目を細めた。
(帝都……)
ヴェステンベルク帝国の心臓、敵地の中心。
鎖に繋がれたまま、そこへ運ばれる。
戦いではなく、契約の檻へ。
ダリルは歯を食いしばった。
身体はまだ思うように動かないが、それでも、抗う心だけは失っていない。
屈するわけにはいかない。
何もかも、奪われる前に──ダリルは銀鎖の冷たさを指先で確かめ、静かに目を閉じ重い身体を座席に預けた。
捕虜となった身で、オメガとしての自分に何が待っているかなど、嫌でも知っていた。
α(アルファ)──支配する側。
Ω(オメガ)──支配される側。
世が変わろうとも、番という絶対の鎖からは逃れられない。
この世界には、稀に生まれる特別な性がある。
α、β、Ω。
表向きには平等を謳う国もあるが、実態は違った。
社会はαを頂点とする構造で成り立ち、Ωは特別であるがゆえに管理され、神聖視され、時に恐れられた。
ヒート(発情)を抑えるための薬、抑制剤は確かに普及している。
だが、それは完璧な制御ではない。
長期使用による副作用や、耐性の問題も知られており、「本物のΩ」であることを証明するため、あえて抑制剤を使わない家系も存在した。
特に、貴族社会においては。
自然な発情を迎え、番を選び取ることが血統の純粋性と誇りの証とされた。
番契約は、ただの儀礼ではない。
一度、魂に刻まれた絆は死ぬまで解けない。
裏切りも、拒絶も許されない。
社会的にも法的にも、番同士は運命共同体と見なされ片方が破滅すれば、もう片方も社会的に破滅する。
番を選ぶことは、家の未来を選ぶことだった。
裏切れば、ただ個人が破滅するだけではない。一族も、地位も、国の秩序さえも傷つけかねない。
ダリルは、小さく息を吐いた。
──だからこそこんな形で、獅子殿下の「番」として扱われるなど、屈辱でしかなかった。
運命に選ばれるのではなく、意志を持たずただ発情しただけの存在として──。
発情してしまえば身体は裏切る。
だが、心までは屈するものかと──ダリルは震える指先をぎゅっと握り込んだ。